冥府の徒花【完結】

四葩

文字の大きさ
28 / 56
第五幕

第26話【水魚沈溺】

しおりを挟む

 真砂に手を借りて立ち上がった夕立は、引き裂かれて酷い有様の着物を指でつまむと、顔をしかめてぼやいた。

「くそ……つくろったばかりだってのに、めんどくせぇ。また針子どもに文句言われちまう……」
「ははっ、暴行されかけた直後にするのが着物の心配か? 面白いやつ。ま、被害が衣だけで何よりだったな」
「ああ、礼が遅れてすまねぇ。助かったぜ」
「たまたま通りかかっただけだ、気にすんな。しかし、まさか現実にあんな台詞を聞く日が来るとは、思ってもみなかったわ。愛憎、紙一重ってやつかね」
「そんな格好の良いもんじゃねぇよ……」

 真砂は顔を上げた夕立と真面まともに向き合い、改めてその美しさに息を飲んだ。同時に、ほとばしる妖力の強さに眉をひそめる。

「あんた、なんで抵抗しなかったんだ? それほどの妖力がありゃ、あの程度のやつ簡単に吹き飛ばせただろ」
「……無駄に怪我させたくなかったんだよ。下手したら殺しちまいかねねぇし。俺ぁ、どうも力加減が下手でな」
「ふうん。お優しいことだが、そいつの殺意は本物だったぜ。返り討ちにされても、文句は言えないと思うがな」

 真砂の言葉に、夕立は眉根を寄せて足元に転がる男を見下ろした。

「そうじゃねぇよ。本来、こいつは虫も殺せねぇようなお人好しだ。いつもならこんなことにはならなかったろうよ。ただ……間が悪かっただけだ」
「間が悪いって、そりゃどういう……」

 真砂が問おうとした時、突然、夕立からぞわりと濃い妖気が溢れ出た。夕立は小さく呻き、自身の体を抱くようにして身をかがめる。その瘴気しょうきに当てられた真砂はぐらりと視界が揺らぎ、膝をつきそうになるのを必死で堪えた。
 真砂は鬼神の中でも由緒ある一族に産まれたため、幼い頃から厳しい鍛錬を積んできた。家のため、己のために切磋琢磨し、並の鬼では到底、敵わないほど強靭な肉体と精神力を備えている。そんな真砂でさえ、夕立の発する妖気を前にして、立っているのがやっとの有様だった。
 夕立は額に玉の汗を浮かべ、荒く息をつきながら絞り出すように言った。

「……はやく、逃げろ……っ」
「に、逃げろってお前……こんな状況、ほっとくわけにいかないだろ!」

 どんどん濃くなっていく妖気に、真砂は夕立が暴走しかけているのだと気づいた。
 そういえば少し前、膨大な妖力を持ちながら、制御の覚束無おぼつかない危険な鬼神が現れた、と家の者が話していたのを思い出す。こいつがそうだったのかと思いながら、事態を収拾するために思考を巡らせる。しかし、いくら修練を積んできた真砂と言えど、他人の妖力を制御するすべなど知るわけがない。
 そうしているうち、ついに夕立は床にうずくまってしまった。

「お、おい! 大丈夫か!?」
「ハッ……っ、頼む……閻魔を、呼んでくれ……ッ」
「閻魔様を? なんでそんな……お前、いったい──」
「っ、はやく! ァ、っぅ……もう……もたねぇ……ッ!」

 苦しげに歪められた目元と荒い吐息に、真砂は激しく情欲をかき立てられるのを感じた。そんな場合ではないと解っているのに、なぜか夕立から目が離せない。
 引き裂かれた着物の隙間からのぞく肌は汗ばみ、上気して薄桃色に染まっていた。それはまるで房事ぼうじの最中のようで、壮絶な蠱惑が霧のように理性をおかしていく。ふらふらと勝手に体が動き、引き寄せられるように夕立へ歩み寄る。
 と、その時、何かが足先に当たった。先ほど、真砂が気絶させた男だ。男の顔からはすっかり血の気が失せ、呼吸をしているのかさえ分からぬほど生気が無い。夕立の垂れ流す妖気にあてられ、死にかけているその姿を見て、真砂は我に返った。ぎり、と強くこぶしを握り締め、くい込む爪の痛みで散りかけていた理性をかき集める。
 強い力を持った鬼や妖怪は多く見てきたつもりだったが、夕立のそれはまったく別物だ。あっさり呑まれかけた己の精神力を恨む反面、神や仏に敵わないのと同じような次元の違いも痛感していた。真砂は奥歯を噛み締め、まだ夕立へ向かおうとする体を必死で逸らせ、廊下をひた走った。
 さいわい、閻魔はすぐに見つかり、左大臣だという鬼神も共に現場へ駆けつけた。閻魔は優しく夕立を抱き起こすと、穏やかな声で囁く。

「もう大丈夫じゃ。よう堪えたな、夕立」
「ハッ……ハァ……えん、ま……」

 夕立はまるで怯えきった子どものようにその腕にすがり、弱々しく名を呼ぶ。閻魔は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、そっと頬へ手を添えて口付けた。

「んっ……ふ、ぁ……んん……」

 真砂は予想外の展開とあでやかな夕立の吐息に居心地の悪さを覚え、咄嗟に目を逸らせる。すると、閻魔に付き従っていた左大臣がこちらへ歩み寄って来た。

「真砂さん、と仰いましたね。お初にお目にかかります。私は左大臣を務めております、陀津羅だつらと申します。この度はご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」
「あ……いや、俺は別に……」
「お知らせ下さったこと、深く感謝申し上げます。ですが、貴方が目にしたもの、耳にしたものはすべて、他言無用に願います。事情をお話しすることもできません。失礼は承知しておりますが、王の私事に関わることゆえ、どうかご理解頂きたい」

 陀津羅と名乗った鬼神は慇懃無礼に頭を下げたが、感情のない冷えた声音で言った。そこには有無を言わせぬ威圧と微かな殺気があり、ひと言でも意に沿わぬ返答をすれば、即座に始末されるだろうと察した真砂は、黙って首を縦に振るしかなかった。
 冷や汗の滲むやり取りをしている間にも、閻魔と夕立はむつみ合っており、真砂はそちらが気になってしかたがなかった。

「ン、んっ……はァ……」

 漏れ聞こえてくる声は、最初に見た仏頂面からは想像もつかないほど甘く、鼓膜にまとわりつくような粘り気を帯びている。未だかつて聞いたことのない、魅力的で扇情的なものだった。思わず聞き入っていると、ぐったりした夕立を抱えた閻魔が真砂を振り返った。

「世話になったのう。礼を言うぞ、真砂」
「勿体なきお言葉、痛み入ります」

 真砂が深く頭を下げると、閻魔は夕立と共にふわりと姿を消し、陀津羅も会釈をして去っていった。
 これが真砂と夕立の、忘れようもない出逢いである。それ以来、真砂は夕立を見かけると声をかけるようになり、夕立も彼の気さくさに慣れていった結果が現在だ。
 惚れたら地獄の哀れな鬼神を友に持ってから、あっという間に千年近い時が経っていた。
 真砂はほろ苦い思い出に小さく苦笑を漏らし、鬼女たちの肩を抱いて明るい声を上げた。

「さて、何か食べに行こうか! 君たちの好きな所で良いよー」
「あ、じゃあ私、新しくできたイタリアンのお店が良いわぁ」
「そこ、私も気になってた! 美味しいって評判よねー」
「よしきた! いっぱい食べて、じゃんじゃん飲んでー」

 そうして今日も、冥府の日常は緩やかに過ぎて行く。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

側妻になった男の僕。

selen
BL
国王と平民による禁断の主従らぶ。。を書くつもりです(⌒▽⌒)よかったらみてね☆☆

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

妹を救うためにヒロインを口説いたら、王子に求愛されました。

藤原遊
BL
乙女ゲームの悪役令息に転生したアラン。 妹リリィが「悪役令嬢として断罪される」未来を変えるため、 彼は決意する――ヒロインを先に口説けば、妹は破滅しない、と。 だがその“奇行”を見ていた王太子シリウスが、 なぜかアラン本人に興味を持ち始める。 「君は、なぜそこまで必死なんだ?」 「妹のためです!」 ……噛み合わないはずの会話が、少しずつ心を動かしていく。 妹は完璧令嬢、でも内心は隠れ腐女子。 ヒロインは巻き込まれて腐女子覚醒。 そして王子と悪役令息は、誰も知らない“仮面の恋”へ――。 断罪回避から始まる勘違い転生BL×宮廷ラブストーリー。 誰も不幸にならない、偽りと真実のハッピーエンド。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕

敗戦国の王子を犯して拐う

月歌(ツキウタ)
BL
祖国の王に家族を殺された男は一人隣国に逃れた。時が満ち、男は隣国の兵となり祖国に攻め込む。そして男は陥落した城に辿り着く。

処理中です...