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向井武
しおりを挟む「よう!意外と元気そうじゃないか。」
知った声が背後から文月を差した。
ギョッとしながら振り向くとそこには、羽織袴にマントをまとった書生姿の青年が立っていた。
文月の大学時代の先輩の向日武である。
「は、今晩は…せ、んぱい。」
文月は少し恐縮しながら立ち上がり、席をすすめる。
向日は笑い、席につくと、やって来たウエートレスにコーヒーを注文した。
「やあ、元気だったかい?」
向日は、からかうように文月をみる。
相変わらずのビシッと乱れのないオールバックの黒髪、大正時代の奇抜で派手な雰囲気がして、文月は学生時代に戻ったような不思議な気持ちになる。
それにしても、30歳を過ぎているとは思えない、若々しい書生姿である。
「はい…体の方はお陰さまで…ただ。」
文月は自分の抱える問題を思い出して深い溜め息をつく。
江戸川乱歩、連載休止
健康不良から、謎の陰謀説まで囁かれる中、出版社は抗議や期待のこもった葉書や手紙、果ては達筆な巻物まで届く始末なのだ。
「スランプかぁ…大変だよな。」
向日はフリーではあるが、同じ出版関係の人間でっ情報通である。文月の現状に同情の溜め息をもらす。
が、それが文月を不満にさせる。
「スランプ?スランプなんて、そんなもんじゃありませんよ!あの人は…」
文月がこの1ヶ月の騒動を思い出した。
確かに、こちらも面倒なお願いをしたとは思っている。先生は何度も自信がないとは異lっつてたらしいが、それにしても、犯人がわかる目前で敵前逃亡はいただけない。
担当の先輩こそ、探偵よろしく先生の逃亡先を探す旅に出てしまう。
「まあ、まあ、少し、落ち着きたまえ。君が激昂(げきこう)したくなる気持ちは重々承知してるがね、あれで、編集長も君を心配してるんだよ。
それで、僕をよこしたって寸法さ。
まあ、事の次第を話してくれたまえ。」
自慢げに笑う向日に、更なる胃痛が文月を襲った。
向日武は、大衆雑誌『世麗魔の紳士』という雑誌の編集長をしていた。
名前はハイカラでモダンな感じであるが、率直に言うと『エログロ』と呼ばれる低俗で下品な趣味の雑誌である。
例えるなら、梅原北明の『グロテスク』。近年、雲隠れしては、出版と神出鬼没な活動をする、その類の人種なのだ。梅原氏は、その後、政府の追求に逃走。
厳しい社会情勢の中、向日の雑誌も同じ運命に従い、休刊となった。
つまり、一言で向日という人物を表現するなら『胡散臭い』と言うところだ。
しかし、既に、正攻法から裏技まで、思い付く限りの方法を乱歩の連載再開の為に試した編集部は、この、胡散臭い暇人にでもしがみつきたい程、困っていると言うことだろう。
新春号である。
昭和8年(1933年)の11月の連載から、今年の1月まで連載された江戸川乱歩の『悪霊』は、事件解決を前に、乱歩の「書けません」の宣言を出版社で吐露して大混乱をもたらした。
文月もそれには頭を抱えることになる。
ふと、前を見ると縞の羽織にきっちりと整えたオールバックの向日…
旅芸人のような非現実な姿に長い悪夢でも見ているように文月には感じた。
「正確には…書けないのは、『本格推理もの』で、先生は結末を用意していたのですよ。」
文月は深く溜め息をつく。
文学やら芸術なんてものを考える輩の面倒くささを…
それを、向日に恨み言をぶつけるように文月は話始めた。
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