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三品目 カレー
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教室のざわめきの中、澪が静かに席に着くと、隣の席の昭一が声をかけてくる。
「昨日、大丈夫だったか?」
澪は少し驚いたように目を丸くして、けれどすぐ、ふっと小さくうなずく。
「……うん。ありがとう」
その返事が思ったより素直だったことに、澪自身も少し戸惑っていた。
少しの沈黙のあと、澪がぽつりとこぼす。
「また今度……行ってもいい?」
昭一は驚きつつも、照れ隠しのように笑った。
「もちろん。うちの母ちゃん、きっと喜ぶ」
澪は小さく笑い返す。それは昨日とは違う、ほんのわずかに柔らかい笑顔だった。
学校を出たあと、澪は一人でゆっくりと歩いていた。
矢崎家のことは、心のどこかで思い出しながらも、今日は寄るつもりはなかった。
“もう少し時間が経ってから……”
そんな気持ちで、風に揺れる制服の裾を見つめながら歩いていたそのとき——
「……あれ? 澪ちゃん?」
顔を上げると、前方に良子が立っていた。
コンビニ袋を片手に、こっちをじっと見ている。
「びっくりした~。一人で帰り? ちょっと歩こうよ」
いつのまにか始まった女子トークに、澪の表情も少しずつ柔らかくなる。
「……でさ、澪ちゃんって、あたしよりちょっと大人っぽいとこあるよね。」
「え? そんなことないと思うけど……」
「あるって。ミステリアスってやつ?」
「……ミステリアス……?」
「うん、カッコいいって意味!」
良子が屈託なく笑いかけると、澪も思わず笑ってしまった。
しばらく歩いたあと、良子がふと思いついたように言った。
「ねぇ、うち寄ってかない? 母ちゃん今日カレーだって言ってたし、たぶん喜ぶよ」
澪は一瞬、立ち止まって戸惑った。
でもすぐに、昨日の夜のちゃぶ台と、あたたかな笑い声を思い出した。
「……うん。お礼もちゃんと言わなきゃ、だし」
玄関の引き戸を開けて中に入ると、すでに和夫が帰ってきていた。
居間から顔を出すなり、弾けるような声が飛ぶ。
「あっ、兄ちゃんの彼女だ!」
澪はびくっとして、慌てて手を振る。
「あ、ちが……!」
すかさず、隣の良子が訂正する。
「違うの! 今日はあたしのお客さん!」
和夫が「ふ~ん?」とからかうような笑みを浮かべる中、澪は頬を赤らめながら、小さく頭を下げた。
「あ、こんにちは。昨日のお礼、言いに来ました。ありがとうございました」
「いいのいいの、あがってあがって。おやつあるから、ちょっと座ってなさいね。
あと今日もご飯食べていくでしょ?できるまで良子と遊んでやってね」
「うざ。もうガキじゃねーつーの」
良子がそう言いながらも、どこか嬉しそうに後ろ髪をかき上げる。
母ちゃんはにこやかに笑い、キッチンへと戻っていった。
ちゃぶ台のある居間に入ると、澪の肩の力が少しずつ抜けていく。
いつもの家とは違うのに、なぜか“ただいま”と言いたくなるような、不思議な空間。
ちゃぶ台の上には、懐かしい雰囲気の器。
その中には、パンの耳を揚げて砂糖をまぶした素朴なお菓子が盛られていた。
「……これ、パン?」
「パンの耳を揚げたやつだよ。ウチではカリントウって呼んでる。あと、はい、ラムネ!」
良子が得意げに言いながら、ビンの飲み物を差し出す。
戸惑いながらも澪はひと口、カリントウをつまんでみた。
カリッ、と軽い音。じんわりと甘さが広がる。
「……おいしい」
口元が自然にほころぶ。
エプロンの裾で手を拭きながら振り向いた母ちゃんは、ふわっと優しく微笑んだ。
「それはよかった。あんたが楽しそうに食べてくれて、私もうれしいよ」
その言葉に、澪の胸がじんわりとあたたかくなる。
こんなふうに誰かに“歓迎される”のは、いったいどれくらいぶりだろうか。
良子との会話は、自然とちゃぶ台のある居間で始まった。
2人並んでスマホをいじっていると、良子がふと澪の画面をのぞき込む。
「え、澪ちゃんTikTokやってないの?」
「……見るだけ。投稿とかはしないかな」
「もったいなっ。髪とか巻いて制服で一周してみ? バズるから」
「え、そんなんで……?」
「いや、マジでマジで。映えそうだもん、ほら横顔とかさー」
からかうような笑顔で良子が肩を押してくる。
澪は照れくさそうに笑いながら、まんざらでもない顔をしていた。
そこへ、玄関の戸がガラッと開く音が響く。
「ただいま~」
昭一がランドセルならぬ学生カバンを肩に帰ってきた。
居間に入ってきた瞬間、澪の姿を見て目を丸くする。
「……あれ!? なんでいるの!? てか、マジで?」
「たまたま会って誘ったの!今日は私のお客さんね!」
良子がすかさず口を挟むが、昭一はもうテンションが上がっていた。
「じゃあさ、あれ見せてやろっか? 昭和の三種の神器、第二弾!」
そう言って、押し入れから古いカセットテープとラジカセを取り出してくる。
「これ、録音とかもできるんだぜ? “せーのっ”とか言って同時に録るの、超ムズイんだけどさ」
澪が興味深そうに近づくと、今度は和夫が負けじと立ち上がる。
「ならこれ!オレの秘密兵器!」
そう言って、棚の奥からホコリをかぶった超合金ロボットを取り出す。
銀色の塗装が一部剥げているものの、ぎこちなく腕が動くギミック付き。
「昔のヒーローはな、変身よりまず“根性”なんだぞ!」
「はいはい、もううるさいんだけど、今日は私のお客さんなの!」
良子が再び主張するが、みんなのテンションは上がりっぱなしだった。
そのとき、ガラガラッと勢いよく玄関が開く音がした。
「おう、ただいまー!」
どっしりとした足音とともに現れたのは父・鉄男。昭一に似た無骨な顔立ちがにやりとほころぶ。
「おっ、澪ちゃんいらっしゃい! 母ちゃん、酒出してあげて!」
「出すわけないでしょッ!!!」
母ちゃんの怒号が居間に響き渡り、みんなが一瞬だけ静かになる。
そして次の瞬間、全員がどっと笑った。
澪も、つられて小さく笑った。
ちゃぶ台の上に、カレーの湯気が立ちのぼる。
母ちゃん特製の“具が大きい昭和カレー”は、どこか懐かしくて、優しい香り。
「いただきまーす!」
和夫の元気な声を皮切りに、みんなが手を合わせた。
澪も、少し遅れて「いただきます」と小さくつぶやく。
それだけのことなのに、まるで長い旅のあとに、ようやく“席”を見つけたような気持ちになった。
父ちゃんがゴツゴツした手でカレーをかきこみながら言う。
「このじゃがいもな、畑のやつだ。知り合いの八百屋がくれてよ」
「えー、あの八百屋のおじちゃん? いつも口悪いけど、優しいよね」
良子が笑う。
昭一がにんじんをつつきながら澪に話をふる。
「……うちのカレー、甘口だけど大丈夫だった?」
「うん。……すごく美味しい。じゃがいも、ほくほくで」
「だろ~! うちの母ちゃん、カレーだけはマジでプロ級!」
「だけ、は余計」
母ちゃんの箸が飛んできそうな空気に、みんなが笑った。
その輪の中で、澪もそっと笑った。
ふと和夫が、口のまわりをカレーで黄色くしながら言った。
「このちゃぶ台って、魔法だよね。ごはん食べるだけなのに、なんか楽しくなる!」
「魔法とか……和夫、また特撮の見すぎじゃん」
「いいの!ちゃぶ台ヒーローってのがあってもいいと思うもん!」
良子が笑いながら「バカ」と頭を小突く。
でもその言葉も、ちゃんと姉弟のやりとりに見えて、澪は胸の奥が少しだけ、熱くなった。
ちゃぶ台の向こうには、温かい笑顔があった。
父ちゃんも、母ちゃんも、昭一も良子も和夫も、みんなこの輪の中に“誰かを迎える”のが自然にできる人たちなんだ。
澪はそっとスプーンを置いて、小さくつぶやく。
「……ごちそうさまでした」
母ちゃんが優しく目を細める。
「また、いつでもおいで」
2回目の“ちゃぶ台”は、昨日より少しだけ近く感じた——。
——
靴を履きながら、澪は「じゃあね」と小さく手を振る。
昭一はドアの前で少し照れたように笑って、
「……今日、来てくれて、なんかうれしかった。
また、ちゃぶ台囲もうな」
澪がうっすら笑い、
「……うん」
玄関の戸を閉めると、まるで夢から目が覚めたようだった。
夕暮れ、空に薄く残った茜色が澪の背中を照らす。
矢崎家の玄関を出たあと、しばらくの間、澪はちゃぶ台のある居間を思い返していた。
みんなで笑いながら食べたカレー。
じゃがいもの甘さ。和夫の無邪気な声。
母ちゃんの「またおいで」の一言——。
——
家に着くと、玄関は暗かった。
母の靴もない。リビングのソファに投げ出されたブランケットが、ひときわ寒く見える。
「……ただいま」
返事は、なかった。
スリッパを脱ぎながら、心のどこかで「やっぱり」と思っていた。
母はまた、誰かと会っているのだろう。
スマホ越しの出会いに、何を求めているのか——もう、澪にはわからなかった。
自室のベッドに体を沈め、真っ暗な天井を見上げる。
矢崎家との時間が、あたたかすぎて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……昭一くん」
小さな声がこぼれる。
けれど、そこには依存でも憧れでもない、感謝と誓いが混じっていた。
澪は、布団をぎゅっと握りしめる。
「私も……変わりたい」
そしてもう一度、瞼を閉じた。
今度は涙じゃなく、小さな希望を抱いて。
「昨日、大丈夫だったか?」
澪は少し驚いたように目を丸くして、けれどすぐ、ふっと小さくうなずく。
「……うん。ありがとう」
その返事が思ったより素直だったことに、澪自身も少し戸惑っていた。
少しの沈黙のあと、澪がぽつりとこぼす。
「また今度……行ってもいい?」
昭一は驚きつつも、照れ隠しのように笑った。
「もちろん。うちの母ちゃん、きっと喜ぶ」
澪は小さく笑い返す。それは昨日とは違う、ほんのわずかに柔らかい笑顔だった。
学校を出たあと、澪は一人でゆっくりと歩いていた。
矢崎家のことは、心のどこかで思い出しながらも、今日は寄るつもりはなかった。
“もう少し時間が経ってから……”
そんな気持ちで、風に揺れる制服の裾を見つめながら歩いていたそのとき——
「……あれ? 澪ちゃん?」
顔を上げると、前方に良子が立っていた。
コンビニ袋を片手に、こっちをじっと見ている。
「びっくりした~。一人で帰り? ちょっと歩こうよ」
いつのまにか始まった女子トークに、澪の表情も少しずつ柔らかくなる。
「……でさ、澪ちゃんって、あたしよりちょっと大人っぽいとこあるよね。」
「え? そんなことないと思うけど……」
「あるって。ミステリアスってやつ?」
「……ミステリアス……?」
「うん、カッコいいって意味!」
良子が屈託なく笑いかけると、澪も思わず笑ってしまった。
しばらく歩いたあと、良子がふと思いついたように言った。
「ねぇ、うち寄ってかない? 母ちゃん今日カレーだって言ってたし、たぶん喜ぶよ」
澪は一瞬、立ち止まって戸惑った。
でもすぐに、昨日の夜のちゃぶ台と、あたたかな笑い声を思い出した。
「……うん。お礼もちゃんと言わなきゃ、だし」
玄関の引き戸を開けて中に入ると、すでに和夫が帰ってきていた。
居間から顔を出すなり、弾けるような声が飛ぶ。
「あっ、兄ちゃんの彼女だ!」
澪はびくっとして、慌てて手を振る。
「あ、ちが……!」
すかさず、隣の良子が訂正する。
「違うの! 今日はあたしのお客さん!」
和夫が「ふ~ん?」とからかうような笑みを浮かべる中、澪は頬を赤らめながら、小さく頭を下げた。
「あ、こんにちは。昨日のお礼、言いに来ました。ありがとうございました」
「いいのいいの、あがってあがって。おやつあるから、ちょっと座ってなさいね。
あと今日もご飯食べていくでしょ?できるまで良子と遊んでやってね」
「うざ。もうガキじゃねーつーの」
良子がそう言いながらも、どこか嬉しそうに後ろ髪をかき上げる。
母ちゃんはにこやかに笑い、キッチンへと戻っていった。
ちゃぶ台のある居間に入ると、澪の肩の力が少しずつ抜けていく。
いつもの家とは違うのに、なぜか“ただいま”と言いたくなるような、不思議な空間。
ちゃぶ台の上には、懐かしい雰囲気の器。
その中には、パンの耳を揚げて砂糖をまぶした素朴なお菓子が盛られていた。
「……これ、パン?」
「パンの耳を揚げたやつだよ。ウチではカリントウって呼んでる。あと、はい、ラムネ!」
良子が得意げに言いながら、ビンの飲み物を差し出す。
戸惑いながらも澪はひと口、カリントウをつまんでみた。
カリッ、と軽い音。じんわりと甘さが広がる。
「……おいしい」
口元が自然にほころぶ。
エプロンの裾で手を拭きながら振り向いた母ちゃんは、ふわっと優しく微笑んだ。
「それはよかった。あんたが楽しそうに食べてくれて、私もうれしいよ」
その言葉に、澪の胸がじんわりとあたたかくなる。
こんなふうに誰かに“歓迎される”のは、いったいどれくらいぶりだろうか。
良子との会話は、自然とちゃぶ台のある居間で始まった。
2人並んでスマホをいじっていると、良子がふと澪の画面をのぞき込む。
「え、澪ちゃんTikTokやってないの?」
「……見るだけ。投稿とかはしないかな」
「もったいなっ。髪とか巻いて制服で一周してみ? バズるから」
「え、そんなんで……?」
「いや、マジでマジで。映えそうだもん、ほら横顔とかさー」
からかうような笑顔で良子が肩を押してくる。
澪は照れくさそうに笑いながら、まんざらでもない顔をしていた。
そこへ、玄関の戸がガラッと開く音が響く。
「ただいま~」
昭一がランドセルならぬ学生カバンを肩に帰ってきた。
居間に入ってきた瞬間、澪の姿を見て目を丸くする。
「……あれ!? なんでいるの!? てか、マジで?」
「たまたま会って誘ったの!今日は私のお客さんね!」
良子がすかさず口を挟むが、昭一はもうテンションが上がっていた。
「じゃあさ、あれ見せてやろっか? 昭和の三種の神器、第二弾!」
そう言って、押し入れから古いカセットテープとラジカセを取り出してくる。
「これ、録音とかもできるんだぜ? “せーのっ”とか言って同時に録るの、超ムズイんだけどさ」
澪が興味深そうに近づくと、今度は和夫が負けじと立ち上がる。
「ならこれ!オレの秘密兵器!」
そう言って、棚の奥からホコリをかぶった超合金ロボットを取り出す。
銀色の塗装が一部剥げているものの、ぎこちなく腕が動くギミック付き。
「昔のヒーローはな、変身よりまず“根性”なんだぞ!」
「はいはい、もううるさいんだけど、今日は私のお客さんなの!」
良子が再び主張するが、みんなのテンションは上がりっぱなしだった。
そのとき、ガラガラッと勢いよく玄関が開く音がした。
「おう、ただいまー!」
どっしりとした足音とともに現れたのは父・鉄男。昭一に似た無骨な顔立ちがにやりとほころぶ。
「おっ、澪ちゃんいらっしゃい! 母ちゃん、酒出してあげて!」
「出すわけないでしょッ!!!」
母ちゃんの怒号が居間に響き渡り、みんなが一瞬だけ静かになる。
そして次の瞬間、全員がどっと笑った。
澪も、つられて小さく笑った。
ちゃぶ台の上に、カレーの湯気が立ちのぼる。
母ちゃん特製の“具が大きい昭和カレー”は、どこか懐かしくて、優しい香り。
「いただきまーす!」
和夫の元気な声を皮切りに、みんなが手を合わせた。
澪も、少し遅れて「いただきます」と小さくつぶやく。
それだけのことなのに、まるで長い旅のあとに、ようやく“席”を見つけたような気持ちになった。
父ちゃんがゴツゴツした手でカレーをかきこみながら言う。
「このじゃがいもな、畑のやつだ。知り合いの八百屋がくれてよ」
「えー、あの八百屋のおじちゃん? いつも口悪いけど、優しいよね」
良子が笑う。
昭一がにんじんをつつきながら澪に話をふる。
「……うちのカレー、甘口だけど大丈夫だった?」
「うん。……すごく美味しい。じゃがいも、ほくほくで」
「だろ~! うちの母ちゃん、カレーだけはマジでプロ級!」
「だけ、は余計」
母ちゃんの箸が飛んできそうな空気に、みんなが笑った。
その輪の中で、澪もそっと笑った。
ふと和夫が、口のまわりをカレーで黄色くしながら言った。
「このちゃぶ台って、魔法だよね。ごはん食べるだけなのに、なんか楽しくなる!」
「魔法とか……和夫、また特撮の見すぎじゃん」
「いいの!ちゃぶ台ヒーローってのがあってもいいと思うもん!」
良子が笑いながら「バカ」と頭を小突く。
でもその言葉も、ちゃんと姉弟のやりとりに見えて、澪は胸の奥が少しだけ、熱くなった。
ちゃぶ台の向こうには、温かい笑顔があった。
父ちゃんも、母ちゃんも、昭一も良子も和夫も、みんなこの輪の中に“誰かを迎える”のが自然にできる人たちなんだ。
澪はそっとスプーンを置いて、小さくつぶやく。
「……ごちそうさまでした」
母ちゃんが優しく目を細める。
「また、いつでもおいで」
2回目の“ちゃぶ台”は、昨日より少しだけ近く感じた——。
——
靴を履きながら、澪は「じゃあね」と小さく手を振る。
昭一はドアの前で少し照れたように笑って、
「……今日、来てくれて、なんかうれしかった。
また、ちゃぶ台囲もうな」
澪がうっすら笑い、
「……うん」
玄関の戸を閉めると、まるで夢から目が覚めたようだった。
夕暮れ、空に薄く残った茜色が澪の背中を照らす。
矢崎家の玄関を出たあと、しばらくの間、澪はちゃぶ台のある居間を思い返していた。
みんなで笑いながら食べたカレー。
じゃがいもの甘さ。和夫の無邪気な声。
母ちゃんの「またおいで」の一言——。
——
家に着くと、玄関は暗かった。
母の靴もない。リビングのソファに投げ出されたブランケットが、ひときわ寒く見える。
「……ただいま」
返事は、なかった。
スリッパを脱ぎながら、心のどこかで「やっぱり」と思っていた。
母はまた、誰かと会っているのだろう。
スマホ越しの出会いに、何を求めているのか——もう、澪にはわからなかった。
自室のベッドに体を沈め、真っ暗な天井を見上げる。
矢崎家との時間が、あたたかすぎて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……昭一くん」
小さな声がこぼれる。
けれど、そこには依存でも憧れでもない、感謝と誓いが混じっていた。
澪は、布団をぎゅっと握りしめる。
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