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導入

ジサツの為のささやかな勇気

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 どこで間違えたのか。

 良い大学に入って、出来れば医学部に入って、大学院に行って、医者になって、医者になれかったら企業に就職して、たった一人のかけがえのない友達をつくる。そんな人生を送りたかった。

 現実は厳しかった。なんだよ。俺が何をしたんだよ。必死に勉強して、鬱になって、結局高校受験で失敗して、大好きだった剣道も嫌いになって、鬱も治らなくて、大学も行けなかった。最後、悪あがきをした。小説家を目指した。小さな頃に憧れてたんだ。まあ、挫折した。誰も読んでくれなかった。こっちは命削ってるのに、誰も、誰一人だって読んでくれない。一人だけでもいいんだよ。なんで、なんで俺だけ……。

 教師は勉強して死なないと言った。でもどうだ。俺は死にかけた。あの教師は、死にかけるほど全力でやらなかっただけだろ。嘘つくなよ。

 「努力すれば報われる」という言葉が嘘だと気づいた時には、就職する気力もなかった。就職したところで、やっていける自身もなかった。慰めてくれる友達もいなかった。あるのは、俺を嘲笑する社会と、鬱陶しい家族だけ。

 父親一人、母親一人、弟一人、妹一人、俺一人、計五人家族……。いや、父は死んでいた。計四人に訂正する。



 光が完全に遮断された自室のベッドの上で、俺は泣いている。惨めだ。本当に惨めだ。

 最近は、家族から監視されている感じがする。「出来損ないが、生きてて恥ずかしくないのか? 」と語りかけてくるようだ。言わなくったってわかるさ。目が言ってるじゃないか。

 俺もなりたくてなった訳じゃないんだよ。わかれよ。全部、俺が悪いけどさ。もう、もう……やめてくれ。



 自室に泣き声がこだまする。そんな中、微かな足音が聞こえた。スリッパの、床と擦れる音。それが段々大きくなって、近づいてくる。
 俺は布団を被り、泣き声を押し殺した。足音は、すぐそこで止まった。距離的に、自室前の扉。ドアノブを回す音が聞こえなかったから、間違いない。足音の大きさと、リズムから、母親だと気づいた。

 「ねえ……でてきて……。話聞くから……」

 「…………」

 ほっといてくれ、話したくないって言ってやりたい。でも、声がかすれる。涙が溢れて、言葉にならない声しか出せない。

 「あの……」

 黙ってくれよ。頼む……頼むよ……。たとえ善意でも、苦しいものは苦しいんだよ。

 「ご飯……さめ……から……」

 黙れよ。なあ! 

 俺は反射的に壁を殴った。同時に、ドタバタと、大きな足音が聞こえた。後ずさりの音がする……、足音がちいさくなっていく。母親は去っていった。

 また、やってしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。

 手の甲が痛む。それ以上に心が痛む。

 俺は、懺悔の言葉すら、相手に直接伝えられないのか。そんな些細なこもまで……。惨めだ。

 俺は、目を閉じた。泥の中に沈んでいくようだった。身体が重い。何も、したくない。

 泣いて、寝て、泣いて、寝る。

 本当に、何のために生きているんだ? 俺。何か言えよ。……言えないよ。



 目覚めると、時計の針は二時を指していた。昼か夜かわからない。興味もない。

 部屋から出る。廊下は暗い。暗いから、家族は多分寝ている。目を凝らして見ると、扉前にはやや豪勢な食事と、手紙が配膳の上にある。俺はそれを持って、部屋に戻る。

 食欲はない。食事は不味そうに見える。手の込んだ料理ほど不味いものはない。俺みたいな死に損ないのために、そんな労力をかけて欲しくない。迷惑をかけたくない。迷惑をかけていると自覚するたびに、胸が締め付けられる。食事も喉を通らなくなる。

 とはいえ、食わないと死んでしまう。今日も試しに料理を口に入れてみた。涙とともに、吐き気が込み上げてくる。

 俺は飛び跳ねるように立ち上がると、すぐさまトイレに駆け込んで、全て吐いた。全く惨めだ。



 喉は焼けるように痛い。胃液の味がする。今日は好調だ。いつもは味なんて感じない。少しだけ、進歩している。もう少し生きていてもいいかな、なんて思ってしまう。

 「許されるのかな……」

 俺は呟いた。



 俺は自室に戻ると、手紙を読んだ。「完璧じゃなくてもいいから~」って内容だ。笑わせるな。俺は必要最低限もできないんだよ。いや、俺だって自立したいよ。でも、でも苦しいよ。……そう本人に直接言えない自分が嫌いだ。

 俺は手紙の裏に「必要最低限の生活もできない。他人に迷惑をかけないと生きていけない。それは果たして『生きている』と言えるの? 俺は生きたい、けど生きれなくなった。ただそこに存在しているだけじゃ嫌だ。人らしく生きて、人らしく死にたい」と書いた。



 俺は自室からベランダに出た。ここにいると、少し楽になれる。肺に空気がはいる。普段は石油で満たされているように、ただただ息苦しい肺に、まともな空気が入る。

 このささやかな自然は、俺の最後の砦だった。これがなくなると、それこそ何も出来なくなるだろう。

 少し楽になったから、少し勇気が出せるから、やってしまおうか。このままズルズル先送りにしたら、後悔するだろうし、心変わりしないうちに、行動に移そう。

 俺は深呼吸する。

 「人らしく生きて、人らしく死ぬ……か」

 手紙の返信を思い出す。遺書としては、まあ、上出来だろう。

 「人らしく生きれないなら、生きている価値がないなら……ゴミ捨てぐらいはやってしまおう、人間みたいに」

 俺は空を見上げた。月と星々が輝いている。来世でも、この美しい空を仰ぎたい。

 俺は月に向かって言った。夏目漱石の真似事だ。いや、シェークスピアかな? いやどっちでもいい。とにかく、最後ぐらいカッコつけたかったんだ。痛いけどさ。

 「月よ。私は、死も『生』の一部だと思うのだ。私の生き方を私が決めて良いのならば、私の死に方を私が決めてしまっても良いのではないか」

 ……案の定、痛々しい。だけど、清々しい。

 本当はこんなこと望んじゃいない。もっと生きていたかった。もし、生まれ変わったら……俺みたいな馬鹿の愚行を止めてやりたい。行動に移す前に、阻止したい。だけど、今世じゃ難しそうだ。俺は、俺を止められない。

 俺はベランダの手すりに足をかける。下はコンクリート。高さはあまりないが、頭から落ちれば、楽じゃないだろうが、とにかく死ねるだろう。自殺による一瞬の痛みより、今後『存在』していくだけの痛みのほうが、俺は怖い。

 次の瞬間、俺は地面目掛けて、飛んだ。
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