戦国澄心伝

RyuChoukan

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第四話 観局の朝

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雪上がりの稲葉山城は、ぶ厚い霧にすっぽりと呑まれていた。

 朝日がまだ谷底まで届かぬうちから、城内には短く重い太鼓の音が、鼓膜ではなく腹の底を叩くように響き渡っている。

 柳澈涵(リュウ・テツカン)は織田信長に従い、上層の本丸へ続く石段を一段ずつ踏みしめていた。石段は夜露を吸ったように冷たく湿り、苔がまだらに貼り付き、その一段ごとに歳月の重みが沈殿している――ここは斎藤道三と、その子・義龍(よしたつ)の二代が踏み固めた権勢の道であり、石の継ぎ目からは、今もなお陰謀の黴(かび)臭さがじわりと滲み出てくるかのようだった。

 信長は足早に進む。

 今日の彼は、より格式ある具足を身に着けていた。相変わらず着こなしは粗雑で、小袖を風に靡(なび)かせているものの、「尾張の大うつけ」としての奔放さはひとまず鳴りを潜め、その代わりに肌を刺すような、純度の高い危険な威圧感が周囲に満ちていた。背後の小姓や家臣たちは、小走りにならなければ、その背中に追いつけない。

 柳澈涵は鎧を纏わず、深い色の羽織を一枚引っかけているだけで、腰にはあの『澄心村正(ちょうしん・むらまさ)』を静かに帯びていた。

 彼は家臣でもなく、正式な武士でもない。ましてや、名を連ねた軍師でもない。

 それでも、隊列における彼の立ち位置は奇妙だった。先頭でもなければ最後尾でもなく――信長の、ほとんどすぐ傍(そば)。階級がすべてを物言う武家社会において、これは露骨な僭越(せんえつ)以外の何物でもない。

 隊列の後方で、織田家の近習が声を潜める。

「……あいつは何者だ?」

「昨夜の騒ぎから殿をお救いした男らしいぞ」と、別の者が答えた。

「浪人か?」

「いや――浪人にしては気配が違う。あの腰の刀を見ろ。帯びてはいるが……まるで人を斬る気など微塵もないかのように、静まり返っている」

「ふん、殿がどこかで拾ってきた、怪しげな術師かもしれんぞ」

 囁きはしばらく続いたが、それ以上声を荒らげる者はいなかった。先頭を歩く織田信長という男自身が、導火線に火のついた火薬樽のような存在だからだ。背後で無駄口を叩けば、真っ先に吹き飛ばされるのは自分たちである。

 柳澈涵はそうした声を耳にしながらも、意識を向けることはなかった。

 彼が聞いていたのは――城内の「足音」だった。

 廊下の一区画ごとに、重い扉の向こうから聞こえてくる生活音が、細かく違っている。鉄を打つように重い足音、鼠のように慌ただしい足音、あるいは何かに押さえつけられたかのように、死んだように沈黙した一角。

 稲葉山城は今、「収縮」している。

 それはつまり、昨夜の変事に対する「答え」がすでに出たことを意味していた。誰かが粛清され、誰かがきつい叱責を受け、一夜にして権力の勢力図が、わずかながらも致命的なズレを起こしたのだ。

 彼らは今、それぞれの「局面(ばん)」を並べ直している。

 柳澈涵はそれを理解していた。そして、この盤上で唯一予測不能な「変数」が、他ならぬ織田信長であることも。

 上層本丸の前庭には、すでに静かな殺気が澱(よど)んでいた。

 大軍が整列しているわけではない。代わりに、数十名の完全武装した旗本(はたもと)と、回廊の下に控える数名の重臣たちがいる。

 彼らこそが美濃国の情勢を左右する三人――世に「西美濃三人衆(にしみの・さんにんしゅう)」と呼ばれる実力者たちである。

 中央に立つのは、岩塊を思わせる冷厳な面構えをした魁偉(かいい)な宿将。両の鬢(びん)には白いものが混じるが、背筋は槍の柄のごとく真っ直ぐに伸び、歴戦の将のみがまとう鉄血の気配を漂わせている。

 稲葉一鉄(いなば・いってつ)。

 その左には、陰湿な眼光を宿した痩身の男――安藤守就(あんどう・もりなり)。

 右には、柔和に見えながら、笑顔の裏に刃を隠した中年――氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)。

 三人は信長が歩み寄ってくるのを、冷ややかに見つめていた。それは領内に迷い込んだ猪を品定めするような目つきだった。やがて彼らの視線は、信長の横に立つ白髪の青年をとらえ、「何者だ? なぜそこに立っている?」という疑念と軽蔑の色を、露骨に宿らせる。

 信長は、そうした視線など存在しないかのように、堂々と庭の中央へと踏み出した。

 稲葉一鉄がゆっくりと前に進む。その鷲(わし)のごとき眼光が、信長を真正面から射抜いた。彼は平伏することなく、わずかに上体を傾けただけだ。それは強者が強者に払う、ぎりぎりの礼節である。

「織田殿。 昨夜は、よくお休みになれましたかな」

 一鉄の声は低く重く、金属同士が擦れ合うような響きを含んでいた。

 信長は笑い、一歩も退かずに返す。

「悪くはない――夜半に、刃物を研ぐ音で余興をしてくれた者がいてな。だが俺という男は、そういう音を聞くと、かえって枕が高くなる質(たち)でな」

 その言葉に、隠し立てはひとかけらもない。昨夜の暗殺未遂を、真正面から卓上に叩きつけたのだ。

 安藤と氏家の顔色が、ほんのわずかに揺らぐ。

「昨夜の一件、まこと城内の警備不行き届きにて」

 一鉄の口調は、水が一滴も漏れぬ桶のように揺らぎがない。「すでに調べはついておりますが、あれは身の程知らずな浪人や下級武士どもの暴走であり、決して斎藤家の本意ではございませぬ。殿にはさぞご不快な思いをさせました」

 それは責任を「下層」に押し付け、事を穏便に収めようとする、いかにも老練な政治的回答だった。

 信長は彼をじっと見据え、笑みを崩さぬまま、眼光だけを冷やす。

「そうか? ならば礼を言おう――その『不肖の輩(やから)』のおかげで、俺にはいくつかの人間の正体が見えた」

 一鉄の目が細く光った。「ほう? 殿には何が見えましたかな」

 信長はすぐには答えず、半身に構えて手を挙げ、背後の柳澈涵を示した。

「――こいつに言わせよう」

 その一言で、庭中の視線が――西美濃三人衆の刃のような眼光も含め――一斉に、この無名の青年へと集中した。

 柳澈涵は一歩前へ出る。

 武士の礼も、文官の礼も取らない。ただ極めて簡素に拱手(きょうし)し、わずかに頭を下げた。その一連の動作には卑屈さがなく、むしろ奇妙な「距離感」があった。

「柳澈涵と申します。昨夜の一件につき、少々、見立てがございます」

 稲葉一鉄が眉を寄せ、山そのもののような威圧を青年にぶつける。

「貴様は何者だ。織田家ではいつから、乳臭い若造に陣前で発言させるようになった?」

「仮の身分ではありますが、織田殿の側で『局面を見る者』を務めております」

 柳澈涵はその殺気を、そよ風ほどにも意に介さず、平坦に答えた。「軍師などと名乗るつもりはございません」

「局面を見る、だと?」安藤守就が鼻で笑う。「若造が何の局面を見るというのだ。この稲葉山の水が、どれほど深いかも知らぬくせに」

 柳澈涵は彼を見ることさえしなかった。ただ視線をゆるやかに巡らせ、その場にいる重要人物たちの顔、立ち位置、呼吸の速さ、そして刀の柄を叩く指のリズムに至るまでを、ひと掃きに観察する。

 名は知らない。だが、「心」は見えている。

 これこそが「澄心」の真骨頂だった。

 彼は静かに口を開く。声は決して大きくないが、澄んだ刃のように場を貫いた。

「昨夜、手を下した者たちは、織田殿を最も憎んでいる連中ではありません」

 庭が、音を失ったように静まり返る。

「……ほう?」一鉄が目を細める。「何故そう断じられる?」

「理由は簡単です」

 柳澈涵の穏やかな視線が、『一鉄(頑固者)』の異名を持つ宿将を射抜いた。

「――手口が『慎重』すぎました」

「もし殿を本気で憎む死兵であれば、あのような拙劣なやり方は取らぬでしょう。容易に発覚する場所で、あえて『わざと隙を見せる』ような真似もしません。彼らなら、火を放ち、毒を盛り、この城の一角ごと吹き飛ばす覚悟で来るはずです」

 彼は急がず、淡々と続ける。その言葉は鋭利なメスのように、局面の表皮を薄く切り裂いていく。

「真に殺意を抱く者は、余地など残さない」

「昨夜の者たちは、誰かに盤上へ押し出された捨て駒に過ぎません。黒幕は混乱に乗じて手を伸ばし、上手くいけば儲け物、失敗しても『身代わりの首を数個差し出せば収まる』と踏んでいたのでしょう」

 氏家卜全の貼り付いていた笑みが、ゆっくりと凍り付く。

「その程度の推測、誰にでも言える」

 柳澈涵は、今度は彼を見る。

「もし私が間違っているのなら――其方(そなた)は先ほどから、なぜずっと刀の柄を押さえておられるのです?」

 氏家の指が、ビクリと跳ねた。

 稲葉一鉄の顔色が、さすがに沈む。「貴様、誰を指してものを言っている?」

「誰も指してはいません」

 柳澈涵は淡々と首を振る。

「私が示しているのは、昨夜の局が『殺(さつ)』ではなく、『探(たん)』であったという事実のみです」

「何を探る?」

 今度は信長が割って入った。その声音は、極上の芝居を楽しむ観客のように弾んでいる。

「俺か? それとも斎藤家か?」

「双方です」

 柳澈涵は即答した。

「誰かが殿を殺すという名目で、斎藤家内部――とりわけ『三人衆』の皆様の立ち位置を探りました。同時に、殿の剣を利用して、斎藤義龍殿の出方を見ようともしている」

「これは『観測気球』です。池に石を投げ込み、水しぶきを上げさせ、最初に濡れる者が誰かを見る試み――」

 一鉄の眼光が、さらに危険な色を帯びる。手はすでに刀の柄にかかっていた。

「小僧、その言葉、あまりに不遜(ふそん)だぞ」

「不遜ではありません」

 柳澈涵は静かに首を振った。

「ただの観察です。――現に皆様は今日ここで、織田殿を討つこともなく、昨夜の件を徹底的に洗い出すこともなく、『言葉による安撫(あんぶ)』を選ばれた」

「つまり、皆様ご自身も、まだ『見ている』のです。殿がこの程度で怯(ひる)む器かどうか、外にどのような噂が流れるか、そして今後、どれほどの者が斎藤側に賭け続けるかを」

 言い終えた瞬間、庭全体が、死という字の形に固まったかのような静寂に包まれた。

 西美濃三人衆は互いにちらりと視線を交わす。その瞳の奥底に、隠しようのない驚愕が走った。

 彼らが腹の底に隠していた密やかな打算、酒席ですら口外できぬ謀略の数々が、この異国風の白髪の青年によって、薄皮を剥ぐように一枚一枚暴かれ、白日の下に晒されたのだ。

 これは、ただの若造ではない。

 誰かに取り入るためでもなく、功名を求めるためでもない。

 彼はただ――純粋に「局面」を読み、それをそのままの形で「言葉」にしているだけだ。

 嘘と欺瞞(ぎまん)に満ちた乱世において、こういう人間こそが、最も恐ろしい。

 会談が終わりに差しかかったとき、信長は不意に一歩踏み出し、一鉄たちに向かって言った。

「昨夜のことは、ひとまず俺の胸に納めておこう」

 その「ひとまず」という一語には、軽いようでいて鋭い棘のある脅しが含まれている。

「俺が貴様らを信じるかどうかは、いずれ戦場で明らかになるだろう」

 彼は横を向き、柳澈涵に一瞥をくれた。口元の笑みが、さらに深くなる。

「だが、一つだけ確信したことがある」

「何でござるかな」一鉄が冷ややかに問う。

「――この世にはな」

 信長は、不敵に笑った。

「貴様ら古狸(ふるだぬき)どもより、遥か先まで見通せる奴がいる、ということだ」

「俺は、そういう奴を使うのが好きでな」

 彼は一拍置き、美濃の重臣たちの面前で、高らかに宣言した。

「柳澈涵。今日より、貴様を仮に――」

 彼は「家臣」とは言わなかった。

 「軍師」とも言わなかった。

 代わりに、その場で即興したかのような、奇妙な役職名を口にする。

「――俺の『影見(かげみ)』とする。傍らに在りて俺を見、この乱世を見よ」

 再び、場が静まり返った。

「貴様は俺の影となれ」

 信長は続ける。

「俺には見えぬ死角を見張り、そして俺に告げろ――俺がどこで間違っているかを」

 忠義を金科玉条とするこの場の武士たちにとって、それは挑発に等しい言葉だった。正体も知れぬ若造に、信長は公然と「自分を正す権利」を与えたのだ。

 柳澈涵は静かに一礼し、極めて簡潔に答えた。

「不当な点があれば――殿が真に改めるお覚悟をお持ちであることを、願い上げます」

 信長は大笑した。その笑い声は梢の雪を震わせるほどに響き渡る。

「いいだろう! それでこそだ!」

 彼は踵(きびす)を返し、一鉄たちにぞんざいに拱手してみせた。

「今日は邪魔をした。また会おう」

「その時まで、美濃がまだ貴様らの手に残っていればいいがな」

 最後の一言は、呪詛とも祝詞ともつかぬ調子で淡々と放たれ、三人衆の胸に鋭く突き刺さった。

 本丸を辞した信長の足取りは、先ほどよりも明らかに軽い。

 山を下る途中、彼はふいに振り返って尋ねた。

「さっき貴様、言っていたな――『今後どれだけの人間が斎藤側に賭け続けるかを見ている』と。あれは一鉄に聞かせるためか? それとも俺にか?」

「双方です」

 柳澈涵は答える。「それと、あれは主に安藤守就殿へ向けた言葉です。あの場で最も心が揺れていたのは、彼でしたから」

 信長は舌打ちした。「貴様のその目、時々、ぞっとするほど気味が悪いな」

 彼はしばし考え込み、足を止める。

「俺は、もうしばらく美濃に留まる」

 信長は言った。「稲葉一鉄という古狸が腹を見せた以上、俺が直々にこの水を掻き回してやらねばならん」

「貴様は先に行け」

「どこへ?」

「尾張との国境にある、見付(みつけ)だ」信長は遠く連なる山脈を見上げる。「そこで俺を待て」

「私ひとりで?」

「ひとりではない」

 信長は眉を上げ、後ろで竹籠を背負い、首をすくめて気配を消していた中年男・佐吉を指差した。

「そいつも連れて行け」

 佐吉は膝から崩れ落ちそうになる。「へ!? わ、わしですか!? と、殿、わしはただの干物売りで……」

 信長は意地の悪い笑みを浮かべた。

「道中、誰ぞに出くわすかもしれんぞ。斎藤の連中は、そう易々と俺には手を出せんが――俺の周りの人間を見逃すとは限らん」

「敵か、味方か、それは分からん」

「だが俺にとって――」

 彼は声を潜め、柳澈涵にだけ聞こえるように続けた。

「貴様が何を見て、誰に出会うか。それを持ち帰って俺に告げることが、俺が次の層へ進めるかどうかの『目』になる」

 柳澈涵は、静かに頷いた。

「それと、もう一つだ」

 信長は彼を見据える。

「俺の護衛から離れ、足手まといを抱えた貴様が、山中で強敵に遭った時、どう動くか――それが見たい」

「それが貴様の役目、『影見』だ」

「俺を見るだけではない。貴様自身も、試してこい」

 そう言い残すと、彼は手勢に手短に指示を飛ばし、見付までの案内役として少人数を柳澈涵に残すと、残りの兵を率いて再び城へと引き返していった。――この蝮の巣でもうひと暴れするために。

 山風が吹き抜け、地上の残雪を巻き上げる。

 分かれ道が目の前にある。

 信長は、遠ざかりながらも手を挙げて別れを告げた。その背中は、なお炎のように揺らめいて見えた。

「見付で待て」

 柳澈涵は一礼する。

「お待ちしております」

 ここで二人はいったん、道を違(たが)える――

 一人は稲葉山城という渦の中心へ戻り、海千山千の政治家たちとの駆け引きへ。

 一人は南の険しい山道へ向かい、未知なる「剣」と「心」に対峙するために。
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