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5章
51【ノーバディーズホーム】
しおりを挟むと、怯えていたのも束の間。不得手な日本酒と寝不足のせいですっかり酔いが回った丹生は、出茂会大幹部と璃弊首領のあいだで、歯に絹着せぬ談笑に花を咲かせていた──と言うより絡んでいた。
「もぉー、逢坂さんはいーっつも無茶振りばっかりでぇー。ちょっとはこっちの身にもなれって話ですよぉ」
「おいおい、どうしたってんだ? 珍しく酔いが早ぇな」
「そーですかぁ? ほらぁ、もっと飲んで飲んでぇー」
「やめろ馬鹿! こぼれてんじゃねぇか! ったく……失礼しました。こいつ、今日は調子が悪いようで」
へべれけの丹生が雑に徳利を傾け、飛び散った酒が逢坂のダークスーツを汚している。苦い顔で詫びられた王は、丹生から目を離さずに笑って答えた。
「いえ、楽しいですよ。私たちのような立場では、気さくに接してくれる方は珍しいですからな」
「まさしく、私もこいつのそういうところが気に入ってましてね。妙に肝が座っているというか、怖いもの知らずというか。ふてぶてしい奴なんですよ」
丹生はむうと口を尖らせ、逢坂のネクタイを鷲づかんでふてくされる。
「ふてぶてしいってなんですかぁ。フツーでしょ、ふ・つ・う!」
「分かった、分かった、引っ張るんじゃねぇよ。ちっと静かにしてろ」
ぽんぽんと頭を撫でて宥められ、猫が喉を鳴らすように大人しくなった丹生を、王は推し量りがたい瞳で見つめて言った。
「随分と仲がよろしいようで。彼とは長いのですか?」
「コイツがまだ18、9のガキだった頃に知り合いましてね。そこからの腐れ縁です」
丹生は、ぼんやりと2人のやり取りを聴きながら、もうそんなに経つのかと思った。
振り返ればこの10数年、色々あった。軽い気持ちで始めたバイトで逢坂と出逢い、大学を辞めて愛人もどきをしていたところ、更科に拾われて公安調査庁に入庁。なんてめちゃくちゃな経歴だと自分でも思う。まさか国防に携わることになるなど、想像もしていなかった。
バディに振り回されたり、上司と恋人になったり、あげくに今はヤクザとマフィアに挟まれて酒を酌み交わしている。
(あーあ、なにやってんだろ、俺……。駄目だ、頭いてぇ……。やっぱり日本酒、嫌いだな……)
視界がぐらりとゆがみ、盃を取り落として卓上を濡らした。
「おい、大丈夫かよ。水もらうか?」
「ううん、大丈夫……。ごめんなさい、うっかりして……」
「少し勧め過ぎてしまったかな。申し訳ないことをした」
「いえ、お構いなく……」
台拭きで零れた酒を拭いつつ、奥歯を噛んだ。お粗末な失態に悔しさと情けなさが込み上げる。悪酔いの絡み酒はほとんど演技と計算だったが、今のは完全に気の緩みだ。
丹生を気遣ってか、逢坂が腕時計を見ながら声を上げた。
「お、もうこんな時間か。そろそろお開きにしましょうか。コイツも大分、酔ったみたいですし」
「そうですね。よろしければ、彼を送らせて頂けませんか? 飲ませてしまった責任がありますから」
丹生はサッと青ざめ、心の中で(全然よろしくない!)と叫んだ。
「け、結構です! 自分で帰れます!」
「ご自宅までとは言いません。指定して頂ければ、お好きな場所で降ろしてさしあげます。もう少しだけ、貴方と話がしたい。お願いします」
「ここまで言ってもらってるんだ、素直に甘えとけ」
事情も知らずに余計なことを、と思いながら恨みがましい視線を向けると、耳元で逢坂が囁いた。
「あれは相当な大物だ。お前を随分、気に入ってるらしい。上手く機嫌とっちゃくれねぇか? この借りは必ず返すからよ」
結局、酔いの回った頭では躱す方便も思いつかず、あれよあれよと王の車へ乗せられてしまった。
フルスモークの後部座席。王と並んで座る丹生は、文字通り頭をかかえていた。
(なんでこうなった……。ていうか、なにうっかり流されてんだよ!? 馬鹿か俺は! まぁ……社用携帯は持ってるし、なにかあっても大体の場所は特定してもらえるか。皆、線香のひとつくらい上げてくれよな……)
そんな丹生に、王は愉快そうに笑って声をかけた。
「そう緊張しないで。知らない仲でもないでしょう。お久し振りですね、璃津さん」
「……その節はどうも……」
「まだ酔いが覚めませんか? ほら、水をどうぞ。飲んだほうがいい」
「……有難うございます」
(って、飲めるかこんなもん! 絶対なんか入ってるだろ! 今どき、無色透明の未開封でも安心できねぇんだからな!)
苦い顔でペットボトルを握りしめる丹生を見て、王は豪快に笑う。
「凄い警戒心だ、結構なことです。身を守る術をきちんと心得ている」
「……意趣返しにこんな手の込んだことを?」
少しもたじろがず、真っ向から見返して問うた。すると王は目を細め、「強い人だ」と囁く。
「意趣なんてありませんよ。私はね、初めて会った時から貴方の目に惹かれていたんです。正直で飾らない性格も、とても好ましい」
「俺は貴方に損害を与えた張本人です。もうすべて分かっているんでしょう?」
王は微笑を浮かべたまま、緩く首を横に振った。
「G社の件なら気にしていません。あれにはそろそろ見切りをつけようと思っていたところで、ちょうど良かった」
「じゃあ何なんですか。話したかっただけなんて、にわかには信じがたいですね」
「そうですか? こうでもしなければ、公安庁のエージェントである貴方が、個人的に会ってくれたのでしょうかね?」
まったくの正論にぐうの音も出ない丹生に構わず、王はさらりと話題を変えた。
「そういえば、贈り物は受け取って頂けましたか? 感想や好みを聞けないのが、残念で仕方がなかったんですよ」
「え、ええ……。どれも素敵でした……」
「それは良かった」
穏やかな微笑みに毒気を抜かれる。始終、柔らかで紳士的な態度を崩さない王には、どうも調子を狂わされてしまう。やはり、以前の友好的接触のせいだろうか。
そのうち考えるのも面倒になり、いっきに核心へ迫ることにした。
「怒ってないんですか? 俺と接触したことで、貴方に不利益が生じたのは事実でしょう」
「まぁ、顔が割れてしまったので、少々、動きづらくはなりましたが、そんなことはどうとでもなります。こうしてここに居るのが証拠ですよ」
「でも……俺はエージェントの端くれで、立場的に貴方の敵です」
王は少し間を置き、片方の眉を上げた。
「あの時、私と接触したのは故意ではなかった。それどころか、貴方は私の正体すら知らなかった。違いますか?」
「それは……」
「目的はあくまでG社の情報。しかし想定外の人物が会場に現れ、急遽、貴方が私の注意を引く役目を担った……と、そんなところでしょうか」
丹生は言葉をなくした。情報が筒抜けなのではないかと思うくらい、その推測が正しかったからだ。ぽかんとする丹生に、王はまた愉快そうに笑う。
「やはり貴方は正直な方だ」
「では何故、G社が目を付けられていると知りながら現れたんです? どう考えても危険でしょう」
「あのパーティで見極めようと考えていたんですよ。今後も付き合いを続けるか否かをね。一応、あれでも国を代表する大手企業。有数の先進国であるこの日本国で、彼らがどこまでやれるか、自分の目で確かめたかったんです」
「なるほど……。上手く立ち回れるなら利用価値があり、下手を打つようなら切る。合理的だ」
「しかし、貴方をひと目見た瞬間、そんなことはどうでもよくなってしまった。他のお仲間に手を出さなかったのも、貴方と出会ったからです」
なんと、自分たちの潜入はとっくに気付かれていたのだ。あの時、ひとつ間違えれば船上に居た調査官が全員、始末されていたかもしれないと思うと、にわかにゾッとした。
「さしずめG社と私の情報は、貴方への最初のプレゼントだったんですよ」
「……じゃあ、俺がエージェントだってことも、最初から知っていたと?」
「ええ。窓辺に佇む貴方を見た時、私は産まれて初めて、ひと目惚れというものを経験しました。男性だと知ったのは後からでしたが、愛に性別も国境もありませんからね」
丹生は素直に感嘆した。この男はすべて見通したうえで最良の判断と行動ができる。それでいて己の欲望に忠実で、リスクも厭わぬ大胆さがある。
「私と対等に話をしてくれた人は初めてです。すべてを知った今でも、まだ私をそんな目で見てくれるんですね」
「正直、感服ですよ。善悪は別として、そこまで大局的に物事を見られる人は尊敬に値します」
「善悪が別にできないから嫌われるんですよ、黒社会の人間は。事実、後ろ暗いことも数え切れないほどしてきました」
「こう言っては何ですけど、綺麗事じゃ平和は保てません。俺たちエージェントは舌先三寸で人を騙し、情報を得ている。そこにどんな大義名分があろうと、俺はそれを善だとは思いません。でも、必要だとは思います。裏社会の存在も似てるんじゃないかなと。もちろん本当に悪い人も居ますが、それは表も裏も同じですから」
困ったように笑う丹生に、王は目を奪われた。とても政府組織の人間とは思えない思考で清濁を併せ呑み、独自に消化している。
「……貴方という人は、どこまで奥が深いんでしょうね……。こんなに魅力的な方に、私は初めて会いました」
「買い被りですよ」
ゆっくりと王の腕が伸びてくる。丹生の頬を長い指が優しく撫でた。何をされるか分かっているのに、抵抗する気があまり起きない。
「あ、の……」
「お願いだ、拒まないで。酷いことはしないから」
僅かな躊躇いも、低く甘い囁きにあっさり押さえ込まれ、やんわりと唇が塞がれた。滑り込んでくる舌を拒否できず、流されるままに口を開いた。情熱的に繰り返される口づけの合間で、口腔になにか小さな塊がいくつか送り込まれた。
「っ!? んん゙ッ!!」
激しく抵抗するが後頭部を押さえられ、舌で喉の奥まで押し込まれて飲み下してしまった。すぐに嘔吐できないよう、しばらく続いた口付けからようやく解放されると、王を突き離して睨みつける。
「……っ、何を……飲ませた……ッ!?」
「心配しないで、ただの睡眠薬だ。勤労な君に、少し休んでほしくてね」
「そんなもの、俺には効かない。今すぐ降ろせ」
ワンオクターブ低い声音で吐き捨てると、王は喉の奥で笑った。
「薬に抗体があることは予想していた。だから特別に調合したんだ。1錠で充分なはずだが、念のため、いくつか追加してある。君は疲れているうえに、酒を多量に飲んだ。大人しくしていなさい。道端で行き倒れたくはないだろう?」
「……捕まるくらいなら、行き倒れたほうがマシだ」
「では何故、渡した水を飲まなかった? 薬物を警戒したからだろう?」
痛いところを突かれて押し黙る。王は足元に転がるペットボトルを見下ろし、口角を上げた。
「それは正真正銘、ただのミネラルウォーターだ。封の開いていない水を警戒するくせに、あっさり口付けを許すとは。面白い子だね」
丹生は己の迂闊を心底、呪った。手足に力が入らず、目眩に似た浮遊感が全身に広がっていく。
(くそっ! 駄目だ、駄目だ! 意識を失ったら終わりだ! 俺は帰らなきゃいけない、絶対に! じゃないと……また独りにしてしまう……!)
唇を噛み締めて意識を保とうとするが、逞しい腕に抱き寄せられ、指で唇を開かされた。
「傷がついてしまうよ。抵抗しないで。大丈夫、ほんの少し眠るだけだ」
「ぃ、やだ……ッ! 俺は帰る……ぜったい、帰らな……きゃ……──」
ぐったりと意識を無くした体を膝の上に乗せ、王は嗤った。
「もちろん帰してやるさ。新しい家に、ね」
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