戦国澄心伝

RyuChoukan

文字の大きさ
18 / 268

第十八話 無刀の戦い・十日の城下

しおりを挟む
永禄五年(一五六二年)初夏。清洲城下・西町。

 雨が上がったばかりで、西町の泥道には、まだ薄く湿り気が残っていた。路地の奥に、軒の低い木造の小屋が一軒。入口には、洗いすぎて色の抜けた布切れが一枚ぶら下がり、通りから流れ込む酒の匂いと怒鳴り声を、どうにか遮っている。

 中では油皿に灯が一つだけ点っていた。灯火は心許ないが、土間に広げられた一枚の粗い地図だけは、ちょうど照らしている――墨の線で木曽川と長良川が描かれ、その上には、いささか乱れた筆致で「美濃」と二文字が記されていた。

 柳澈涵はその地図の一角に胡座をかき、白い髪を紐で雑に後ろへまとめている。手には細い筆。時おり、小さな丸印の横に点を加えたり、線をそっと引き消したりしていた。

 木下藤吉郎は、落ち着きなく小屋の中を行ったり来たりしている。ひとしきり地図を覗き込んでは、また窓際に寄って外をうかがい、今にも誰かに踏み込まれるのではないかといった風だ。

 幸蔵と、選りすぐられた足軽二人は、素直に入口近くに膝をついている。目の前には包んだ反物の見本、塩袋、それにずっしり重い小さな金袋がいくつか並んでいた。

 「よく覚えておけ。」

 柳澈涵は筆を置き、顔を上げて一同を見やった。

 「このたび出るのは、兵ではない。値だ。」

 「値?」藤吉郎は頭を掻いた。

 「それじゃあ、戦じゃなくて、商いに行くってことでございますか?」

 柳澈涵は地図を指で叩いた。

 「戦をするには、兵が要る。粮が要る。刀が要る。美濃を攻めようとするなら、まず知らねばならん――奴らの兵がどこまで主を恨んでいるか、粮がどこに積まれているか、刀が誰に差し出されているかを。今回お前たちが運ぶのは、刀より金の方だ。」

 幸蔵は口元を引きつらせ、自分の腰の短刀をちらりと見てから、目の前の金袋に視線を移した。どうにも落ち着かない。

 「じゃあ……本当に、人は斬らなくてよろしいので?」

 「お前たちがいずれ斬る相手は、そのうち自分で首を差し出しに来る。」

 柳澈涵の声は淡々としていた。

 「今は、奴らが誰をどう罵るか、それを聞くだけでいい。」

 そう言うと、彼は指先で地図の上を三か所、順に突いた。

 「一つ。城下の酒場や飯屋。足軽どもが一番たむろする場所だ――そこへ行って、誰を罵っているかを聞け。俸禄を滞らせているのは誰か、軍糧をくすねているのは誰か。その名をもれなく書き留めろ。

 二つ。大きな寺、小さな社。香の煙が絶えぬところには、たいてい粮蔵も近い。施しの粥の出方、米の値段を聞け。どの寺が稲葉山と近しく、どの寺が『困窮する百姓』を口にするか。

 三つ。そして、ある名だ。」

 柳澈涵は筆を取り、美濃の一角の小山のそばに「竹中家」と書き、その脇にさらに「半兵衛」と書き添えた。

 「お前たちが会いに行く必要はない。ただ聞け――城下でこの男の名がどれほど囁かれているか。清廉だと言われていようと、扱いにくいと言われていようと、すべて記しておけ。」

 藤吉郎はぱちぱちと瞬きをした。

 「そいつも……いずれ買い取るお方で?」

 柳澈涵はふと彼を見やり、天気の話でもするかのような調子で答えた。

 「いずれ買い取る相手は、人とは限らん。山かもしれんし、川かもしれん。溜まりに溜まった怨みかもしれん。竹中半兵衛……まずは名を刻んでおけ。」

 そこまで言うと、彼は金袋をいくつか藤吉郎の前へ押しやった。

 「金は細かく分けて持て。一つにまとめるな。一息でさらわれる。」

 「それから――お前たちは商人だ。浪人ではない。」

 「では先生は?」幸蔵が思わず口を開いた。

 「ご一緒には?」

 柳澈涵は、すこし笑みを浮かべると、地図の一角を折り上げた。

 「棋を打つ者が、駒と一緒に盤の上を歩き回っていては、全体が見えん。私はここで待っている。お前たちが見たもの、聞いたものを、すべてこの紙の上へ投げ出してくれればよい。」

 藤吉郎は歯を見せて笑い、手を合わせて深く一礼した。

 「では、この臭い駒どもが、先生の代わりに、美濃の盤の上を十日ばかり走り回ってまいります。」

 柳澈涵は肯も否もせず、ただ手を伸ばして油皿の火を吹き消した。小屋の中がふっと暗くなり、戸を開けると、西町の夜気が酒の匂いと湿った泥の臭いを連れて、一気に流れ込んでくる。

 刀なき戦いは、音もなく幕を開けた。

 永禄五年初夏の三日目。木曽川には、まだ霧が残っていた。

 細長い木舟が、流れに逆らって川を遡っていく。舳先には破れた布の幌が一枚掲げられ、「尾張屋」と三文字が書かれている。墨は雨に打たれて滲み、どこぞの零細商人が、間に合わせで描きつけたものとしか見えない。

 藤吉郎は艫に身を縮め、両手で竹竿を握って、一方の岸を押しながら、肩越しに仲間を振り返った。

 「おい、幸蔵。その算盤、しっかり抱いとけよ。川ん中へひっくり返したら、船ん中で一番値打ちのあるもんが沈むぞ。」

 幸蔵は船の中央に座り、算盤を胸に抱え込んでいる。腰回りは妙にふくらんでおり、彼が小分けにした銀が、そこにびっしり詰まっているのだ。

 「言うならもっと大きな声で言ってごらんなさいな。両岸の奴らにまで聞こえるように。」

 ぶっきらぼうに返すと、もう一人の足軽が小声で笑った。

 「木下様、昔もこんなことをしておられたんでしょう? 尾張から米を担いで美濃へ運びながら、途中で犬でも分かるような値段でまとめて売りつけるとか。」

 「それを腕前って言うんだ。」

 藤吉郎は得意げに肩をそびやかした。

 「昔は人の米を押してたがな、今は立派な“出陣”よ。持ってくのは兵じゃなくて、銀子だが。」

 船がぐらりと揺れた。竹竿の先が川底の石を突き、鈍い音を立てる。薄い霧の向こうから、川岸の輪郭がじわりと現れてきた――片側は見慣れた尾張の田畑。もう片側には、斎藤家の家紋の旗がはためいている。

 美濃側の渡し場には、粗末な木の桟橋がしつらえてあり、数人の足軽が欄干にもたれてあくびをしながら、川を眺めていた。

 「美濃の風も、匂いは尾張と大して変わらねぇな。」

 藤吉郎が小声で言う。

 幸蔵は首を振った。

 「違うのは、旗と、主君でございますよ。」

 舟が岸に寄ると、足軽が何人か乗り込んで来て、問いただした。藤吉郎は瞬時に表情を変え、背を丸めて、声を高すぎも低すぎもしない調子に落とした。

 「お勤めご苦労様にございます。拙者は尾張から参りましたショバい商人でして、布を数反と塩を少々お持ちしました。御国でも戦支度が始まっておられると聞きましてな、一つ運試しをと……。」

 足軽は破れた幌を眺め、船上の安物の荷を一通り見やると、興味なさそうに布袋をいくつかめくって、武具が隠れていないかだけ確かめ、手をひらひらと振った。

 「さっさと城下へ行け。日が暮れたら、街でうろつくな。」

 「ははっ、痛み入ります。」

 藤吉郎は何度も頭を下げながら、心の中ではすでに一つ書き留めていた――「夜は巡察が厳しい」。

 舟は渡し場を離れ、支流へと漕ぎ入って城下の小さな船着きへ回り込んだ。川岸には軒を接するように木の家々が並び、軒先には使い込まれて白くなった鎧や、色あせた武士の羽織が干されている。その間には風に揺れる紙札――「掛売」「借用」「欠粮」などの文字が踊っていた。

 「この貧乏臭さ、川を隔ててても漂ってきますね。」

 幸蔵が小声で言う。

 「貧乏なところほど、人の悪口がよう出る。」

 藤吉郎は塩袋を担ぎ上げ、肩をぐいと前へ押し出した。

 「罵りがきつけりゃきついほど、こっちには都合がいいのさ。」

 こうして、美濃城下での十日の暮らしが、一船の塩と数反の布から始まった。

 最初の二日間、彼らはおとなしく城門近くに屋台を出し、布と塩を売りながら道筋を覚えた。どの路地が賭場に通じ、どの路地の奥に寺があるのか。三日目の夕暮れになって、藤吉郎はようやく、いちばん騒がしい酒場を選び、物々交換で得た酒壺を提げて中へ潜り込んだ。

 その酒場は城門のそばにあり、屋根板が二枚ほど欠けていて、夕焼けが隙間から斜めに差し込んでいた。空中の酒気と埃が、その光を受けて、濁った層のように揺らめいている。

 藤吉郎は持参した布を店主に渡し、代わりに一番安い濁り酒をいく壺か受け取ると、わざと足軽たちの卓に近い席を選んで腰を下ろした。

 その卓の足軽たちは鎧の紐をゆるめ、刀は壁に立てかけ、腰の酒袋は空っぽだ。酒が喉を通ると同時に、言葉も雪崩のようにこぼれ出す。

 「戦支度だの、尾張を防げだのと偉そうなことを言いやがって、俸禄は三月も遅れっぱなしだ。草履の底まで擦り切れた。」

 ひとりが乱暴に卓を叩いた。

 「上の方じゃ毎日宴会、こっちは酒一杯もまともに飲めねえ。」

 隣の者が声を落とした。

 「静かにしろ。お城の耳目は多い。」

 「耳目だぁ?」

 さっきの男は鼻で笑った。

 「耳目が草履を縫ってくれるのか? 飯椀に一杯でも多く盛ってくれるのか? それより――。」

 身を乗り出し、さらに声を潜める。

 「尾張のあの狂犬が、ついこの間三河と手を結んだって話だろ。いざ攻めてきたら、この人数で、本当に防げると思うか?」

 藤吉郎は、聞き取れないふりをして大口で酒をあおりながら、耳はしっかりとそばだてている。幸蔵は卓に突っ伏し、見るからに酔いつぶれたふりをしているが、袖の中では炭片をつまみ、「いちばんきつく罵られた名」を、布の内側へこっそり書きつけていた。

 「そういや聞いたか。」

 別の足軽が、含み笑いを押し殺しながら言った。

 「竹中家の若様、また城の宴席を断ったそうだ。」

 「ほう? あの菩提山城の若少将か。」

 誰かが口を曲げる。

 「清廉ぶってるよな。『兵が飢え疲れている時に宴など』とか何とか。ふん、あいつが飲まねえからって、酒がこっちの椀に多く回ってくるわけでもなし。」

 誰かが口を尖らせる一方で、別の者がその若者をかばった。

 「だが、誰かは飲まずにいないといかんだろうさ。でなきゃ、美濃じゅうが主君の真似して、酔いっぱなしになる。」

 数人が目を見交わし、笑い声の底に、やりきれぬ色が混じった。

 藤吉郎の目がかすかに光る――「竹中」という名は、しっかり頭に刻んである。

 「おお、そのお話は、竹中半兵衛様のでございましょう?」

 彼は、わざと物知り顔をしてみせた。

 「尾張を発つときにも噂を聞きました。若くして才があり、長良川でも手柄を立て、酒はお嫌いでも、計算はお得意とか。」

 「計算なんぞ、何の役に立つ。」

 さきほどの足軽が鼻を鳴らす。

 「肝心の主君が計算をしねえなら、誰が算盤を弾いても同じこった。」

 幸蔵は卓の下で、「竹中――清廉――兵の心は複雑」と、また一筆書き足した。

 四日目、五日目の夜も、彼らは酒場を変えながら通い続けた。耳に入る怨嗟は、どこも似たり寄ったりだ。俸禄の遅配、軍装のぼろくなり具合、上の連中は宴と酒ばかり。その代わり、名は増えていく。どの村、どの屯田でいちばん罵声が上がっているか、幸蔵は袖の中に一つ残らず書き込んでいった。

 城下のもう一方では、賭場に灯がさんさんとともっていた。

 半端に新しい着物を着た小者武士たちが、低い卓を囲んで座り、賽桶が上下に舞い、銭がじゃらじゃらと音を立てていた。その隅に、一人の男が腰を下ろしている。袖を肘までまくり上げ、指には数枚の銭を挟みながら、冷めた目で卓上の流れを見つめていた。

 幸蔵である。

 「張る。」

 彼は銭を二枚、音を立てて卓の中央に押し出した。声は大きくはないが、不思議と周りのざわめきの上に乗る。

 何巡かするうちに、幸蔵は続けざまに勝ちを引き寄せ、小山のような銭の塊が目の前に積み上がった。

 「さすがは尾張から来ただけのことはあるな。」

 向かいに座る美濃の若武士の顔は、すでに赤い。

 「こっちへ来て、俺たちの数か月分の俸禄を、丸ごと持ってっちまう気か。」

 幸蔵はにこにこと手を振った。

 「運がよかっただけでございます。昔、商隊にくっついて美濃まで来たことがありましてな。こちらの賽の癖を、少々知っておるだけで。」

 傍らの男が声を潜めた。

 「程々にしておきなよ。あんたが勝ち過ぎると、城ん中の“あるお方”の顔まで潰すことになる。」

 「あるお方?」

 幸蔵は何気ないふうを装って尋ねる。

 男は酒を一口飲んでから、城代の名をひとつ囁き、さらに付け足した。

 「負けるたびに、また村々へ行って粮の催促だ。ここ半年で、あの辺りの村はすっかりしぼり取られちまった。」

 幸蔵の目は動かなかったが、卓の下の指先が、こつこつと二度、木を叩いた――藤吉郎と決めていた合図、「要の名だ」。

 その後もいくつか勝ちを重ねると、今度はわざと得意になったふりをして、銭を卓の上で勢いよくかき回した。

 「まだまだ行きやしょう。さあ、もう一勝負!」

 やがて、外から足音が近づき、戸が開いて誰かが数声叫んだ。若武士たちは慌てて立ち上がり、一斉に頭を下げる。さっきまでの酔いは、いくらか引いたようだ。

 第七の夜、幸蔵はまた銭を山のように積み上げた。その隙を見計らい、袖の裏にびっしりと書き込んだ名や肩書きを、汗を拭うふりをしてそっと翻す。灯の下で、文字が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに再び隠された。

 「もういい。」

 彼は心の中で呟く。

 「これ以上勝てば、本当に刺される。」

 賭場からそう離れていない城中の大寺では、鐘の音が低く重く響いていた。

 十日の間に、藤吉郎は、ほとんど一日おきに寺を訪ねている。そのたびに、少しでも野暮ったい身なりに変え、小さな菓子の包みを両手に捧げ、一隊の参詣人のあとに付き従って、恭しく香を焚き、額を畳につけた。

 一人の小沙弥が香台を片付けながら、その「いかにも田舎臭い他国の商人」風の姿を見て、つい目を留めた。

 「お師匠さん。」

 藤吉郎は菓子を一つ差し出した。

 「尾張から持ってまいった粗末な菓子でして、たいしたものではございませんが、通りがかりのご縁に、方々にも召し上がっていただければと。」

 小沙弥の目が輝き、同時に、いささか躊躇いを帯びる。

 「南無阿弥陀仏、これは……受け取るわけには……。」

 口ではそう言いながら、手は素直にそれを受け取っていた。

 軽口を交わすうち、話は自然と米の値に及んだ。

 「最近は、米がひどく値上がりしておりまして。」

 藤吉郎は大げさに嘆いてみせる。

 「美濃でも戦支度と聞きました。粮がみな城へ運ばれているとか。」

 小沙弥は菓子を頬張りながら、もごもごと呟いた。

 「城だけじゃありません。この前までのご住持様は、城の偉い方々と仲がよくて……粮もまずは寺を通ってから、上へ行くことが多かったんです。そのせいで、下の村々は……いやはや、真面目な百姓ほど難儀しております。」

 「そのご住持様は、今もこちらに?」

 「この前ご病気になって、稲葉山のお城にお呼ばれしたと聞きました。替わって入られた方は気が強くて、『仏門は人の良心を削るところではない』なんてことをよく仰るので、ちょっとはマシになりましたけど。」

 藤吉郎は、その言葉を一字一句違えず胸に刻み込み、笑いながら菓子をもう一つ押し付けた。

 「それは何より。仏門までもが粮で人を締め上げるようでは、百姓は川の神様にでも縋るしかなくなりますからな。」

 小沙弥は目を細めて笑った。

 「口のうまい方ですね。」

 寺の鐘が再び鳴り、その余韻が梁から柱へ伝わりながら、堂内を回っていく。藤吉郎は深く頭を下げた。だが心の中で唱えているのは仏号ではない。寺、粮倉、城代、住持――そうした名と場所のいくつかだった。

 それらはすべて、やがて柳澈涵の地図の上に落とされる印になる。

 第十の夜。城門はすでに閉じられ、城下の路地は、月明かりすら入り込む隙間もないほど狭かった。

 藤吉郎と幸蔵たちは、賭場の裏口から身を滑り出し、こっそりと河岸の小さな船着きへ向かおうとしていた。角を一つ曲がったところで、前方の路地口から、鎧の金具が擦れ合う音が聞こえてきた。

 「まずい。」

 暗がりの中で、幸蔵が低く言った。

 「見回りが来ております。」

 思った通り、ほどなく路地の向こうで提灯の火が灯り、足音が一列になって近づいてくる。

 「ここんとこ、酒場の連中の口が軽くなりすぎたな。」

 藤吉郎は歯を噛んだ。

 「多分、俺たちの訛りに、何か引っかかるもんがあったんだろう。」

 引き返せば賭場の方だ。人目が多い。前へ出れば巡回。狭い路地で、身の置き場は限られていた。

 「どう動きましょう。」

 一人の足軽が押し殺した声で問う。

 幸蔵は、抱えていた金袋を、突然その男の胸に押し付けた。

 「お前が、あっちへ行け。」

 「え、俺が?」

 男は目を丸くした。

 「路地の向こうまで走って、一番たちの悪そうな若造を見つけて、その懐に全部突っ込め。それから外へ飛び出して、『賊だ』って大声で叫ばせる――いいか、叫びはめちゃくちゃであればあるほどいい。」

 足軽は一瞬呆然としたが、すぐに悟って金袋を抱え込み、横手の薪小屋の影に飛び込んだ。

 巡回の足音は刻一刻と近づき、提灯の灯が壁に長い影を揺らす。藤吉郎は身を低くして、幸蔵ともう一人を引き連れ、半開きの戸がついた裏庭の方へ潜り込んだ。そこから低い塀を越えると、豚小屋の脇のぬかるみに落ちた。

 「いい匂いだこと。」

 藤吉郎は尻から泥に沈み込み、鼻をひくつかせた。

 「これぞ、美濃産の本場の香り。」

 幸蔵は、彼を蹴り飛ばしたくなる衝動を堪えた。

 「黙って。」

 その時、少し離れた別の路地から、甲高い叫び声が上がった。

 「泥棒だあっ! 賊だ賊だ、この辺りだ――!」

 声は無駄に鋭く、どこか笑いも混じっている。そのすぐあとで、銭が地面にばら撒かれる音が、しゃらしゃらと夜気を裂いた。

 巡回の足が、条件反射のようにそちらへ向かう。提灯の火が一斉にそちらへ流れ、こちらの路地は、逆に闇を取り戻した。

 「行くぞ。」

 幸蔵が低く囁いた。

 彼らは暗がりに紛れ、壁を伝いながら河岸へと急いだ。崩れかけた家、薪の山、糞溜め――いちいち鬱陶しい障害物を、泥と臭いにまみれながら乗り越え、ようやく船着きの歪んだ柳の木の下まで辿り着いた。

 川風が吹き抜け、藤吉郎は、まるで身体にまとわりついていた糞の匂いが、いくぶん吹き散らされたように感じた。

 「この十日で、美濃の豚小屋にまで礼参りしたようなもんだな。」

 思わず笑いが漏れる。

 「生きて出られただけでも、ありがたく思いなさい。」

 幸蔵は息を切らしながら言った。

 「先生のお言葉、忘れましたか。俺たちが持ち帰るのは怨みであって、首じゃない。」

 小舟が暗闇の中で小さく岸の杭にぶつかり、鈍い音を立てた。彼らは素早く乗り込み、綱を解き、竿で底を一突きして、舟を静かに岸から離した。黒い水面へと滑り出す。

 背後では、城壁が闇に沈み、遠く稲葉山の方角がぼんやりした影となって、空の端に重くのしかかっていた。

 清洲城下・西町。あの見慣れた小屋。

 油皿の灯が、再びともされた。

 柳澈涵は地図の前に正座し、脇にはすでに冷えきった茶壺が置かれている。戸が開いたとき、彼はほんの少しだけ視線を上げた。

 藤吉郎が土を跳ね上げながら、片足を踏み入れる。全身泥だらけで、どう説明していいか分からない匂いまでまとっている。

 「先生、戻りました。金はだいぶ負けましたが、酒はあまり飲んでおりません。」

 「人は、全員連れて帰ったか。」

 柳澈涵の最初の問いは、それだった。

 「一人も欠けておりません。」

 幸蔵は戸を閉めると、袖をばっと捲り上げた。裏地には、乱れた字で名や地名がぎっしりと書き込まれ、その合間には途切れ途切れの怨嗟の言葉が並んでいる。「俸禄三月未発」「某城代博打好き」「粮、寺を経る」「住持病にて交代」などなど。

 柳澈涵はそれを受け取り、一度目を通し、もう一度読み返した。

 「美濃の兵の怨み。」

 酒場を印した箇所に、小さく丸を描きながら呟く。

 「三月の遅配。」

 続いて城門近くの通りに、さらりと線を引き加えた。

 「某城代、賭場通い。負けるたびに村々を搾る――ここが“命綱”だ。」

 最後に、寺の位置のそばに小さな「仏」の字を書き、その横に一行添えた。

 「粮、ここを経て城へ。前任の住持は稲葉山に与し、現任は心中に不満あり。」

 藤吉郎と幸蔵は顔を見合わせ、思わず同時に唾を飲み込んだ。彼らが命がけで十日間聞き集めた断片が、柳澈涵の筆先で、「誰が粮を握り、誰が兵を握り、誰が香火を握っているか」を示す一枚の図に、徐々に姿を変えていく。

 柳澈涵は筆を止め、「竹中家」と書かれた小山の下に、さらに一行書き加えた。

 「宴を好まず、権に近づかず。兵は敬しつつも、怨みもまた深し。」

 「このお方は、いずれ役に立つので?」

 藤吉郎が堪えきれずに問う。

 「いずれ――。」

 柳澈涵は静かに言った。

 「あの山を攻める時、必ずしも最初に壁を叩く必要はない。先に、綻びを打てばいい。」

 そう言って、「美濃」の二文字の上に、指先で墨を一滴落とした。その点はじわりと滲み、水の中に広がる墨の花のように、紙の上へ染みていった。

 「この十日でお前たちが飲んだ酒、負けた金、浴びた罵声は、いずれすべて、攻城の武功として数え上げられる。」

 「これも、功として数えられるんで?」

 藤吉郎が頭を掻いた。

 「当然だ。」

 柳澈涵は筆を収め、立ち上がって茶壺に水を足した。

 「刀は、一度で人を殺す。金は、一国まるごと殺す。お前たちはただ、その刀を先に、奴らの酒と賭場と香案の前へ埋めてきただけだ。」

 外では、清洲の夜がすでに更けている。

 木曽川の水音が、いく筋もの路地を隔てて、ぼんやりと聞こえてくる。下流へ行けば三河。上流へ遡れば美濃だ。

 今夜、太鼓も鳴らなければ、法螺も吹かれず、戦況を告げる書状も飛び交わない。

 だが、美濃に対する「最初の一戦」は、すでにこの小屋の地図の上で、静かに始まっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

ヤバイ秀吉

魚夢ゴールド
歴史・時代
題名通り、性格をヤバくした羽柴秀吉の伝記モノです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...