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第二話 稲葉山城潜入
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美濃(みの)の国、稲葉山(いなばやま)の麓(ふもと)。
朝霧が障壁のように立ち込め、湿った白い冷気が群山の間を緩やかに流れ、沈黙した大蛇のごとく山裾に巻き付いていた。空気には枯草の発酵したような匂いが混じっている。その奥底には、今にも火が点きそうな硝煙の気配がひそやかに潜んでいた。
柳澈涵(リュウ・テツカン)は山道の曲がり角に立ち、わずかに顔を上げ、霧を透かして頭上に聳(そび)える険しく陰鬱な山城を見上げた。
稲葉山城。
ここは斎藤(さいとう)氏の中枢たる領地であり、美濃国で最も堅固な「蝮(マムシ)の巣」でもある。城は地に伏した巨獣の如く身を横たえ、石垣は高く積まれ、櫓(やぐら)は牙のように突き出し、盤根錯節(ばんこんさくせつ)たる山道の脇は底知れぬ断崖となっていた。
「柳……柳様」
背後から、押し殺したような声が掛かった。声の主は、重そうな竹籠を背負った中年男、佐吉(さきち)である。
佐吉はこの稲葉山の麓にある村の、どこにでもいる貧しい農民だ。冬の山が閉ざされる前に城の役人たちへ干物や貢物を届けるという苦役を課せられ、柳澈涵は数日前に村へ流れ着いた異邦人として、一宿一飯の恩義からこの荷運びを買って出たのだった。
佐吉は額の冷や汗を拭い、遠くに見える厳重な関所を見つめ、震える足を必死に抑えていた。
「本当に……正面から入るのですか? ここは斎藤家の虎口(ここう)ですよ。貢物を届けに来たとはいえ、もし誰かに刀を持っていると怪しまれたら……」
柳澈涵はすぐには答えなかった。ただ、山頂付近で霧の中に明滅する篝火(かがりび)を静かに見つめ、風に乗って運ばれてくる、極めて微かな金属音に耳を澄ませていた。
それは大合戦の音ではない。探り合うような、抑圧された摩擦の音だ。
「ここの『局面(きょくめん)』は、緩んでいる」
柳澈涵は視線を戻し、緊張で強張る佐吉を一瞥(いちべつ)し、平淡な口調で言った。
「慌てる必要はない。覚えておいてくれ。今日のあんたは、歴史の目撃者でもなければ、私も帯刀した浪人ではない」
「で、では私たちは……」
「私たちは、『さっさと荷物を納めて、家に帰って温かい汁でも啜りたいだけの運び屋』だ」
柳澈涵は竹籠を指差した。
「いつも通りに腰を曲げていればいい」
佐吉は深く息を吸ったが、やはり心許ない。
「ですが、最近は城の検問が厳しくて……」
柳澈涵はわずかに首を傾げ、その清冽な瞳で佐吉の目を見据えた。
その眼差しには余計な感情がなく、奇妙なほどの安らぎがあった。まるでこう語りかけているかのようだった。
『通行手形はただの木片だ。重要なのは、生きた人間の心を欺けるかどうかだ』
佐吉の胸に、電撃のような衝撃が走った。
彼はふと、先日柳澈涵が村の入り口で薪を割っていた時の姿を思い出した。何の変哲もない刀が、彼の手に握られている時だけは命を宿したように見えたのだ。この少年には、人を信服させる不可思議な力がある。
佐吉はそれ以上問うのを止め、覚悟を決めて竹籠を背負い直し、少年の背中を追った。
稲葉山山道、第三関所。
二人の門番が木の柵に寄りかかり、目の下に隈(くま)を作っていた。昨夜からの徹夜の巡回で、明らかに疲弊し、苛立っている様子だった。
霧の中から柳澈涵と佐吉の姿が現れると、そのうちの一人が条件反射のように長槍を上げ、鋭く怒鳴った。
「止まれ! どこの——」
言葉が終わる前に、そのリズムは断ち切られた。
柳澈涵は足を止めず、歩調も変えぬまま、その男の目の前まで進み出た。その距離はすでに「安全な間合い」を超えていたが、不思議と攻撃的な気配は微塵もなかった。
少年は軽く一礼し、天気の話でも切り出すかのように穏やかに言った。
「お役目ご苦労様です。麓の村の者ですが、城代様がお急ぎだとかで、冬の貢物が遅れぬよう、夜明け前から参りました」
門番は眉を顰(ひそ)め、槍を下ろそうとはしない。
「貢物だと? 手形は?」
柳澈涵は懐の古い木札を取り出そうとはしなかった。
ただ静かに顔を上げ、相手の目をまっすぐに見据える。
戦国の乱世において、下層の民が武士を見る目は二つしかない。卑屈な恐怖か、沈黙した服従かだ。
だが、柳澈涵の目はそのどちらでもなかった。
それは——『あなたの疲れはよく分かっています。あなたが今、余計な問答をしたくないことも知っています。私はあなたの手間を省くために来たのです』——そう告げる共犯者のような眼差しだった。
彼は心の中で静かに呟く。
——第一念、奪心(だっしん)。
門番は虚を突かれたように動きを止めた。
その一瞬の視線の交錯の中で、彼は自分が対峙しているのが卑しい運び屋ではなく、自分の「サボりたい、早く交代したい」という本音を、完全に見透かしている理解者であるような錯覚に陥った。
柳澈涵は佐吉の竹籠から、蓮の葉に包まれた握り飯と一欠片の漬物を自然な動作で取り出し、門番の手にそっと握らせた。
「皆様、夜通しのご警護ご苦労様です。これは村の粗末なものでしかありませんが、腹の足しにでもしてください」
門番は無意識のうちに、まだ温かい握り飯を指で押した。
張り詰めていた「尋問」という念は、この瞬間に断ち切られた。心理的な防衛線に生じた微かな亀裂を、柳澈涵は正確に射抜いたのだ。
「……ふん、まあいい」
門番はぶっきらぼうに呟き、品物を袖に隠すと、重そうな竹籠を一瞥して手を振った。
「通れ。中はうろつくなよ。荷を下ろしたらさっさと失せろ」
もう一人の門番も何か言いたげだったが、相棒が賄賂を受け取って通したのを見ると、これ以上面倒な仕事に関わるのを止めた。
「行け行け」
関所を越えた佐吉は、背中を冷や汗でぐっしょりと濡らしていた。
数十歩ほど離れてから、ようやく大きく息を吐き、声を震わせて言った。
「柳様……本当に、ろくに口も利かずに通れるなんて……」
「彼らの第一念は、『面倒事は御免だ』だった」
柳澈涵は前を見据えたまま、淡々と告げた。
「私はただ、その念に従って、彼らに楽をさせてやったに過ぎない」
稲葉山城の城下町(下町)に入ると、空気はさらに異様さを増した。
本来なら朝市が立ち始める時刻だが、通りは不気味なほど静まり返っている。茶屋は戸を閉ざし、鍛冶屋には薄暗い灯りが一つ灯るのみ。野良犬の姿さえ見当たらない。
静寂は、往々にして喧騒よりも危険な兆候である。
柳澈涵は辻に立ち、足音を忍ばせて周囲を観察した。彼の視線は軒下の影、洗濯干しの紐の揺れ、そして地面に残る乱れた足跡を掃引(そういん)していく。
それは通常の観察ではない。「澄心(ちょうしん)」による、環境の流動への感知であった。
「佐吉」
柳澈涵が不意に口を開いた。
「大通りは避ける。左の路地へ」
「え? どうしてですか? そっちは行き止まりですよ」
「城全体の『局面』が、右へ傾いているからだ」
佐吉には「局面が傾く」という言葉の意味は理解できなかったが、この少年に従うことだけは決めていた。
二人が路地の影に身を滑り込ませた直後、大通りを斎藤家の家紋をつけた足軽の一隊が駆け抜けていった。
速度は速いが、統制がない。
足並みは乱れ、具足の紐も緩く、走りながら不安げに背後を振り返る者さえいる——それは巡回ではなく、「逃走」あるいは「火消し」の走り方だ。
柳澈涵は彼らが街角に消えるのを見届け、冷静に言った。
「美濃の内部で……内乱が起きている」
「内乱!?」佐吉は顔面蒼白になった。「じゃあ、早く逃げないと!」
「真の大軍が動くなら、地面が震え、足音は揃うものだ。だが今の連中は、心が浮つき、足元がおぼつかない」
柳澈涵は淡々と続ける。
「これは典型的な——内輪揉めによる小規模な粛清だ」
彼は首を巡らせ、内城(本丸)の方角を見上げた。
「そしてそれは、我々にとっての好機でもある」
空が白み始める頃、柳澈涵は佐吉を連れ、警備の死角と心理的な盲点を突き、あろうことか内城の最も寂れた櫓(やぐら)の近くまで忍び寄っていた。
ここでは、短く鋭い喊声(かんせい)がはっきりと聞こえてきた。
軍勢同士の咆哮ではない。狭い空間で数人が命を奪い合う、湿った生々しい音だ。
柳澈涵は足を止め、耳を澄ませた。
「今日、稲葉山では二つのことが起きている」
彼は静かに分析する。
「一つ、斎藤氏の内部で誰かが叛乱を企てた。二つ……それに乗じて、外部の勢力が何かを仕掛けようとしている」
佐吉は竹籠を抱きしめ、歯をガチガチと鳴らした。
「柳様、荷物はここに置いて帰りましょう。こ、これ以上は本当に命が……」
柳澈涵の手が、ゆっくりと腰の柄(つか)に掛かった。
「いや」
彼は囁くように言った。
「行くぞ」
「行くって、どこへ?」
「音が最も密集している場所へだ」
柳澈涵の視線は、稲葉山城の深奥にある最も濃い影の一点に注がれていた。
「我々の本当の任務は、この籠の干物ではないからな」
「じゃ、じゃあ何なんです?」
柳澈涵は答えなかった。
彼はその混乱した影の中に、ある特殊な気配を感じ取っていた。それは恐怖でも狂気でもなく、現状をすべて焼き尽くさんとする烈火のような意志だった。
局面を破る者(破局者)は、破局者を識別する。
柳澈涵は、まだ見ぬその相手の名を、確信を持って口にした。
「——織田、信長」
この時、まだ誰も知らない。
名目上はただの「貢物の搬入」に過ぎなかったこの潜入が、柳澈涵と「第六天魔王」と呼ばれることになる男との、運命的な邂逅(かいこう)となることを。
そしてこれは、後に史書においてこう記されることになる。
「稲葉山・破局の始まり」と。
城の奥深く、袋小路となった路地に辿り着いた時、彼らは果たしてその光景を目撃した。
十数人の黒塗りの甲冑を纏(まと)った武士たちが、一人の痩せた若者を包囲していた。
若者は鎧を着ていない。この灰色の殺戮の風景の中で、彼は乱世の美学に反するような鮮烈な「赤の小袖(こそで)」を身に纏い、腰には瓢箪(ひょうたん)をぶら下げ、素手で立っていた。その口元には笑みさえ浮かんでいる。
その笑いは炎のようだった。
傲岸不遜、鋭利、不屈。この世の陳腐な規律をすべて踏み砕かんとする野性がそこにあった。
——尾張の大うつけ、織田信長。
「やあ、斎藤家の小僧どもか?」
信長は眉を挑発的に吊り上げ、絶体絶命の淵にいるという自覚など微塵もない声で言った。
「それとも、俺の叔父上が俺に会いたがって、お前たちを使いに出したのかな?」
答えはない。
黒甲冑の武士たちは刀を振り上げ、殺気で退路を塞いだ。
まさに千鈞一髪(せんきんいっぱつ)のその時。
「佐吉、隠れていろ」
柳澈涵はその一言だけを残し、影の中から一歩を踏み出した。
黒甲冑の首領が鋭く叫ぶ。
「何奴だ! 失せろ!」
だが——
柳澈涵には、すでに見えていた。
彼らの立ち位置、刀の握り、呼吸のリズム……一見凶暴に見えるが、「澄心」の視界においては隙だらけだった。
彼らは手練れの忍(しのび)や死兵ではない。臨時に集められた「内通者と雑兵」の寄せ集めに過ぎない。
「第三念」
柳澈涵は静かに呟き、亡霊のように戦いの輪へと滑り込んだ。
「功を焦れば、乱れる」
彼は柄を握る。
抜刀。
その瞬間、周囲の粘りつくような空気が、何か鋭利な刃物で切り裂かれたように鳴った。
——澄心一刀流・四式・断線(だんせん)。
その動きは速すぎて、具体的な型を目で追うことは不可能だった。まるで彼という存在が、ある一点から別の一点へと瞬間移動したかのようだった。
聞こえたのは——
「パァン」
「ガッ」
「キィン——」
刀が肉を断つ鈍い音ではない。関節が外され、重心が跳ね飛ばされ、刃が弾かれる乾いた音の連鎖。
すなわち——「平衡点(バランス)」が破壊される音だ。
三息(さんそく)も経たぬうちに。
信長に最も近づいていた五人の武士が、一斉に地面に崩れ落ちた。外れた肩を押さえて呻く者、膝を砕かれて転がる者、刀を弾き飛ばされて呆然とする者。
全員が身体の「平衡」という線を断ち切られたが、死者は一人もいない。
死兵となる覚悟を決めていた織田信長の瞳が、猛禽のように収縮した。
彼はこのような剣術を見たことがなかった。
これは殺すための剣ではない。相手の「行動の構造」を解体するための剣だ。あたかも牛を解体する庖丁(ほうてい)のごとく、力を用いず、ただ節(ふし)を解いていく。
信長は戦場の中央に立つ、雪のような白髪の少年を見つめ、低く呟いた。
「おい……貴様、何者だ?」
柳澈涵は刀を納めた。その所作は流れる水のように滑らかだった。彼は振り返り、赤小袖の若者を見た。
二人の視線が空中で衝突した。
片や底知れぬ静水、片や万物を焼き尽くす烈火。
柳澈涵は、その瞳の中に燃え盛る、最も純粋な「世界を変えんとする野心」を見た。
彼は悟った。
この男だ。
天下は、この男によって変わる。
「柳澈涵(リュウ・テツカン)」
彼は静かに名乗った。
信長はしばらく彼を凝視していたが、突如として天を仰いで哄笑(こうしょう)した。
その笑い声は狂おしく、鋭く、城に満ちる殺気など歯牙にもかけない響きを持っていた。
「柳澈涵——いい名だ! 貴様、今日俺の命を拾ったな」
信長は無遠慮に手を伸ばし、彼を指差した。その目は稀代の至宝を見つけた時のように輝いている。
「今日より、貴様が俺に随(したが)うなら、俺は貴様にこの天下を与えてやる!」
柳澈涵はすぐには答えなかった。
物陰で震えていた佐吉は、ただ呆然とその光景を見ていた。彼に天下のことなど分からない。だが、自分はとんでもない人物について来てしまったのだということだけは理解できた。
柳澈涵は心の底で、あの音を聞いていた。
——局面を破る者(破局者)を、見つけた音を。
この瞬間、美濃の初冬の風雪が止まったかのように思えた。歴史はここで、密かに、しかし致命的な角度へと舵を切ったのだ。
真に断ち切られたのは、敵の命ではなく——
旧き時代の運命そのものであったからだ。
朝霧が障壁のように立ち込め、湿った白い冷気が群山の間を緩やかに流れ、沈黙した大蛇のごとく山裾に巻き付いていた。空気には枯草の発酵したような匂いが混じっている。その奥底には、今にも火が点きそうな硝煙の気配がひそやかに潜んでいた。
柳澈涵(リュウ・テツカン)は山道の曲がり角に立ち、わずかに顔を上げ、霧を透かして頭上に聳(そび)える険しく陰鬱な山城を見上げた。
稲葉山城。
ここは斎藤(さいとう)氏の中枢たる領地であり、美濃国で最も堅固な「蝮(マムシ)の巣」でもある。城は地に伏した巨獣の如く身を横たえ、石垣は高く積まれ、櫓(やぐら)は牙のように突き出し、盤根錯節(ばんこんさくせつ)たる山道の脇は底知れぬ断崖となっていた。
「柳……柳様」
背後から、押し殺したような声が掛かった。声の主は、重そうな竹籠を背負った中年男、佐吉(さきち)である。
佐吉はこの稲葉山の麓にある村の、どこにでもいる貧しい農民だ。冬の山が閉ざされる前に城の役人たちへ干物や貢物を届けるという苦役を課せられ、柳澈涵は数日前に村へ流れ着いた異邦人として、一宿一飯の恩義からこの荷運びを買って出たのだった。
佐吉は額の冷や汗を拭い、遠くに見える厳重な関所を見つめ、震える足を必死に抑えていた。
「本当に……正面から入るのですか? ここは斎藤家の虎口(ここう)ですよ。貢物を届けに来たとはいえ、もし誰かに刀を持っていると怪しまれたら……」
柳澈涵はすぐには答えなかった。ただ、山頂付近で霧の中に明滅する篝火(かがりび)を静かに見つめ、風に乗って運ばれてくる、極めて微かな金属音に耳を澄ませていた。
それは大合戦の音ではない。探り合うような、抑圧された摩擦の音だ。
「ここの『局面(きょくめん)』は、緩んでいる」
柳澈涵は視線を戻し、緊張で強張る佐吉を一瞥(いちべつ)し、平淡な口調で言った。
「慌てる必要はない。覚えておいてくれ。今日のあんたは、歴史の目撃者でもなければ、私も帯刀した浪人ではない」
「で、では私たちは……」
「私たちは、『さっさと荷物を納めて、家に帰って温かい汁でも啜りたいだけの運び屋』だ」
柳澈涵は竹籠を指差した。
「いつも通りに腰を曲げていればいい」
佐吉は深く息を吸ったが、やはり心許ない。
「ですが、最近は城の検問が厳しくて……」
柳澈涵はわずかに首を傾げ、その清冽な瞳で佐吉の目を見据えた。
その眼差しには余計な感情がなく、奇妙なほどの安らぎがあった。まるでこう語りかけているかのようだった。
『通行手形はただの木片だ。重要なのは、生きた人間の心を欺けるかどうかだ』
佐吉の胸に、電撃のような衝撃が走った。
彼はふと、先日柳澈涵が村の入り口で薪を割っていた時の姿を思い出した。何の変哲もない刀が、彼の手に握られている時だけは命を宿したように見えたのだ。この少年には、人を信服させる不可思議な力がある。
佐吉はそれ以上問うのを止め、覚悟を決めて竹籠を背負い直し、少年の背中を追った。
稲葉山山道、第三関所。
二人の門番が木の柵に寄りかかり、目の下に隈(くま)を作っていた。昨夜からの徹夜の巡回で、明らかに疲弊し、苛立っている様子だった。
霧の中から柳澈涵と佐吉の姿が現れると、そのうちの一人が条件反射のように長槍を上げ、鋭く怒鳴った。
「止まれ! どこの——」
言葉が終わる前に、そのリズムは断ち切られた。
柳澈涵は足を止めず、歩調も変えぬまま、その男の目の前まで進み出た。その距離はすでに「安全な間合い」を超えていたが、不思議と攻撃的な気配は微塵もなかった。
少年は軽く一礼し、天気の話でも切り出すかのように穏やかに言った。
「お役目ご苦労様です。麓の村の者ですが、城代様がお急ぎだとかで、冬の貢物が遅れぬよう、夜明け前から参りました」
門番は眉を顰(ひそ)め、槍を下ろそうとはしない。
「貢物だと? 手形は?」
柳澈涵は懐の古い木札を取り出そうとはしなかった。
ただ静かに顔を上げ、相手の目をまっすぐに見据える。
戦国の乱世において、下層の民が武士を見る目は二つしかない。卑屈な恐怖か、沈黙した服従かだ。
だが、柳澈涵の目はそのどちらでもなかった。
それは——『あなたの疲れはよく分かっています。あなたが今、余計な問答をしたくないことも知っています。私はあなたの手間を省くために来たのです』——そう告げる共犯者のような眼差しだった。
彼は心の中で静かに呟く。
——第一念、奪心(だっしん)。
門番は虚を突かれたように動きを止めた。
その一瞬の視線の交錯の中で、彼は自分が対峙しているのが卑しい運び屋ではなく、自分の「サボりたい、早く交代したい」という本音を、完全に見透かしている理解者であるような錯覚に陥った。
柳澈涵は佐吉の竹籠から、蓮の葉に包まれた握り飯と一欠片の漬物を自然な動作で取り出し、門番の手にそっと握らせた。
「皆様、夜通しのご警護ご苦労様です。これは村の粗末なものでしかありませんが、腹の足しにでもしてください」
門番は無意識のうちに、まだ温かい握り飯を指で押した。
張り詰めていた「尋問」という念は、この瞬間に断ち切られた。心理的な防衛線に生じた微かな亀裂を、柳澈涵は正確に射抜いたのだ。
「……ふん、まあいい」
門番はぶっきらぼうに呟き、品物を袖に隠すと、重そうな竹籠を一瞥して手を振った。
「通れ。中はうろつくなよ。荷を下ろしたらさっさと失せろ」
もう一人の門番も何か言いたげだったが、相棒が賄賂を受け取って通したのを見ると、これ以上面倒な仕事に関わるのを止めた。
「行け行け」
関所を越えた佐吉は、背中を冷や汗でぐっしょりと濡らしていた。
数十歩ほど離れてから、ようやく大きく息を吐き、声を震わせて言った。
「柳様……本当に、ろくに口も利かずに通れるなんて……」
「彼らの第一念は、『面倒事は御免だ』だった」
柳澈涵は前を見据えたまま、淡々と告げた。
「私はただ、その念に従って、彼らに楽をさせてやったに過ぎない」
稲葉山城の城下町(下町)に入ると、空気はさらに異様さを増した。
本来なら朝市が立ち始める時刻だが、通りは不気味なほど静まり返っている。茶屋は戸を閉ざし、鍛冶屋には薄暗い灯りが一つ灯るのみ。野良犬の姿さえ見当たらない。
静寂は、往々にして喧騒よりも危険な兆候である。
柳澈涵は辻に立ち、足音を忍ばせて周囲を観察した。彼の視線は軒下の影、洗濯干しの紐の揺れ、そして地面に残る乱れた足跡を掃引(そういん)していく。
それは通常の観察ではない。「澄心(ちょうしん)」による、環境の流動への感知であった。
「佐吉」
柳澈涵が不意に口を開いた。
「大通りは避ける。左の路地へ」
「え? どうしてですか? そっちは行き止まりですよ」
「城全体の『局面』が、右へ傾いているからだ」
佐吉には「局面が傾く」という言葉の意味は理解できなかったが、この少年に従うことだけは決めていた。
二人が路地の影に身を滑り込ませた直後、大通りを斎藤家の家紋をつけた足軽の一隊が駆け抜けていった。
速度は速いが、統制がない。
足並みは乱れ、具足の紐も緩く、走りながら不安げに背後を振り返る者さえいる——それは巡回ではなく、「逃走」あるいは「火消し」の走り方だ。
柳澈涵は彼らが街角に消えるのを見届け、冷静に言った。
「美濃の内部で……内乱が起きている」
「内乱!?」佐吉は顔面蒼白になった。「じゃあ、早く逃げないと!」
「真の大軍が動くなら、地面が震え、足音は揃うものだ。だが今の連中は、心が浮つき、足元がおぼつかない」
柳澈涵は淡々と続ける。
「これは典型的な——内輪揉めによる小規模な粛清だ」
彼は首を巡らせ、内城(本丸)の方角を見上げた。
「そしてそれは、我々にとっての好機でもある」
空が白み始める頃、柳澈涵は佐吉を連れ、警備の死角と心理的な盲点を突き、あろうことか内城の最も寂れた櫓(やぐら)の近くまで忍び寄っていた。
ここでは、短く鋭い喊声(かんせい)がはっきりと聞こえてきた。
軍勢同士の咆哮ではない。狭い空間で数人が命を奪い合う、湿った生々しい音だ。
柳澈涵は足を止め、耳を澄ませた。
「今日、稲葉山では二つのことが起きている」
彼は静かに分析する。
「一つ、斎藤氏の内部で誰かが叛乱を企てた。二つ……それに乗じて、外部の勢力が何かを仕掛けようとしている」
佐吉は竹籠を抱きしめ、歯をガチガチと鳴らした。
「柳様、荷物はここに置いて帰りましょう。こ、これ以上は本当に命が……」
柳澈涵の手が、ゆっくりと腰の柄(つか)に掛かった。
「いや」
彼は囁くように言った。
「行くぞ」
「行くって、どこへ?」
「音が最も密集している場所へだ」
柳澈涵の視線は、稲葉山城の深奥にある最も濃い影の一点に注がれていた。
「我々の本当の任務は、この籠の干物ではないからな」
「じゃ、じゃあ何なんです?」
柳澈涵は答えなかった。
彼はその混乱した影の中に、ある特殊な気配を感じ取っていた。それは恐怖でも狂気でもなく、現状をすべて焼き尽くさんとする烈火のような意志だった。
局面を破る者(破局者)は、破局者を識別する。
柳澈涵は、まだ見ぬその相手の名を、確信を持って口にした。
「——織田、信長」
この時、まだ誰も知らない。
名目上はただの「貢物の搬入」に過ぎなかったこの潜入が、柳澈涵と「第六天魔王」と呼ばれることになる男との、運命的な邂逅(かいこう)となることを。
そしてこれは、後に史書においてこう記されることになる。
「稲葉山・破局の始まり」と。
城の奥深く、袋小路となった路地に辿り着いた時、彼らは果たしてその光景を目撃した。
十数人の黒塗りの甲冑を纏(まと)った武士たちが、一人の痩せた若者を包囲していた。
若者は鎧を着ていない。この灰色の殺戮の風景の中で、彼は乱世の美学に反するような鮮烈な「赤の小袖(こそで)」を身に纏い、腰には瓢箪(ひょうたん)をぶら下げ、素手で立っていた。その口元には笑みさえ浮かんでいる。
その笑いは炎のようだった。
傲岸不遜、鋭利、不屈。この世の陳腐な規律をすべて踏み砕かんとする野性がそこにあった。
——尾張の大うつけ、織田信長。
「やあ、斎藤家の小僧どもか?」
信長は眉を挑発的に吊り上げ、絶体絶命の淵にいるという自覚など微塵もない声で言った。
「それとも、俺の叔父上が俺に会いたがって、お前たちを使いに出したのかな?」
答えはない。
黒甲冑の武士たちは刀を振り上げ、殺気で退路を塞いだ。
まさに千鈞一髪(せんきんいっぱつ)のその時。
「佐吉、隠れていろ」
柳澈涵はその一言だけを残し、影の中から一歩を踏み出した。
黒甲冑の首領が鋭く叫ぶ。
「何奴だ! 失せろ!」
だが——
柳澈涵には、すでに見えていた。
彼らの立ち位置、刀の握り、呼吸のリズム……一見凶暴に見えるが、「澄心」の視界においては隙だらけだった。
彼らは手練れの忍(しのび)や死兵ではない。臨時に集められた「内通者と雑兵」の寄せ集めに過ぎない。
「第三念」
柳澈涵は静かに呟き、亡霊のように戦いの輪へと滑り込んだ。
「功を焦れば、乱れる」
彼は柄を握る。
抜刀。
その瞬間、周囲の粘りつくような空気が、何か鋭利な刃物で切り裂かれたように鳴った。
——澄心一刀流・四式・断線(だんせん)。
その動きは速すぎて、具体的な型を目で追うことは不可能だった。まるで彼という存在が、ある一点から別の一点へと瞬間移動したかのようだった。
聞こえたのは——
「パァン」
「ガッ」
「キィン——」
刀が肉を断つ鈍い音ではない。関節が外され、重心が跳ね飛ばされ、刃が弾かれる乾いた音の連鎖。
すなわち——「平衡点(バランス)」が破壊される音だ。
三息(さんそく)も経たぬうちに。
信長に最も近づいていた五人の武士が、一斉に地面に崩れ落ちた。外れた肩を押さえて呻く者、膝を砕かれて転がる者、刀を弾き飛ばされて呆然とする者。
全員が身体の「平衡」という線を断ち切られたが、死者は一人もいない。
死兵となる覚悟を決めていた織田信長の瞳が、猛禽のように収縮した。
彼はこのような剣術を見たことがなかった。
これは殺すための剣ではない。相手の「行動の構造」を解体するための剣だ。あたかも牛を解体する庖丁(ほうてい)のごとく、力を用いず、ただ節(ふし)を解いていく。
信長は戦場の中央に立つ、雪のような白髪の少年を見つめ、低く呟いた。
「おい……貴様、何者だ?」
柳澈涵は刀を納めた。その所作は流れる水のように滑らかだった。彼は振り返り、赤小袖の若者を見た。
二人の視線が空中で衝突した。
片や底知れぬ静水、片や万物を焼き尽くす烈火。
柳澈涵は、その瞳の中に燃え盛る、最も純粋な「世界を変えんとする野心」を見た。
彼は悟った。
この男だ。
天下は、この男によって変わる。
「柳澈涵(リュウ・テツカン)」
彼は静かに名乗った。
信長はしばらく彼を凝視していたが、突如として天を仰いで哄笑(こうしょう)した。
その笑い声は狂おしく、鋭く、城に満ちる殺気など歯牙にもかけない響きを持っていた。
「柳澈涵——いい名だ! 貴様、今日俺の命を拾ったな」
信長は無遠慮に手を伸ばし、彼を指差した。その目は稀代の至宝を見つけた時のように輝いている。
「今日より、貴様が俺に随(したが)うなら、俺は貴様にこの天下を与えてやる!」
柳澈涵はすぐには答えなかった。
物陰で震えていた佐吉は、ただ呆然とその光景を見ていた。彼に天下のことなど分からない。だが、自分はとんでもない人物について来てしまったのだということだけは理解できた。
柳澈涵は心の底で、あの音を聞いていた。
——局面を破る者(破局者)を、見つけた音を。
この瞬間、美濃の初冬の風雪が止まったかのように思えた。歴史はここで、密かに、しかし致命的な角度へと舵を切ったのだ。
真に断ち切られたのは、敵の命ではなく——
旧き時代の運命そのものであったからだ。
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