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プロローグ
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コーヒーカップをソーサーに置く音が、妙に耳障りだった。
確かに静かに置いたが、微かな音であっても気が散ってしまう。
「緊張しているのかい」
不気味なほど赤い朝焼けの空と、薄暗い大都会を一望しながら、暁 憂瑠《あかつき うる》はそう言った。
彼を一瞥し、手元の澱んだ黒い液体に視線を落とした。ぼんやりと、自分の顔が映る。
「…まぁね。しばらくコーヒーも飲めなくなると思うと、どうにも落ち着かない。」
彼は私の方を向いて腕を組み、紅い後光に照らされながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「案外普通なところもあるんだね。君はあまり気持ちを表に出さないから、冷たい人間だと思っていたよ。」
「私は普通の人間だよ。朝に飲むホットコーヒーと、静かな部屋の中で人と話すのが好きな、普通の人間さ。」
それに…と言いながら、カップとソーサーをテーブルに置き、座っていたソファに少し寄りかかった。
「それに、誰だって不安にもなる。これから先、自分がどうなってしまうのか。この街がどうなってしまうのか。逆に私は君を疑うよ。君には焦りの一つも見えない。」
「焦っていないわけじゃないさ。それよりもただ僕は、楽しいんだ。」
彼はこう続けた。
「…誰かから与えられたタイムリミット付きの体。明日、いや、今この瞬間に全てが終わるかもしれないサドンデスの世界。僕達が生きているのは、そういう無慈悲な世界なんだ。そのなかで、人々は幸福を求め続ける。なら僕は、生きているこの奇跡のような時間だけは、何に縛られるわけでもなく、誰よりも最高に楽しんでいたいんだよ。」
なるほど。余りにも当たり前で、余りにも愉快で、余りにも我儘な彼の言葉に、思わず笑みがこぼれる。
コーヒーを手に取り、一口飲む。先程まで感じていた嫌な苦味は失せていた。
手元の水面に視線を落とす。今度ははっきりと自分の顔が映った。
「君と話したら少し落ち着いたよ。ありがとう。」
私の感謝に、彼は口角を僅かに上げて答え、再び外へと目を向けた。
薄暗かったホテル最上階の一室に、光が射し始める。
円形のテーブルの中心を貫き、天井にまで続く円柱型の大水槽も、日の光を浴びる。
色鮮やかな小魚達は、黒い大理石で出来た壁と相まって幻想的な空間を演出した。
朝日の方へ目をやる。影に包まれていた大都会は、少しずつ姿を見せ始めていた。
しかし何故だろう。
私の目には
その小魚達、
幻想的であるはずの空間や、
日の光に晒されて、輝き始める街の姿さえもが、
虚栄で満ちたチープなものにしか映らなかったのだ。
「時間だ。」
そう言って彼は近くにあった白いボストンバッグを肩に掛け、部屋の出口へ向かう。
丁度、コーヒーを飲み終わった頃だった。私も彼の後に続いた。
「あ、自分の荷物、部屋に忘れてない?」
「チェックアウトは済ませてる。荷物はフロントに預けてあるよ。」
彼らは部屋を出た。ギィィという音を立てながら、黒い扉はゆっくりと閉まる。
それはまるで、もう二度と、誰一人としてこの部屋の扉を開けることは出来ないと思わせるほどだった。
部屋には静寂が訪れた。
大水槽の小魚達は、差し込んでくる光に当たるように必死で泳ぎ続ける。
その事実の前では、鮮やかな色も形も存在せず、皆が等しくただの小魚だった。
黒い大理石で出来た壁は水槽と共に、相も変わらず空間演出に励んでいたが、
光が射さなければ何も出来ないただのピエロだった。
朝日と共に美しさを気取る大都会も、本当に美しいのは、陽と空であり、
自身の醜さを自覚せず誇示しているだけの、ただの傀儡だった。
醜く卑しく残酷な世界。
そうして、世界の終わりの幕が上がる。
確かに静かに置いたが、微かな音であっても気が散ってしまう。
「緊張しているのかい」
不気味なほど赤い朝焼けの空と、薄暗い大都会を一望しながら、暁 憂瑠《あかつき うる》はそう言った。
彼を一瞥し、手元の澱んだ黒い液体に視線を落とした。ぼんやりと、自分の顔が映る。
「…まぁね。しばらくコーヒーも飲めなくなると思うと、どうにも落ち着かない。」
彼は私の方を向いて腕を組み、紅い後光に照らされながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「案外普通なところもあるんだね。君はあまり気持ちを表に出さないから、冷たい人間だと思っていたよ。」
「私は普通の人間だよ。朝に飲むホットコーヒーと、静かな部屋の中で人と話すのが好きな、普通の人間さ。」
それに…と言いながら、カップとソーサーをテーブルに置き、座っていたソファに少し寄りかかった。
「それに、誰だって不安にもなる。これから先、自分がどうなってしまうのか。この街がどうなってしまうのか。逆に私は君を疑うよ。君には焦りの一つも見えない。」
「焦っていないわけじゃないさ。それよりもただ僕は、楽しいんだ。」
彼はこう続けた。
「…誰かから与えられたタイムリミット付きの体。明日、いや、今この瞬間に全てが終わるかもしれないサドンデスの世界。僕達が生きているのは、そういう無慈悲な世界なんだ。そのなかで、人々は幸福を求め続ける。なら僕は、生きているこの奇跡のような時間だけは、何に縛られるわけでもなく、誰よりも最高に楽しんでいたいんだよ。」
なるほど。余りにも当たり前で、余りにも愉快で、余りにも我儘な彼の言葉に、思わず笑みがこぼれる。
コーヒーを手に取り、一口飲む。先程まで感じていた嫌な苦味は失せていた。
手元の水面に視線を落とす。今度ははっきりと自分の顔が映った。
「君と話したら少し落ち着いたよ。ありがとう。」
私の感謝に、彼は口角を僅かに上げて答え、再び外へと目を向けた。
薄暗かったホテル最上階の一室に、光が射し始める。
円形のテーブルの中心を貫き、天井にまで続く円柱型の大水槽も、日の光を浴びる。
色鮮やかな小魚達は、黒い大理石で出来た壁と相まって幻想的な空間を演出した。
朝日の方へ目をやる。影に包まれていた大都会は、少しずつ姿を見せ始めていた。
しかし何故だろう。
私の目には
その小魚達、
幻想的であるはずの空間や、
日の光に晒されて、輝き始める街の姿さえもが、
虚栄で満ちたチープなものにしか映らなかったのだ。
「時間だ。」
そう言って彼は近くにあった白いボストンバッグを肩に掛け、部屋の出口へ向かう。
丁度、コーヒーを飲み終わった頃だった。私も彼の後に続いた。
「あ、自分の荷物、部屋に忘れてない?」
「チェックアウトは済ませてる。荷物はフロントに預けてあるよ。」
彼らは部屋を出た。ギィィという音を立てながら、黒い扉はゆっくりと閉まる。
それはまるで、もう二度と、誰一人としてこの部屋の扉を開けることは出来ないと思わせるほどだった。
部屋には静寂が訪れた。
大水槽の小魚達は、差し込んでくる光に当たるように必死で泳ぎ続ける。
その事実の前では、鮮やかな色も形も存在せず、皆が等しくただの小魚だった。
黒い大理石で出来た壁は水槽と共に、相も変わらず空間演出に励んでいたが、
光が射さなければ何も出来ないただのピエロだった。
朝日と共に美しさを気取る大都会も、本当に美しいのは、陽と空であり、
自身の醜さを自覚せず誇示しているだけの、ただの傀儡だった。
醜く卑しく残酷な世界。
そうして、世界の終わりの幕が上がる。
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