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第五幕
第26話【水魚沈溺】
しおりを挟む真砂に手を借りて立ち上がった夕立は、引き裂かれて酷い有様の着物を指でつまむと、顔をしかめてぼやいた。
「くそ……繕ったばかりだってのに、めんどくせぇ。また針子どもに文句言われちまう……」
「ははっ、暴行されかけた直後にするのが着物の心配か? 面白いやつ。ま、被害が衣だけで何よりだったな」
「ああ、礼が遅れてすまねぇ。助かったぜ」
「たまたま通りかかっただけだ、気にすんな。しかし、まさか現実にあんな台詞を聞く日が来るとは、思ってもみなかったわ。愛憎、紙一重ってやつかね」
「そんな格好の良いもんじゃねぇよ……」
真砂は顔を上げた夕立と真面に向き合い、改めてその美しさに息を飲んだ。同時に、迸る妖力の強さに眉をひそめる。
「あんた、なんで抵抗しなかったんだ? それほどの妖力がありゃ、あの程度のやつ簡単に吹き飛ばせただろ」
「……無駄に怪我させたくなかったんだよ。下手したら殺しちまいかねねぇし。俺ぁ、どうも力加減が下手でな」
「ふうん。お優しいことだが、そいつの殺意は本物だったぜ。返り討ちにされても、文句は言えないと思うがな」
真砂の言葉に、夕立は眉根を寄せて足元に転がる男を見下ろした。
「そうじゃねぇよ。本来、こいつは虫も殺せねぇようなお人好しだ。いつもならこんなことにはならなかったろうよ。ただ……間が悪かっただけだ」
「間が悪いって、そりゃどういう……」
真砂が問おうとした時、突然、夕立からぞわりと濃い妖気が溢れ出た。夕立は小さく呻き、自身の体を抱くようにして身をかがめる。その瘴気に当てられた真砂はぐらりと視界が揺らぎ、膝をつきそうになるのを必死で堪えた。
真砂は鬼神の中でも由緒ある一族に産まれたため、幼い頃から厳しい鍛錬を積んできた。家のため、己のために切磋琢磨し、並の鬼では到底、敵わないほど強靭な肉体と精神力を備えている。そんな真砂でさえ、夕立の発する妖気を前にして、立っているのがやっとの有様だった。
夕立は額に玉の汗を浮かべ、荒く息をつきながら絞り出すように言った。
「……はやく、逃げろ……っ」
「に、逃げろってお前……こんな状況、ほっとくわけにいかないだろ!」
どんどん濃くなっていく妖気に、真砂は夕立が暴走しかけているのだと気づいた。
そういえば少し前、膨大な妖力を持ちながら、制御の覚束無い危険な鬼神が現れた、と家の者が話していたのを思い出す。こいつがそうだったのかと思いながら、事態を収拾するために思考を巡らせる。しかし、いくら修練を積んできた真砂と言えど、他人の妖力を制御する術など知るわけがない。
そうしているうち、ついに夕立は床にうずくまってしまった。
「お、おい! 大丈夫か!?」
「ハッ……っ、頼む……閻魔を、呼んでくれ……ッ」
「閻魔様を? なんでそんな……お前、いったい──」
「っ、はやく! ァ、っぅ……もう……もたねぇ……ッ!」
苦しげに歪められた目元と荒い吐息に、真砂は激しく情欲をかき立てられるのを感じた。そんな場合ではないと解っているのに、なぜか夕立から目が離せない。
引き裂かれた着物の隙間からのぞく肌は汗ばみ、上気して薄桃色に染まっていた。それはまるで房事の最中のようで、壮絶な蠱惑が霧のように理性を侵していく。ふらふらと勝手に体が動き、引き寄せられるように夕立へ歩み寄る。
と、その時、何かが足先に当たった。先ほど、真砂が気絶させた男だ。男の顔からはすっかり血の気が失せ、呼吸をしているのかさえ分からぬほど生気が無い。夕立の垂れ流す妖気にあてられ、死にかけているその姿を見て、真砂は我に返った。ぎり、と強く拳を握り締め、くい込む爪の痛みで散りかけていた理性をかき集める。
強い力を持った鬼や妖怪は多く見てきたつもりだったが、夕立のそれはまったく別物だ。あっさり呑まれかけた己の精神力を恨む反面、神や仏に敵わないのと同じような次元の違いも痛感していた。真砂は奥歯を噛み締め、まだ夕立へ向かおうとする体を必死で逸らせ、廊下をひた走った。
さいわい、閻魔はすぐに見つかり、左大臣だという鬼神も共に現場へ駆けつけた。閻魔は優しく夕立を抱き起こすと、穏やかな声で囁く。
「もう大丈夫じゃ。よう堪えたな、夕立」
「ハッ……ハァ……えん、ま……」
夕立はまるで怯えきった子どものようにその腕にすがり、弱々しく名を呼ぶ。閻魔は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、そっと頬へ手を添えて口付けた。
「んっ……ふ、ぁ……んん……」
真砂は予想外の展開と艷やかな夕立の吐息に居心地の悪さを覚え、咄嗟に目を逸らせる。すると、閻魔に付き従っていた左大臣がこちらへ歩み寄って来た。
「真砂さん、と仰いましたね。お初にお目にかかります。私は左大臣を務めております、陀津羅と申します。この度はご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」
「あ……いや、俺は別に……」
「お知らせ下さったこと、深く感謝申し上げます。ですが、貴方が目にしたもの、耳にしたものはすべて、他言無用に願います。事情をお話しすることもできません。失礼は承知しておりますが、王の私事に関わることゆえ、どうかご理解頂きたい」
陀津羅と名乗った鬼神は慇懃無礼に頭を下げたが、感情のない冷えた声音で言った。そこには有無を言わせぬ威圧と微かな殺気があり、ひと言でも意に沿わぬ返答をすれば、即座に始末されるだろうと察した真砂は、黙って首を縦に振るしかなかった。
冷や汗の滲むやり取りをしている間にも、閻魔と夕立は睦み合っており、真砂はそちらが気になってしかたがなかった。
「ン、んっ……はァ……」
漏れ聞こえてくる声は、最初に見た仏頂面からは想像もつかないほど甘く、鼓膜にまとわりつくような粘り気を帯びている。未だかつて聞いたことのない、魅力的で扇情的なものだった。思わず聞き入っていると、ぐったりした夕立を抱えた閻魔が真砂を振り返った。
「世話になったのう。礼を言うぞ、真砂」
「勿体なきお言葉、痛み入ります」
真砂が深く頭を下げると、閻魔は夕立と共にふわりと姿を消し、陀津羅も会釈をして去っていった。
これが真砂と夕立の、忘れようもない出逢いである。それ以来、真砂は夕立を見かけると声をかけるようになり、夕立も彼の気さくさに慣れていった結果が現在だ。
惚れたら地獄の哀れな鬼神を友に持ってから、あっという間に千年近い時が経っていた。
真砂はほろ苦い思い出に小さく苦笑を漏らし、鬼女たちの肩を抱いて明るい声を上げた。
「さて、何か食べに行こうか! 君たちの好きな所で良いよー」
「あ、じゃあ私、新しくできたイタリアンのお店が良いわぁ」
「そこ、私も気になってた! 美味しいって評判よねー」
「よしきた! いっぱい食べて、じゃんじゃん飲んでー」
そうして今日も、冥府の日常は緩やかに過ぎて行く。
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