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第一部
1-1 底辺冒険者
しおりを挟むぽちゃん……。
懐かしい夢が途切れた。
魚が跳ねた音が、現実の波紋を作り、夢の水面を割っていく。
クリシュは首を振り、腐りかけた桟橋の上で、鈍く身体を起こした。
生温い潮の匂いに混じる、腐った魚の臭気が鼻腔を刺し、それだけで、ここが夢ではないことを思い知らされる。
(ここは……?)
数度まばたきして、目の前の景色を確かめる。
伸びる桟橋。その向こう、青鈍色に沈む広い湾。
「ああ……」
見慣れた場所だった。
ーーいや、見飽きたと言った方が正確かもしれない。
冒険者として日々、荷運びに通う場所。
それが、目覚めた先の現実だった。
(……疲れてるのかな)
いまさら、あの頃の夢を見るなんて。
しかも、こんなところで。
プレヴェザは比較的治安のいい港町――だが、酔い潰れて橋の下で脱ぎ捨てられても、誰も気に留めない町でもある。
(どうして……)
考えたところで答えは出ない。
だが、夢の残滓は、頭の片隅にこびりついて離れなかった。
髪をかき混ぜながら顔を上げる。
空と海の境界が、じわじわと滲み始めていた。
夜が明けるまで、そう長くはなさそうだ。
「……臭いな」
呟いて立ち上がる。
井戸から水を汲み、桶の水面を覗き込む。
そこに映ったのは――
髭の生えた、冴えない中年の男の顔だった。
故郷の町を出てから十数年ーー冒険者を目指したかつての少年は、もう若くはなかった。
故郷の街を出て一年目。
自分は、まだまだこれからだと思っていた。
王国の首都に留まり、冒険者となった。
仲間と仕事を探した。
見つからなかった。
他国人への差別があると知り、辺境へと流れた。
二十代になっていた。
まだまだ自分はできると考えていた。
運び屋となった。
ゴミ漁りから出世したと感じた。
そして、今ーー。
もう若くはない。
冒険者なら、中堅からベテラン、職人ならベテランと呼ばれる頃合いだ。
どちらも後進の指導にあたり、冒険者なら引退後を、職人なら独り立ちするかを考え始める年齢だ。
(……それが、このザマだ)
嘘つきだ、と。
誰にともなく、いや、自分自身に向かって呟く。
「嘘つきだ。僕は……嘘つきだ。エーレ、許してくれ……エーレ……」
鼻水が垂れ、ひげの隙間に滲んだ。
水面に映る顔が、ますますひどく見える。
「……はは。はは、ははは……」
笑い声だけが、人気のない港通りに響き渡る。
夜はもう明けきり、広い湾の水面が、眩しいほどにきらめいていた。
人気の少ない港どおりに、自分の声だけがやたらと響き渡る。
今日はこのままぼんやりしていたい気分だった。
だが、もうそろそろ港も人が増え始める時間だ。
*
水桶に顔を突っ込んだ後、濡れた髪をタオルで適当に拭きながら、港の坂道をとぼとぼと登る。
あの夢の余韻はまだ胸に残っていたが、時間は待ってくれない。朝の出勤時刻が迫っていた。
プレヴェザの朝は早い。漁師は夜明け前に海へ出て、魚商人は朝一番に騒ぎ出す。
潮風と魚の腐臭の入り混じるこの町では、寝坊は命取り。特に、冒険者稼業をしているなら尚更だ。
とはいえ、俺の仕事は……まあ、冒険者というより“便利屋”だ。
いや、“荷運びの亜種”と言った方が正しいかもしれない。
(もう何年も、似たような朝を繰り返してるな……)
坂の途中で、ふと立ち止まり、ギルドのある通りを見渡す。
潮風に吹かれた白壁の建物が並ぶ中、ひときわ古びた石造りの館――それが、俺の職場。
冒険者ギルド〈潮の契〉プレヴェザ支部。
ギルドの正面扉はすでに開いていた。
出勤組の冒険者たちが、眠そうな目を擦りながら掲示板を眺め、朝イチの依頼を物色している。
その中央に、見慣れた後ろ姿があった。
栗色の髪をきっちりまとめ、小柄な背中に控えめな威圧感。
おっとりした制服姿の――ギルドの暴君。
「おはようございます、ニザールさん」
くるりと振り返ったその人は、にこやかに微笑んだ。
アグネッタ・メリアノス。
ギルド受付嬢にして、数字と規則と「朝イチのチェックリスト」に命を懸ける女。
通称“アグ”。毒舌と事務処理の速さで、いろんな意味で怖れられている。
「今朝も魚臭いですね。昨日と変わらず、荷運びと倉庫管理の任務が一件、午後には予備枠で補充依頼が入る予定です。……あ、そうそう」
彼女は手元の記録表に視線を落としながら、さらっと言い足した。
「港から“アステリア荘”までの荷運び依頼が来てます。薬草と道具の搬送で、依頼主が同伴。午後までに完了予定。担当者、あなたで回しておきました」
「……同伴か。変わり者か、物見遊山か……」
ぼやきながら受け取り印にサインする。
ギルド印章の感触が、ほんの少しだけ現実を実感させた。
「気をつけてくださいね、最近、あのあたりで奇妙な話が多いですし」
「奇妙な話は、この町全体のことだろう」
「ごもっとも」
さらっと流しておいてから、彼女はふとこちらを見上げ、目元に笑みを浮かべた。
「……ところで、ちゃんと寝てませんね?」
「ん?」
「目が赤いし、顔がむくんでる。あと、その、若干うつむき加減。最近、顔色がだんだん中年の冒険者みたいになってきてますよ」
……俺は中年の冒険者だ。
「……だいたい、その通りだな」
「もうちょっと“夢と希望”持ちましょう。せめて“清潔感”くらいは」
うん、やっぱり毒舌だ。
*
ギルドの受付台、その横。
いつものように淡々と業務をこなしていたアグが、ふいに首をかしげた。
「……あら?」
その一言とほぼ同時に、入口の扉が軽く軋んで開く。
現れたのは、まだ年若い少年。
旅装は簡素ながら、身体にはどこか鍛えた痕があり、剣を吊った腰は年齢に見合わず落ち着いている。
背負った荷袋には、使い古した冒険者用の道具が収まっていた。
「あ……おはようございます、アグさん」
「おはようございます、リュクスくん。今日も朝から真面目ですね」
彼の名は――リュクス・セレイア。
冒険者階位は下から二番目の“セクンダ”。俺と同じ、底辺の仲間だ。
若いが、丁寧で、礼儀正しく、そしてちょっと生真面目すぎるところがある。
つまり、性格の良さを持て余しているタイプ。
「今日は……昨日の件、報告に来ました。あの、港の南の納屋にいたやつ、やっぱり“再生”してたみたいです」
「再生……?」
「ええ。斬ったと思ったら、また動いて……。で、依頼人の人が『これは標本にするのが難しいかも』って」
「難しいどころか、それもう“標本”じゃないんじゃ……」
俺は小声でつぶやいたが、リュクスには届かなかったらしい。
「とにかく、回収は無事終わってます。あとは検体番号と報告書だけ……あ、例の“欠片”、持ってきてます」
「ありがとう。じゃあ、受領証と引き換えに処理しますね」
アグはいつもの調子でにっこり笑いながら、カウンターの奥から帳票を取り出す。
リュクスはその手つきにすっかり慣れているようで、何の躊躇もなくサインをしていた。
――やれやれ、本当に律儀だな。
俺は隣の椅子に腰かけながら、さりげなくリュクスの横顔を盗み見る。
整った顔立ちに、不釣り合いなほど真剣な眼差し。
どこか影があるというか、目的意識だけで動いているような雰囲気がある。
そのまま黙って仕事だけしてれば、きっと“出世コース”を歩めるタイプだ。
……でも、この町に長くいれば、その“理想”がどれほど無力か、すぐに思い知ることになる。
「クリシュさん、おはようございます」
ふいにリュクスが、こちらを見て頭を下げてきた。
「よう。今日も朝から“再生モノ”か?」
「ええ……けっこう粘っこかったです」
「俺は今日、荷運びと倉庫管理だってさ。いつも通りの底辺ライフ」
「……でも、安定しているって意味では、それも大事かと」
マジメか。
だが、どこか憎めない。
“人を疑わない目”というのは、どこかまぶしい。……今の俺には、特に。
*
リュクスの明るい声に見送られ、俺は少しだけ深呼吸してから掲示板の前へと足を向けた。
ギルドの広間では、冒険者たちがそれぞれの“朝”を始めている。
剣を磨く者、仲間と談笑する者、机に突っ伏して寝落ちしている者。
多国籍の喧騒のなかに、どこか張りつめた空気があるのは、ここが「辺境の現実」だからだろう。
俺が籍を置くのは、プレヴェザの冒険者ギルド――通称〈潮の契(しおのちぎり)〉。
かつてこの町がニカイア帝国の保養地だった頃、辺境の治安維持と交易保護を目的に設立されたものだ。
今では、冒険者の登録や任務の仲介、階位の認定、活動資金の貸付などを担い、町の経済と治安を陰から支えている。
“ギルド”といっても、王都の指令に従うような中央集権ではない。各支部は、地域の実情に応じて運営されている。
この〈潮の契〉もまた、プレヴェザという雑多な港町の空気を映す鏡だ。
組合員には、他国から流れてきた傭兵崩れ、素性の知れぬ魔導師、農家からの出稼ぎ、かつての貴族階級の落人、そして――
何かを失い、追われ、流れ着いた男たちも。
規則はある。だが、それは「遵守」ではなく「秩序維持」のためにあるものだ。
多少の不正や小競り合いは黙認される。だが、大きな裏切りや禁術の使用が発覚すれば――容赦はない。
(この町で生きるためには、組合に名を連ねるしかなかった)
広間の中央。
そこに掲げられた、木枠の掲示板には紙片がびっしりと並んでいる。
任務の概要、報酬、階位の指定、それに依頼主の印章。
どれも誰かの危険と引き換えに成り立っている、“日常の死と金”だ。
──だが、そのほとんどは、俺には関係ない。
S級討伐。A級護衛。B級探索。
どれもこれも、上位階位の冒険者専用の札だ。
札そのものが違う色で印刷されていて、俺のような下っ端は、触ることすらできない。
このギルドには、I級(プリマ)からVI級(セクス)まで、六つの階位がある。
最上級のセクス級ともなれば、王都からの直命任務に呼ばれるような化け物ばかり。
中位のIV~V級でも、地方領主の護衛や魔物掃討の隊長格。
そして俺は──II級(セクンダ)。
ちょうど“見習いを卒業しただけ”の半端者。
依頼の選択肢も、自動的に限られてくる。
となると、下の方──掲示板の隅に貼られた、くたびれた“地味任務”の札が、俺の領分だ。
(……ある意味、分かりやすい)
雑草除去。荷運び。井戸の点検。
出たな、三大・地味任務。
最近追加された“下水施設の清掃”と“漁網の修繕”を加えれば、五大地味業務が完成する。
ふと、見覚えのある依頼札が目に入った。
《港湾倉庫の物品整理・第二便》
「……またこれか」
先週もやった。先々週もやった。
毎回、重たい箱を倉庫の奥から引っ張り出して、日焼けした帳簿とにらめっこしながら在庫を確認するやつだ。
最悪なのは、あの倉庫には“ネズミもどき”が出ること。
でかい。すばやい。しかも、たまに“言語”っぽいものをしゃべる。
(誰かが間違って魔術薬でもこぼしたんじゃないか……?)
記憶に残るあの「ニャハーン!」という鳴き声。
思い出しただけで、腰が痛くなる。
「お、また“倉庫整理王”のお出ましか?」
横から声が飛んできた。
茶化すようなその声の主は、筋骨隆々の巨漢冒険者だった。
名前は……ええと、なんだっけ。見た目どおり、筋肉で脳を圧迫された系の男だ。
「お前、先週もやってただろ。マジで専属かよ? ハハハハッ!」
「専属じゃない。……ただ、他に選択肢がないだけだ」
「そうかそうか、肉が足りないからなぁ~」
あんまりうるさいのでスルーしておく。
筋肉の人とは言葉が通じにくい。経験上、そう判断している。
掲示板に残された依頼を一通り見てみたが、結局、俺の手が届きそうなのはさっきの港湾倉庫整理と、あとは“洗濯場の警備”くらいだった。
洗濯場。つまりは井戸水の奪い合いを防ぐ役。
トラブルがあれば仲裁するんだけど……先日は老人同士の喧嘩に巻き込まれて、洗濯板で殴られた。
(……どっちにしても地獄だな)
でもまあ、生きてるだけで地獄なんだから、いまさらだ。
*
「……断ってばかりいると、利子だけが増えるのよ、ニザール君」
背後から、妙に落ち着いた声が飛んできた。
振り向くと、そこにいたのは――
「……ああ。見てたのか」
帳簿を小脇に抱えた、ギルドの経理担当・ニオビ・テアクラ。
年季の入った制服と巻きスカートの裾を揺らし、静かに歩み寄ってくるその姿は、どこか姉のように思えた。
彼女は「潮の契」の古参であり、通称〈帳簿魔女〉。
その名の通り、数字においては一片の情も持たない――が、かといって冷血というわけではない。
どちらかというと、温度のないやさしさで人を追い込むタイプだ。
「顔色、ひどいわよ……借金の利息、少し増えたけど?」
言葉の端に優しさがあるのが、逆に怖い。
俺はというと、何か言い訳を探そうと口を開いたが……やめた。
「……すまん」
「そうね。“すまん”で帳尻が合うなら、私の仕事も楽でいいのだけれど」
にこりともせず、手元の帳簿をぱたんと開く。
淡々とした動作だが、それはまるで――死刑執行の判決書を読むような静けさがあった。
「現在の借金総額、銀貨四百三十二枚。うち三割が延滞利子。
昨日支払った家賃分で、今月の最低返済ラインはクリア。でも……」
「でも?」
「……来月からの生活、どうするのかしらね?」
にこやかでも、皮肉でもない。
ただ、目の前の現実を“事実”として突きつける声。
その声音に、俺の返す言葉はなかった。
(やれやれ……)
思わず頭をかく。こういうときの自分の癖だ。
「……分かってる。昼までには、仕事に出るよ」
俺の声に、ニオビは小さくうなずき――それからふっと笑った。
「信じてるわ、“お兄さん”」
彼女の瞳には、どこか本気の情も混じっていた。
だが、そのまま帳簿を閉じる音は、まるで“最後通告”の鐘のようにも聞こえた。
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