百年のしずく

永田英晃

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五 雫

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幻影が消えても、汐音の内側には、あの雨宿りの本屋の温もりがくすぶり続けていた。老店主の寂しげな笑顔。去っていく少年の背中。
彼女は知りたかった。あの日、本屋で出会った二人——あの、自分によく似た少女と、眼鏡の少年のその後を。

机の上に置かれた古書は、再び幻を見せる気配はなかった。
むしろ、湿気を帯びた紙の匂いがかすかに漂うだけだ。汐音はそっと手を伸ばし、表紙に触れた。冷たい。先程までの微かな温もりは消えている。

(どうすれば、また見られるのだろう)

彼女は目を閉じ、呼吸を深くした。
水上都市で教わる瞑想法は、神への祈りや自己の浄化のためだ。しかし今、彼女が求めているのは、過去への「接続」。それは規則にない行為であり、彼女自身もどうすればいいかわからなかった。

ふと、彼女はあることを思いついた。あの幻影の中で、少女が少年の顔を拭ったハンカチ。おばあちゃんからもらった、あの刺繍入りのハンカチだ。

彼女は引き出しを開け、白い麻布のハンカチを取り出した。端に刺された小さな花——祠の近くで見た青い花によく似ている。
彼女はこのハンカチを左手に持ち、右手で古書に触れた。

何かが、つながった。

目を閉じた暗闇の中で、ピンと張った弦が振動するような感覚が走った。
次に、雨音が、遠くから、そして急速に近づいてきた。

ざあ――――

視界が開ける。再び、あの雨の日の楡堂の中だ。

しかし今回は、視点が少し違う。
より近く、より鮮明に、あの「すれ違い」の瞬間を見ている。

眼鏡の少年——名は春馬はるまということが、老店主との会話から聞き取れた——が、カウンターで何か小包を受け取っている。
試験の参考書らしい。彼の表情は真剣で、少し疲れているようにも見える。
明日、引っ越しだという話が、店主との会話の端々から伝わってくる。父親の転勤で、田舎へ行くのだ。

一方、ドアの方では、少女——美百合みゆりが、雨に叩かれるガラス戸を不安そうに見つめている。
彼女もカバンを持っている。図書館で借りた本を返しに来たのだろう、袋からは何冊かの背表紙が覗いている。

「じゃあ、おじさん。長い間、本当にありがとうございました」
春馬が深々と頭を下げる。
「おう、元気でな。新しい土地でも、本はおとすなよ」
老店主は温かく、しかしどこか寂しそうに笑う。

春馬は背負ったリュックサックの紐を締め直し、いよいよ店を出ようとする。
その時、美百合がドアを押し開けた。

かん、と鈴が鳴る。
二人はぎりぎりですれ違う。春馬がドアを開け、美百合が入ってくる。
一瞬、彼女の傘の先端が春馬の足に当たりそうになり、彼はよける。

「あ、ごめんなさい!」

美百合が声を上げるが、春馬は「いえ」と小さく言うだけだ。彼はもう、この店とも、この街ともお別れを言う心境で、一刻も早く雨の中へ飛び出したいと思っている。感傷に浸っている余裕はない。

彼がドアを開け、冷たい雨の風が店内に流れ込む。

そして、美百合が無意識に傘を振り払う。

汐音は、この瞬間を、息をのんで見つめていた。幻影の中ではあるが、時間の流れが不思議にゆったりと感じられる。
飛び散るしずくの一つ一つが、光を反射してきらめきながら、ゆっくりと春馬の方向へと弧を描く。

ばしゃっ。

幾筋ものしずくが、春馬の頬、鼻梁、そして眼鏡のレンズに見事に命中した。

「わっ!」

春馬は思わず目を閉じ、顔を背ける。眼鏡は一瞬で曇り、彼の視界はぼやけた。上着の肩もみるみる暗い色に染まっていく。

「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

美百合の声には、本物の慌てと申し訳なさが込められている。彼女は大急ぎでカバンを漁り、中から白いハンカチを取り出す。
その端には、確かに一輪の青い花が丁寧に刺繍されている。汐音の持つものと瓜二つだ。

美百合はためらわずに春馬に近づき、ハンカチで彼の顔を拭い始める。
まずは眼鏡のフレームから。彼女の指が、春馬のこめかみに触れる。

(あ……)

幻影を見つめる汐音でさえ、その触感が伝わってくるかのような錯覚を覚えた。
生身の人間の肌の温もり。
それは、ロボットの人工皮膚や、水上都市の均一な室温とは全く異なる、生きている証のようなものだ。

春馬は完全に固まっている。あまりに突然のことで、思考が停止した。
顔を拭う少女の息づかいが近い。彼の心臓が、ドクンドクンと早鐘を打つのが自分でもわかる。
顔が火照り、耳が熱くなっていく。

「あ、あの……もう、本当に大丈夫ですから……」

彼はようやく言葉を絞り出し、無意識に身を引こうとする。その時、彼の手が美百合の手に触れた。
二人の手の間に、ハンカチが挟まれている。

その瞬間、春馬の中である感情が爆発した。

恥ずかしさ。
慌て。
そして、このままここにいられないという、本能的な焦り。

彼は咄嗟にハンカチをぎゅっと握りしめ、美百合の手から引き離した。

「すいません!」

それだけ叫ぶと、彼は振り返り、雨の降りしきる外へと走り出した。
ドアが勢いよく閉まり、鈴が乱暴に鳴り響く。

店内には、呆然と立ち尽くす美百合と、何事もなかったように本を整理し続ける老店主だけが残された。

美百合はぽつりと呟く。
「……変な人」

しかし、彼女は俯いたまま、ほんの少しだけ、口元を緩めていた。そして、床に光るものを見つけてかがみ込む。春馬が落とした小さなキーホルダーだった。金属製で、歯車の形をしている。

彼女はそれを拾い、掌に載せて見つめた。そして、そっとポケットにしまった。

幻影はそこで、再びゆらめき始める。

美百合が老店主に温かいお茶を勧められ、カウンターに座る。濡れた髪をハンカチで拭おうとするが、手元にないことに気づき、きょとんとする。

一方、雨の中を走る春馬は、やがて足を止め、息を切らして立ち尽くた。
手の中のハンカチを見つめる。その端の刺繍に触れる。彼の耳はまだ赤い。

彼はゆっくりと、そのハンカチを自分の胸ポケットに、丁寧にしまい込んだ。

光が薄れ、幻影が霧散していく。

汐音は自室の机の前で、ゆっくりと目を開けた。左手に握ったハンカチが、少し汗ばんでいた。
右手の下にある古書は、相変わらず静かだ。

彼女は深く息を吸った。

(春馬……美百合……)

今、彼女は二人の名前を知った。そして、あの一瞬のすれ違いが、ただの偶然ではなかったことも。
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