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白の章

白三十二話

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 魚たちが宙を泳いでいた。体は透明で、ガラスのような質感だった。
 今、エーデルは魔書の中にいた。隣にはスターチス王がいて、同じように涼しげな風景を眺めていた。
 七月はシエララントに夏が来た。夜も気温が下がらず、おのずと眠る時間も遅くなった。エーデルは夜をスターチス王とチェスで過ごした。ゆるりと攻防を繰り返すうち、エーデルはクイーンで戦うことがお気に入りになった。勝つことはないが、守りながら攻めるやり方に慣れてきた。
 エーデルは冷たいお茶で喉を潤しながら呟いた。
「夏の暑さは好きですが、眠りが短くなるのは困りますね」
「昔はいつもひやりとする書庫で夏の夜を過ごしていました」
「それはいいですね。私も昼間は書庫で暑さを避けてみましょう」
 スターチス王はにこりと笑った。
「いい本がありますよ。明日探して見せましょう」

 翌日の大広間での昼食の時、スターチス王はエーデルに本を一冊渡した。青い表紙の厚い本だった。
「これは魔書です。ここでは何ですから、エーデルの部屋で見ましょう」
 エーデルはタイトルをちらりと見ると、『夏の本』と書いてあった。
 エーデルとスターチス王はエーデルの部屋へ行った。そして、長椅子に並んで座って、互いに本を見られるようにした。エーデルは本を渡され、それを膝の上に置き、目次を開いた。そして次のページを開いた。うっすらと光る文字で詩が載っていた。

「魚は空気の川を流れ  滝を目指す
 滝は吹き上がり  鳥が虹を飲む ……」

「この文字に触れればいいのですね?」
「ええ、一緒に見ましょう」
 エーデルは本に手を当てた。意識が本の中へ入り、椅子の背にもたれかかった。スターチス王は安全を確かめると、本の世界へ後を追って入った。
 本の中は涼しかった。空気が水のように澄んでいた。ガラスの魚は風鈴のようなリンという音を時々立てた。
 エーデルは本を持っていた。耳を澄ますと、ざざざーっという水の落ちる音が遠くで聞こえた。
「先に行ってみてもいいでしょうか?」
 エーデルが好奇心でスターチス王に尋ねた。
「ええ、ご自由にどうぞ」
 スターチス王は微笑んだ。
 先を歩くと、エーデルは不思議な光景を見た。逆さまの滝だった。地上に川が流れ、一点で行き止まり、水が上に上って吹き上がっていた。それは巨大な噴水のようだった。水飛沫が飛び、本の中の旅人に跳ねた。エーデルは水に洗われた清涼な空気を一時楽しんだ。透き通った虹が滝の麓に現れていた。
 開いた本の上から銀色のコップが二つ現れた。エーデルは詩を思い出した。“鳥が虹を飲む”……。
 コップの一つをスターチス王が手に取り、水の中を歩き、虹の袂まで行った。エーデルも後に付いて行った。スターチス王は虹の中にコップを差し入れた。
「エーデルもどうぞ」
 エーデルは本に水がかからないよう気を付けながら、透き通った虹をコップですくった。コップには虹が閉じ込められた。
「飲んでも大丈夫なのですか?」
 エーデルの心配をスターチス王は安心させた。
「ええ。味わってみて下さい」
 スターチス王は銀の杯をゆっくり干した。エーデルも一口飲んでみた。爽やかな味だった。空を水にしたらこんな味かなと思った。
 空から大きな鳥が羽ばたいて、滝の上に止まった。鳥は水浴びをしているようだった。
「そろそろ一度戻ってもいいですか、エーデル?」
「そうですね、分かりました」
 エーデルは手に持っていた本を閉じた。
 エーデルはいつもの部屋に戻った。スターチス王は説明した。
「この本は、夏の暑さを和らげたくて作られた本だと後書きに書いてありました。逆さまの滝は西大陸に本当にある場所だということです。涼しくなりましたか、エーデル?」
「ええ。久しぶりに旅をした気分です。後から続きを見に行きますね」
 エーデルは王から勧められた本を大事そうに胸に抱えた。
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