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第一部
1ー6 残響
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【アステリア荘・前庭】
門をくぐった瞬間、空気がまた変わった気がした。
重たい風が身体に纏わりつき、まるで、誰かに触れられたような感覚が背筋を這う。
門を背に、俺たちはしばらくの間言葉を失っていた。
眼の前に広がるのは、まるで"時"が止まったかのような庭。
苔に覆われた石畳。
歪んだ柵の内側に生い茂る、うねるような草木。
かつて、整えられていたであろう花壇や植え込みは、いまや奇怪なオブジェと化している。
草木は風の吹く向きとは逆に揺れ、折れた木々の枝が、ゆらゆらと語りかけるように揺れていた。
そのたびに、かすかな“囁き”のような音が耳元をすり抜ける。
「……風が巡らない。変ね、この感触……」
セイラが指を立て、空気を探る仕草をした。
それは魔術的な感覚による“風の探知”……らしい。
「風の流れが乱れてる……結界の外から、"何か"が干渉してるみたい」
セイラはそう言って、庭の奥を見つめる。
「この歪み方……中からじゃない。外から、無理やりって感じね」
「つまり……外の"何か”が封印をこじ開けて、無理やり入ろうとしてる?」
「ええ。それも、けっこう最近ーーあるいは、今も」
「......つまり、今にもバケモノが、"こんにちは”って訪ねてくる感じか」
「……もう!
そんな事言って、出てきたらどうするのよ」
その言葉と同時に、"風"が、庭の片隅──崩れた天使像の付近をかすめた。
そのときだった。
像の首が、かすかに傾いた。
「……いま、動いた……?」
リュクスが、低く息を呑む。
俺が構えを取り直すより先に、彼の足元から「べちっ」と嫌な音がした。
枯れた蔓の巣のようなものが、音とともに蠢き出す。
「リュクス、下──っ!」
「えっ──わっ!」
踏んだのは、干からびた蔓の塊……だと思ったが、それは“生きていた”。
粘ついた蔓がほどけて、中から舌のような器官を持った肉塊がぬるりと這い出して来る。
黒く干からびた植物のような質感、なのに、内側から脈打つ何かが透けて見える。
ナマモノ……いや、これは"異形”だ。
こちらを感知した瞬間、そいつはリュクスに向かって跳びかかってきた。
「下がってろ!」
反射で、俺は剣を抜いて振るった。
刃は、ねっとりとした肉を切り裂いた。
一太刀で裂いたはずの異形は、たちまちひしゃげるように崩れ──その内側から、赤黒い結晶のような欠片が転がり出た。
「ナマモノ......じゃないのか?」
「"ナマモノ"です、多分......。前、出くわしたのとは別の種類の」
「……石? いや、核のカケラか?」
拾い上げようとした俺の手を、セイラが止めた。
「触らないで、それ。まだ“息”があるわ。
魔力を喰って、また動き出す可能性がある」
その視線は鋭く、そのくせ妙に切なげでもあった。
「この庭……“還らなかった"ものたちが、取り残されてる感じがする。
……混ざって、取り込んで、かろうじて"存在"してる」
「……還らなかった?」
「ええ。何故かは分からないけど......。
記憶とか、魔力とか、命の断片とか......そういう、消えるはずだった"もの"たち。
それが、まだここに残ってるの」
「……死ねてない、ってことか」
「ええ。"生きてる”というより、“まだ死ねてない”って感じね。
誰かが気づいてくれるまで、ずっと"ここ"にいるのよ」
しばらく歩くと、石畳の先に、朽ちた噴水が見えた。
中央には、羽を広げた天使像が立っている……が、その足元には奇妙な細工の像が並んでいた。
そのひとつ、小さな“ネズミの像”の口元が、わずかに開いたように見えた。
「……っ、今、声……?」
セイラがふいに足を止め、眉をひそめる。
何かに話しかけられたような、そんな顔。
リュクスも、やや顔を青くしながら口を開いた。
「僕も......目が、合ったような気が......」
そのとき、微かな音がした。
ネズミの像が、空気を吐くように、かすれた声で呟いた。
「……選べ......きたのか……」
風に溶けるような、古く錆びを含んだような声だった。
やがて、庭の奥──半ば埋もれた小さな井戸が見えた。
苔だらけの蓋がかぶさっていて、なぜか……妙に湿っている。
井戸の蓋に近づくたび、足元の石が微かに“震える”。まるで、下から何かが蠢いているかのように。
視線を落とせば、石の継ぎ目に“塩の結晶”がこびりついていた。
セイラが井戸の縁に指を伸ばすと、風が逆流した。
「……深い。繋がってる。これは……海?」
"海”――その響きには、底知れぬ重さが宿っていた。
この井戸の底には、"彼方”と繋がる穴が口を開けている。
「井戸が、海に?」
「ええ。引き込まれるような“深さ”がある。……海魔の痕跡に似てる」
そのとき、地下の奥から、
ぐつ……ぐつ……と、“泡音”のような音が聞こえた気がした。
「やめて……ほんとに出てくる気がしてきた」
セイラがローブの袖をぎゅっと握る。
それを見て、リュクスがぎこちなく笑った。
風がざわめいた。
“黄昏の庭”は、まだ序の口。
けれど、はっきりと分かる。
この庭は、俺たちの“侵入”を知っている。
見られている。試されている。
風の奥底に、そんな気配が確かに潜んでいた。
それは風ではない。“何か”の吐息。
黄昏の庭は、目覚め始めていた――。
【アステリア荘・入口】
扉がきしみながら開いた。すえた埃の臭いが外気に流れ出る。
午前の陽光に照らされながらも、館は静かに死の眠りを続けていた。
白灰色の大理石と風化した青銅の装飾。石組みは崩れかけ、ひび割れた回廊の天井からは蔦が垂れていた。
咲く花々は、毒のような艶めきを帯びている。壁を這う模様はもはや建築意匠ではなく、何か別のもののように思えた。
――この建物は、長い眠りについていた。
「……入ろう」
セイラが先に足を踏み入れ、俺たちもそのあとに続いた。
最初の部屋は応接室だった。半ば朽ちたソファや燭台、覆いを掛けられたままの調度が残されている。
壁際には黒ずんだ暖炉、上には絵画の額縁が掛かっていたが、その多くは中身を失っていた。
だが、何かが“ここにいた”という気配だけは確かにあった。
「……ここ、何かあるわ。強くはないけど……何層も、重なってる」
セイラが足を止め、空間を見つめる。
ゆっくりと片手を掲げ、指先をぴんと張る。
指先がわずかに震え、空気をそっと撫でるような動き。魔術ではなく、何かを"感じとろう”とする仕草だった。指先から、静かに風が拡がっていく。
「過去の記憶……“残響”が、この部屋に染みついてるみたい」
「残響?」
「記憶って、時たま、"場"に染みつくの......。怒りとか、愛情とか、執着とか……忘れられなかったものが、魔力とくっついて、残るのよ」
「……なるほどな。で、それが今でも、漂ってるってわけか」
「ーー声が、残ってる」
そう言って目を閉じた彼女の眉間がぴくりと震え、次の瞬間、空気がわずかに震えたように感じた。
――衣擦れの音。古い香水の香り。誰かの、微笑み。
視界の端で人影が揺れる。
「セイラ!」
咄嗟に、俺は彼女の手を取った。
指先が氷のように冷たい。
「戻ってこい」
俺の声に、セイラの肩がわずかに震えた。
数秒後、彼女は目を開き、小さく息を吐いた。
「……ありがとう。ちょっと、引きずられそうになって」
頬には、涙の跡が一筋残っていた。
「……ごめん。平気。
少し、揺れただけ。あの人の記憶が……熱くて」
「あの人って……この部屋にいた?」
セイラは頷いた。
「待ってたの。ずっと、ずっとね......。
手紙を読んで、椅子に座って……胸の奥が、熱くなるくらい。
強く、誰かを……想ってた。
でも、その手紙、最後は、血に……」
言葉の先を彼女は飲み込んだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、リュクスの小さな声だった。
「椅子……」
リュクスが、セイラの隣でソファの背にそっと手を置く。
「不思議だけど、なんか……懐かしいっていうか、落ち着く。
でも、なんで何だ」
その視線が、自然に部屋の奥へと向く。壁にかけられた肖像画――
描かれているのは、青灰の衣をまとった貴婦人。
だが、目元が奇妙に滲んでいる。まるで、そこから“何か”が、覗いているように。
「……動いた?」
リュクスが小さく呟いた瞬間、絵の隣に据えられた鏡が、ぴしりと音を立ててひび割れた。
次の瞬間、鏡の中から黒い影が飛び出してきた。
「下がれ!」
反射的に剣を振るうも、手応えがない。影は霧となって、身体をすり抜けていく。
「くっ……魔力が……!」
身体強化がうまくいかない。脚が、追いつかない。
手応えのない斬撃が、再び、空しく空を裂く。
「リュクス、光術符を!」
「はいっ!」
リュクスが袂から光術符を取り出し、叩きつける。
ぱんっと破裂音。瞬間、小さな白光が部屋に弾けた。
影は火傷したように壁へと逃げ、霧散する。
「やった……か?」
肩で息をするリュクスの頬に、汗が伝っていた。
「……助かった。あれ、お前じゃなかったら……こっちが削られてた」
リュクスはきょとんとしたあと、照れたように笑った。
「ありがとうございます。でも……あれ、僕、前にも見たような……いや……」
言葉が途中で止まり、リュクスは眉を寄せる。
その目は、どこか遠くを見つめていた。
「どうした?」
俺が問いかけると、彼は少しだけ顔をしかめて、耳に触れた。
「……少し、耳が……キーンって鳴ってて。気のせいかな……さっきの影のせいかも……」
その言葉の裏には、どこか戸惑いと、説明しきれない不安が混じっていた。
「それに、さっき――絵の向こうから、誰かに見られた気がして……。あれが、出てくる前」
セイラがゆっくりと頷く。
「"見ていた"のは、たぶん…...気のせいじゃない。あの絵も、おかしかったもの。でも、まだ近くない。けど、そんなに......遠くでもないわ」
彼女の視線の先、壁の片隅にかかった一枚の肖像画。
くすんだ金枠の中、黒衣を纏った貴婦人の像が、部屋の中を静かに見下ろしていた。
「……気をつけろ。まだ、何かが残ってるかもしれん」
リュクスは言葉を返さず、そっと視線を逸らした。
その頬には、わずかに冷や汗が滲んでいた。
俺は小さく息を吐き、剣を鞘に戻す。
「……進むか。次は、奥の部屋だ。たしか……食堂があるはずだ」
次の扉の前に立ったとき、リュクスは一歩遅れてから俺の隣に並んだ。
その動きに、どこかぎこちなさが混じっていたのを、俺は気づかないふりをした。
門をくぐった瞬間、空気がまた変わった気がした。
重たい風が身体に纏わりつき、まるで、誰かに触れられたような感覚が背筋を這う。
門を背に、俺たちはしばらくの間言葉を失っていた。
眼の前に広がるのは、まるで"時"が止まったかのような庭。
苔に覆われた石畳。
歪んだ柵の内側に生い茂る、うねるような草木。
かつて、整えられていたであろう花壇や植え込みは、いまや奇怪なオブジェと化している。
草木は風の吹く向きとは逆に揺れ、折れた木々の枝が、ゆらゆらと語りかけるように揺れていた。
そのたびに、かすかな“囁き”のような音が耳元をすり抜ける。
「……風が巡らない。変ね、この感触……」
セイラが指を立て、空気を探る仕草をした。
それは魔術的な感覚による“風の探知”……らしい。
「風の流れが乱れてる……結界の外から、"何か"が干渉してるみたい」
セイラはそう言って、庭の奥を見つめる。
「この歪み方……中からじゃない。外から、無理やりって感じね」
「つまり……外の"何か”が封印をこじ開けて、無理やり入ろうとしてる?」
「ええ。それも、けっこう最近ーーあるいは、今も」
「......つまり、今にもバケモノが、"こんにちは”って訪ねてくる感じか」
「……もう!
そんな事言って、出てきたらどうするのよ」
その言葉と同時に、"風"が、庭の片隅──崩れた天使像の付近をかすめた。
そのときだった。
像の首が、かすかに傾いた。
「……いま、動いた……?」
リュクスが、低く息を呑む。
俺が構えを取り直すより先に、彼の足元から「べちっ」と嫌な音がした。
枯れた蔓の巣のようなものが、音とともに蠢き出す。
「リュクス、下──っ!」
「えっ──わっ!」
踏んだのは、干からびた蔓の塊……だと思ったが、それは“生きていた”。
粘ついた蔓がほどけて、中から舌のような器官を持った肉塊がぬるりと這い出して来る。
黒く干からびた植物のような質感、なのに、内側から脈打つ何かが透けて見える。
ナマモノ……いや、これは"異形”だ。
こちらを感知した瞬間、そいつはリュクスに向かって跳びかかってきた。
「下がってろ!」
反射で、俺は剣を抜いて振るった。
刃は、ねっとりとした肉を切り裂いた。
一太刀で裂いたはずの異形は、たちまちひしゃげるように崩れ──その内側から、赤黒い結晶のような欠片が転がり出た。
「ナマモノ......じゃないのか?」
「"ナマモノ"です、多分......。前、出くわしたのとは別の種類の」
「……石? いや、核のカケラか?」
拾い上げようとした俺の手を、セイラが止めた。
「触らないで、それ。まだ“息”があるわ。
魔力を喰って、また動き出す可能性がある」
その視線は鋭く、そのくせ妙に切なげでもあった。
「この庭……“還らなかった"ものたちが、取り残されてる感じがする。
……混ざって、取り込んで、かろうじて"存在"してる」
「……還らなかった?」
「ええ。何故かは分からないけど......。
記憶とか、魔力とか、命の断片とか......そういう、消えるはずだった"もの"たち。
それが、まだここに残ってるの」
「……死ねてない、ってことか」
「ええ。"生きてる”というより、“まだ死ねてない”って感じね。
誰かが気づいてくれるまで、ずっと"ここ"にいるのよ」
しばらく歩くと、石畳の先に、朽ちた噴水が見えた。
中央には、羽を広げた天使像が立っている……が、その足元には奇妙な細工の像が並んでいた。
そのひとつ、小さな“ネズミの像”の口元が、わずかに開いたように見えた。
「……っ、今、声……?」
セイラがふいに足を止め、眉をひそめる。
何かに話しかけられたような、そんな顔。
リュクスも、やや顔を青くしながら口を開いた。
「僕も......目が、合ったような気が......」
そのとき、微かな音がした。
ネズミの像が、空気を吐くように、かすれた声で呟いた。
「……選べ......きたのか……」
風に溶けるような、古く錆びを含んだような声だった。
やがて、庭の奥──半ば埋もれた小さな井戸が見えた。
苔だらけの蓋がかぶさっていて、なぜか……妙に湿っている。
井戸の蓋に近づくたび、足元の石が微かに“震える”。まるで、下から何かが蠢いているかのように。
視線を落とせば、石の継ぎ目に“塩の結晶”がこびりついていた。
セイラが井戸の縁に指を伸ばすと、風が逆流した。
「……深い。繋がってる。これは……海?」
"海”――その響きには、底知れぬ重さが宿っていた。
この井戸の底には、"彼方”と繋がる穴が口を開けている。
「井戸が、海に?」
「ええ。引き込まれるような“深さ”がある。……海魔の痕跡に似てる」
そのとき、地下の奥から、
ぐつ……ぐつ……と、“泡音”のような音が聞こえた気がした。
「やめて……ほんとに出てくる気がしてきた」
セイラがローブの袖をぎゅっと握る。
それを見て、リュクスがぎこちなく笑った。
風がざわめいた。
“黄昏の庭”は、まだ序の口。
けれど、はっきりと分かる。
この庭は、俺たちの“侵入”を知っている。
見られている。試されている。
風の奥底に、そんな気配が確かに潜んでいた。
それは風ではない。“何か”の吐息。
黄昏の庭は、目覚め始めていた――。
【アステリア荘・入口】
扉がきしみながら開いた。すえた埃の臭いが外気に流れ出る。
午前の陽光に照らされながらも、館は静かに死の眠りを続けていた。
白灰色の大理石と風化した青銅の装飾。石組みは崩れかけ、ひび割れた回廊の天井からは蔦が垂れていた。
咲く花々は、毒のような艶めきを帯びている。壁を這う模様はもはや建築意匠ではなく、何か別のもののように思えた。
――この建物は、長い眠りについていた。
「……入ろう」
セイラが先に足を踏み入れ、俺たちもそのあとに続いた。
最初の部屋は応接室だった。半ば朽ちたソファや燭台、覆いを掛けられたままの調度が残されている。
壁際には黒ずんだ暖炉、上には絵画の額縁が掛かっていたが、その多くは中身を失っていた。
だが、何かが“ここにいた”という気配だけは確かにあった。
「……ここ、何かあるわ。強くはないけど……何層も、重なってる」
セイラが足を止め、空間を見つめる。
ゆっくりと片手を掲げ、指先をぴんと張る。
指先がわずかに震え、空気をそっと撫でるような動き。魔術ではなく、何かを"感じとろう”とする仕草だった。指先から、静かに風が拡がっていく。
「過去の記憶……“残響”が、この部屋に染みついてるみたい」
「残響?」
「記憶って、時たま、"場"に染みつくの......。怒りとか、愛情とか、執着とか……忘れられなかったものが、魔力とくっついて、残るのよ」
「……なるほどな。で、それが今でも、漂ってるってわけか」
「ーー声が、残ってる」
そう言って目を閉じた彼女の眉間がぴくりと震え、次の瞬間、空気がわずかに震えたように感じた。
――衣擦れの音。古い香水の香り。誰かの、微笑み。
視界の端で人影が揺れる。
「セイラ!」
咄嗟に、俺は彼女の手を取った。
指先が氷のように冷たい。
「戻ってこい」
俺の声に、セイラの肩がわずかに震えた。
数秒後、彼女は目を開き、小さく息を吐いた。
「……ありがとう。ちょっと、引きずられそうになって」
頬には、涙の跡が一筋残っていた。
「……ごめん。平気。
少し、揺れただけ。あの人の記憶が……熱くて」
「あの人って……この部屋にいた?」
セイラは頷いた。
「待ってたの。ずっと、ずっとね......。
手紙を読んで、椅子に座って……胸の奥が、熱くなるくらい。
強く、誰かを……想ってた。
でも、その手紙、最後は、血に……」
言葉の先を彼女は飲み込んだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、リュクスの小さな声だった。
「椅子……」
リュクスが、セイラの隣でソファの背にそっと手を置く。
「不思議だけど、なんか……懐かしいっていうか、落ち着く。
でも、なんで何だ」
その視線が、自然に部屋の奥へと向く。壁にかけられた肖像画――
描かれているのは、青灰の衣をまとった貴婦人。
だが、目元が奇妙に滲んでいる。まるで、そこから“何か”が、覗いているように。
「……動いた?」
リュクスが小さく呟いた瞬間、絵の隣に据えられた鏡が、ぴしりと音を立ててひび割れた。
次の瞬間、鏡の中から黒い影が飛び出してきた。
「下がれ!」
反射的に剣を振るうも、手応えがない。影は霧となって、身体をすり抜けていく。
「くっ……魔力が……!」
身体強化がうまくいかない。脚が、追いつかない。
手応えのない斬撃が、再び、空しく空を裂く。
「リュクス、光術符を!」
「はいっ!」
リュクスが袂から光術符を取り出し、叩きつける。
ぱんっと破裂音。瞬間、小さな白光が部屋に弾けた。
影は火傷したように壁へと逃げ、霧散する。
「やった……か?」
肩で息をするリュクスの頬に、汗が伝っていた。
「……助かった。あれ、お前じゃなかったら……こっちが削られてた」
リュクスはきょとんとしたあと、照れたように笑った。
「ありがとうございます。でも……あれ、僕、前にも見たような……いや……」
言葉が途中で止まり、リュクスは眉を寄せる。
その目は、どこか遠くを見つめていた。
「どうした?」
俺が問いかけると、彼は少しだけ顔をしかめて、耳に触れた。
「……少し、耳が……キーンって鳴ってて。気のせいかな……さっきの影のせいかも……」
その言葉の裏には、どこか戸惑いと、説明しきれない不安が混じっていた。
「それに、さっき――絵の向こうから、誰かに見られた気がして……。あれが、出てくる前」
セイラがゆっくりと頷く。
「"見ていた"のは、たぶん…...気のせいじゃない。あの絵も、おかしかったもの。でも、まだ近くない。けど、そんなに......遠くでもないわ」
彼女の視線の先、壁の片隅にかかった一枚の肖像画。
くすんだ金枠の中、黒衣を纏った貴婦人の像が、部屋の中を静かに見下ろしていた。
「……気をつけろ。まだ、何かが残ってるかもしれん」
リュクスは言葉を返さず、そっと視線を逸らした。
その頬には、わずかに冷や汗が滲んでいた。
俺は小さく息を吐き、剣を鞘に戻す。
「……進むか。次は、奥の部屋だ。たしか……食堂があるはずだ」
次の扉の前に立ったとき、リュクスは一歩遅れてから俺の隣に並んだ。
その動きに、どこかぎこちなさが混じっていたのを、俺は気づかないふりをした。
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