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【大鳳⠀冠次】
しおりを挟む万華郷、上手格子太夫の大鳳 冠次は飾り気が無く、ツンとした雰囲気と素っ気ない口調が、俺様感があって良い、と女性客から大いに人気の娼妓だ。
しかしこの男、接客業において致命的な短所がある。客の顔と名前が覚えられない。否、そもそも覚える気が無いのである。そのため、しょっちゅう名前を間違えたり、出てこなかったりして客を激怒させている。
それでも根強い人気がある現状には、流石の黒蔓も首を捻るばかりだ。
「分かんねぇなぁ。なんでだ? 普通、あんなクズに大枚叩いて会いに来るか? 謎過ぎるぞ、女心ってやつは」
「さぁねー。よっぽど床が巧いのか、手に入らないものほど欲しくなるっていう心理的リアクタンスかね」
まったく関心が無さそうなくせに的確な返答をする朱理に、黒蔓は感嘆と共に紫煙を吐いた。
「はー、成程な。その発想は無かったわ。お前、実は遣手に向いてんじゃねぇの。よくそんな言葉知ってたな」
「いやいや、かいかぶりだよ。聞かれたから答えただけで、考えたことなかったもん」
「そりゃ単に興味無いからだろ。俺にとっちゃ、最高のコンサルだよ」
「ふふっ。俺の興味は、根こそぎ誰かさんに持ってかれてるからね」
鬼の遣手をあっさり思考迷路から救い出し、仲睦まじくそんな会話をしている下手太夫の朱理に、冠次が随分前から恋慕していることは客にすら周知である。何故なら呼び間違える時、必ず出る名だからだ。そのせいで朱理は冠次の客から恨みを買い、嫌がらせを受けるなど理不尽な苦労を強いられている。
傍迷惑極まりない男だが、冠次を冠次たらしめているのは、その生い立ちが大きく関係している。
冠次はこの吉原で、ある小見世の遊女と間夫との間に産まれた。父親は間夫にしては律儀な男で、子が出来たと知るとすぐに身請けを申し出た。
しかし、母親には借金があるうえになかなかの美人だったため、小見世と言えど簡単に請け出せる額ではなかった。結局、母親は見世に残ることになり、子も認知されるに留まったのだ。
避妊具の使用が義務付けられた現在でも、こんなことはよくある話で、認知されただけマシと言える。遊女の子は私生児がほとんどなのだ。
見世で育てられることになった冠次だが、面倒を見ていたのは楼主や遣手、お茶引きの遊女たちだった。母親は売れっ子だったことに加え、めっきり顔を見せなくなった間夫を思い出させる冠次を遠ざけていたのだ。
物心ついた頃から周囲には女性しかおらず、歳の近い禿も当然、女の子ばかりだったため、冠次の世界は想像しがたいほど狭かった。
(女、おんな、オンナ……どっちを向いても女ばかり。甲高い声。揺れる乳房。派手な口紅。安っぽい香水と化粧品の臭い。何処にも、誰にも差なんてありゃしない。ぜんぶ同じだ。こいつらみんな〝女〟の塊だ)
いつしか冠次は女性を集と認識するようになった。それが客の顔と名前を覚えない原因なのだ。
成長して様々な事情を理解していくにつれ、女たちの自分を見る目が、同性や客へ向けるそれとは別物だと気付いた。媚びた視線が酷く不快で、吐き気がした。
刺すように鋭い母の一瞥だけが集の中の個であり、冠次にとって蜘蛛の糸のような存在だった。
もうひとつ、冠次のよすがとなっていたのは見世の裏手に現れる黒猫だ。ある日、ゴミ出しの時にたまたま見つけ、手を差し伸べると寄って来た。野良猫にしては珍しく、人懐こい猫だった。ごろごろ、と喉を鳴らして甘えてくる温もりが、狭い世界で唯一の癒しだった。
しかし冠次が10歳になった年、母は帰らぬ人となった。首を括っての自殺だった。
発見したのは冠次で、垂れ下がった母の足元には、あの黒猫の遺骸が転がっている。猫の首には、母がいつも挿していた簪が深々と突き立てられていた。しなやかで温かかった肢体は嘘の様に冷たく、硬い。見開かれた黄色い目が、じっとこちらを見つめている。
その時、冠次の中の蜘蛛の糸は、ぶっつり切れてしまった。
何故、首を吊ったのか。何故、猫まで殺したのか。理由など誰も教えてくれなかったし、興味も無いようだった。遊女の自害もまた、吉原では珍しい話ではないのだ。
やがてそこらの男より美しく、立派に育った冠次を、見世の女たちが放っておく訳もなく。15歳を過ぎた頃から、夜な夜な寝所へ潜り込んでくる遊女らの慰みものになっていた。勃起しなければ殴られ、蹴られ、踏み付けにされて罵られる。
そんな生活が厭で堪らず、一日も、一刻も早くここを出たかった。
吉原にも保育所、小、中、高等学校がある。妓楼や商家の子、遊女の子、幼くして売られてきた子たちのために作られたのだ。
吉原校には一般教養の他、商業や芸事に特化した科があり、吉原で働く上で必要な専門知識や技術を学ぶことが出来る。
商家などを継ぐ者は高校まで吉原で学んだ後、経済大学等へ進む場合が多く、娼妓になる者は高校を卒業するとすぐ、見世で働き始めるのだ。
冠次は妓夫として見世を手伝いつつ吉原校へ通い、大学は通信制を選んだ。通信制なら働く時間が確保でき、自立する金が早く貯められると考えたのだ。
しかし、母が亡くなってからの生活費や学費は見世が負担していたため、冠次はそれを返さねばならない。このままでは自分も一生、この見世と女たちに囚われることになる。そんな生活をするくらいなら、いっそ陰間になったほうがマシだと思った。
丁度その頃、万華郷の新造募集が始まった。とはいえ、吉原に生きていればその門の狭さは嫌というほど耳にする。卑賤の身だが、駄目で元々と履歴書を送ったのだ。
面接の際、紫笆の言葉に驚いたのを、よく覚えている。
「おやまぁ……随分、苦労してきたんですね。可哀想に」
(苦労? 可哀想? 俺が? この程度の話に同情できるほど、ここの奴らは悠長に暮らしてるのか? まぁ、それもそうか。望まれて産まれ、普通に生きて、普通に大学を出たエリートどもが、外から受けに来るような見世だ。もしここに入れたら、俺もようやく真面な生活が出来る。そうすればこのぶっ壊れた頭も、少しはマシになるのかもしれない)
己の世界の歪を自覚していた冠次は、採用が決まった時、そんな微かな希望を抱いていた。
しかし結局、やることは無個性な女たちの相手で。昔と違うのは稼ぎの良さと、客の我儘が面倒なことくらいだった。それでも以前に比べると随分、自由が許されており、快適な生活環境が保証されている。
冠次の兄太夫、宇昆は規格外の自由人だったため、あれこれ言われることも無く、完全に放任されていた。元々、廓育ちの冠次は、特に教えを請う必要も無かったのだ。
期待したほどの劇的な変化は無かったが、これはこれで充分だと思えた。むしろ、遊女の子に産まれてここまでのし上がったのなら、上々と言えるだろう。
そんな冠次の心が震盪するのは、入楼から2年後のことだった。
ある晩秋の夜。黒蔓が連れて来た朱理と目が合った瞬間、久しく思い出していなかった母の眼差しと、最期に見た黒猫の瞳が、同時に脳裏を駆け抜けた。どういう訳か、朱理の眼差しにそれらを見たのだ。
育った見世に居た時も、万華郷へ来てからも、向けられる視線に何かを感じた事は無かった。好機、侮蔑、情愛、執着……冠次にとっては等しく無意味だ。
しかし、朱理の目つきはどれとも違った。目つきと言うより、全身から発せられる雰囲気と言ったほうが正確かもしれない。底が見えない闇のように暗く深く、その中にひと筋、鋭い光が走っている。それは子どもの頃に切れてしまった、蜘蛛の糸のようだった。まるで母と猫の面影を綯い交ぜにしたような混沌に、冠次は魅入られたのだ。
冠次自身でさえ、自分の内に湧き上がった情動が何なのか、今だに理解出来ていない。
「俺は頭良くねぇから、難しいこたぁ分かんねぇ。ただ、お前が好きだ」
「おおう……突然どうしたよ。お前の脈絡の無さ、重症だぞ」
朱理がのんびり自室で煙草を燻らせていた所へ挨拶も無しに入って来たかと思うと、そんなことをまくし立てられた。呆気に取られるやら面倒臭いやらで、朱理は引き攣った笑みを浮かべている。
「脈絡なんて、ハナからねぇよ。ひと目見た時から好きになった。今でも好きだ。それだけだ」
「えーと……うん。そうか、分かった」
それは返事を求める告白なのか、単なる独白なのかと毎回、突っ込みたくなるが、ややこしくしたくない一心で我慢する。
たまに、こうして発作的に想いを伝えてくる以外、特に何もしてこない。が、言ってくる言葉は自己完結の羅列なので、意味は分かるが対処に困る。
朱理は万華郷で最もミステリアスな男は、冠次じゃないだろうかと考えている。じっと目を見つめてくる癖は昔からだが、一体、何を見出そうとしているのか。もしくは、既に何か見ているのか。いつか、冠次の年季が明ける時にでも聞いてみようと朱理は思った。
「俺は逃げたりしねぇからな、絶対に」
「逃げるってなにから? せめて前後に何か付けろよ。汲み取ることすら不可能だぞ」
「お前だけは死なせねぇ。俺からはもう、何も奪わせねぇ」
「ちょっと待て。まじで何なんだよ、怖いわ。言っとくけど、俺が死ぬとしたらお前の客に刺される確率が一番、高いからな。死なせたくなきゃ、いい加減で名前くらい覚えろよ」
「無理だ」
「……もう、あれな……お前ってそういう奴だよな……。言いたいことは全部言ったか?」
「言った」
「じゃあ出てけ。真面目に仕事しろ」
「……分かった。またな」
おう、と答えると共に嘆息する。襖が閉まると、困惑と混乱が尾を引く部屋で朱理はやれやれと紫煙を吐く。
ある日の深夜であった。
終
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