黒き月の継承者 〜継承者は女難から逃げられない〜

Kei_Ogami

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第一部

1ー4 夜の訪問と風の夜明け

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 その夜。プレヴェザの空気は、昼よりもひときわ重たく、じっとりと肌にまとわりついていた。

 潮風の匂いが変わった気がする──そんな夜だった。

 俺は借り部屋の窓際に腰を下ろし、昼間もらった鍵を掌の中で転がす。
 銀製のそれは、妙に冷たくて、やけに重かった。

 (風が……止んでいる?)

 そんな違和感とともに、月が昇り、窓辺を淡い光が撫でていく。
 と、その時だった。

 部屋の空気が、かすかに震えた。

 「……こんばんは」

 音もなく、扉の前に立っていたのは──セイラ・フェアルーサだった。

 相変わらず、足音も前触れもない。
 まるで風の流れに紛れて、どこからともなく舞い降りたみたいに。

 「……来たか」

 思わず口をついて出た俺の言葉に、彼女は軽く頷き、それから小さく問いかけるように扉の前に立ちすくんだ。

 「……入っても、いい?」

 頷くと、彼女はそっと入ってきて、机の上に巻紙を一枚、置いた。細く繊細な指が、かすかに紙を震わせている。

 「正式な依頼は……もう、通ってるわ。でも……帳簿だけじゃ、伝えづらくて」

 言いかけて、ふと黙る。
 指先に、震えるような息が宿っていた。

 「……補足指示。内容は簡単……ただ、“何か"はあると思う、から」

 言い方には、迷いが見えてーーただ、伝えようとする意志だけは確かだった。

 「アステリア荘の奥……夢で見た場所と、昨日あなたに渡した鍵が、重なって見えたの」

 「へえ......。夢で見たって、そこに俺も出てきたのか?」

 からかい半分に返すと、セイラはわずかにまばたきをして──
 数拍の沈黙の後、ごく小さな声で

 「……“らしい"人が、いたかも」

 妙に曖昧で、含みのある言い方だった。
 言い終えたあと、ちょっと恥ずかしそうにローブの裾を握っている。

 「影、みたいなものがあって......。扉の前に、誰かが立っていた。それが、あなただと思ったの」

 低く囁くような声に、焦がれるような熱を感じた。
 昼間の彼女とは違う、どこか不安げで、どこか祈るような……そんな声音。

 「今回の依頼。あなたを選んだのは、わたしの判断よ」

 その一言に、俺は目を細める。

 「……帳簿のほうが、先に教えてくれたよ」

 彼女が軽く瞬き、少しだけ首をかしげた。

 「“搬出補助”なんて曖昧すぎる依頼文。地下区画の構造や封印の可能性も伏せられてた。
 ──でも、書式の隅にあんたの署名があった。それで、察しがついた」

 俺の言葉に、セイラは少しだけ目を見開き──
 それから、ふっと肩の力を抜いた。

 「……見つけられたのね。なら、良かった」

 それは微笑というより、安堵のほぐれ。
 張っていた糸がやっと緩んだような、柔らかさが滲んでいた。

 「……ただ」

 彼女はほんの一歩、そっと距離を詰める。

 「“そこ”が、呼んでいる。わたしでは……届かない場所があるの。“文書室”……記録と封印が残された場所。私は、封印を解き、記録を探したいの。
 だから……“あなた”を、案内人として立てた」

 「......案内といってもな。罠だったら、どうする?」

 冗談めかして返すと、セイラはふっと目を伏せ、少しだけ、笑ったような表情をみせた。

 「罠でもかまわないわ......。ううん、"文書室"が生きてるなら、罠はあると思う。だからーー」

 言いながら、小さな銀の小瓶を取り出し、そっとおいた。
 光を帯びた硝子越しに、蒼くきらめく香粉がゆるやかに揺れている。

 「これを。──“風封じ”の香。
 一時だけだけれど、空気を穏やかにして、魔導の揺らぎを鎮めてくれる」

 香りはまだ封じられているのに、かすかに記憶をくすぐるような気配がした。
 懐かしくて、どこか切ない。

 「これは……?」

 俺が問うと、セイラは少しだけ言葉を選ぶように、静かに答えた。

 「本来は、魔女が祈る前に使うの。風霊との対話を静かに保つために。でも……あなたには、必要になると思って」

 「“忘れる者”がいたから。"留める者”が必要になるの」

 セイラの瞳が、夜の色に沈む。
 その奥に、痛みのような、諦めのような光が宿っていた。

 「明日の朝。日の出前、港の桟橋で」

 そう言って、踵を返そうとしたそのとき──

 彼女はふと立ち止まり、ほんの少しだけ迷ったように、背中越しに言葉を落とした。

「……ひとりで見た夢は、たいてい……よく分からないまま、終わってしまうの。
でも……風って、誰かがそばにいるときのほうが、ちゃんと……吹く気がするの」

 声はとても小さく、どこか自分に言い聞かせるようだった。

 そうして彼女は、夜に溶けるように去っていった。
 残されたのは、机の上の鍵と──

 かすかに揺れている、風にも似た想いの痕跡だった。



※セイラ視点

 風が鳴っている。
 目には見えないのに、時おり酷く饒舌になる。

 「……やめて」

 誰にともなく囁いて、セイラはそっと身じろぎした。
 夜明け前。東の空に、うっすらと藍が混じり始める頃。

 プレヴェザの朝は、いつも湿り気を含んでいて、潮の香りに、ほんのわずかな鉄の匂いが混ざっている。
 それは、彼女にとって“目覚めの合図”だった。

 小さな鞄に詰められたものは、ほんのわずか。
 着替え、施術道具、紙束──そして、古い夢日記。

 その横に、一枚の控え。
 昨夜、彼に渡した補足依頼の写しだった。書いては破り、破っては書き……十数度の迷いの末に残した、一文。

 (……あれで、よかったのかな)

 彼の部屋に差し込んだ月光、掌に触れた銀の鍵。
 まるで夢のように淡くて、でも確かに現実だった記憶。

 (私、変に見えなかった? 声が震えてたかも......)

 思い返すたび、胸の奥がざわつく。

 窓を細く開けると、塩気を含んだ朝の風がすべり込んできた。
 肌に触れた瞬間、耳元にかすかなささやきが届く。

 ──「揺れている、ね」

 どこからともなく現れた、淡い光の鳥影。
 それは、羽の輪郭さえ曖昧な風の精霊、《アルファレア》。

 「セイラ。きみの心が、いまにも泣き出しそうな顔をしてるよ」

 精霊の声は、人の言葉よりも、もっと静かに心へ染みてくる。

 「……泣いてなんか、ないよ」

 セイラは目を細めて、そう返す。けれど、声はほんの少しだけ震えていた。

 ──風は知っている。

 泣いてなんか、ないと言ったその夜も、ほんとうは、声を殺して泣いていたことを。

 (……あれは、いつだったかな)

   十に満たない頃。
 母が教団から姿を消す、ほんの数日前。

 「セイラ。もしもこの先、ひとりになっても──風が、あなたを見てくれるわ」

 そう言って、母はわたしの髪をほどき、ゆっくりと梳かしてくれた。
 月明かりの下、細い指先が髪をすくうたび、風がふわりと頬を撫でていった。

 「だから、大丈夫。泣かなくても、声にしなくても……」

 その声は、とてもやさしかった。
 でも──あの夜、母はわたしの目を見なかった。
 立ち去るとき、最後に振り返ったその背に、風が巻きついていた。
 まるで「さよなら」と囁くように。
 それ以来、風の中に、母の気配を探す癖が、ずっと抜けないままでいる。


 (……おかあさん)

 声に出さずとも、風とともに心の奥で、その名がよみがえる。

 ──母は、治癒の魔女だった。けれど、その“やさしさ”が許されなかった。彼女は破門され、顔を伏せ、ただ風のように流れていった。

 「ひとりでも、大丈夫だって……思ってたのに」

 (──ちがう。ほんとは、慣れすぎてしまっただけ)

 そう、ひとりに。

 信じられるものを失って、それでも生きていかなきゃならなかった。
 誰にも縋れず、名を語ることさえ許されず──

 (……あの人も、同じだった)

 夢のなかで、鍵を持つ手がひどく寂しそうに見えた。
 肩に宿る痛みが、そのまま自分のものみたいで、目が覚めたあともしばらく、胸の奥がざわめいていた。

 ──ひとりで強くあることと、ひとりにされることは、ちがうのに。

 彼もまた、風のない場所に長くいた人なのかもしれない。

 誰かと関わるのが怖い。
 信じるということが、あまりにも遠い。

 けれど昨夜、彼と話したとき。

 胸の奥の、触れてはいけない場所が、ほんの少しだけ動いた気がした。

 「彼に、全部委ねるつもりは、ないのよ」

 セイラはぼそりと呟いた。

 ──信じてはいない。ただ、それでも。
 自分の目で見て、確かめたくなった。

 扉の奥にある“なにか”──それが何かも分からない。
 けれど確かに、夢の中であの場所は呼んでいた。鍵と、風と、微かな気配で。

 「でもね、アルファレア。もし、あの人が“扉の向こう側”まで行けるのだとしたら……」

 ふわりと浮いた風霊が、彼女の肩にとまり、静かに羽音をたてた。

 「……ならば、きみも行くべきだ。風は、止まるためじゃなく、運ぶために吹くんだから」

 セイラは頷かなかった。けれど、ほんの少しだけ、目を閉じて風を受け入れた。

 足元に朝の気配が満ちてくる。
 陽光の前触れが、青い屋根の向こうでゆるやかに瞬いていた。

 (……あの場所に、行こう)

 それが正しいかどうかは、分からない。
 でも、誰かの手に触れて風が動いたなら──それは、きっと意味のあること。

 (……間違ってもいい。ただ、自分の意思で向かいたい)

 彼を選んだのは、信じたからではない。
 ただ、ほんの少しだけ。
 誰かと、風の匂いを分け合ってみたくなっただけ。

 やがて、桟橋が見えてくる。
潮の香りと、きしむ板の音。
そこにはまだ誰の姿もないけれど──夜明けの光は、確かに差し始めていた。

 プレヴェザの町は、ようやく夜の夢から覚めかけていた。
 石畳のあいだから朝露が滲み、階段の角には猫がひとつ、薄明に溶け込むように丸まっている。

 水面の向こう、船着き場にはまだ人影はなく、荷船だけがぎい、と風に軋んだ。
 眠りの残る町の輪郭をなぞるように、セイラは歩く。

 踵が地面を打つたび、風の精霊《アルファレア》がふわりと肩先から舞い上がり、また静かに戻ってくる。

 「こんなに静かだと、かえって緊張するわね……」

 独りごとにすらならないほど小さな声。
 だがアルファレアには聞こえていたのか、かすかに尾羽が揺れた。

 向かうのは、アステリア荘──いや、その地下、誰もが忘れかけた場所。
 けれど今、セイラの視線はその先ではなく、ただ一隻の小さな船を探している。

 (彼は、来るだろうか)

 問いは胸の中だけでくるくると回る。
 答えなど、まだない。だけど──
 その不確かな予感に、足は止まることなく進んでいた。

 そして、角をひとつ曲がったとき。
 朝焼けが、静かにセイラの横顔を照らした。
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