戦国澄心伝

RyuChoukan

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第五十三話 近江初光・木刀の路

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夜明け前、山道の先に、遠く白い輪が浮かび上がった。

それは日の出の黄金ではなく、湖面に最初の光が映り込んだ冷たい白――近江がすぐそこに迫っている印だった。

山裾には小さな寺がひとつ建っている。屋根は低く、瓦には薄霜が積もっていた。山門の前には古びた風鈴がひとつ掛けられ、風が吹くたびに舌が銅の壁を叩き、澄んだ小さな音を響かせる。

「ここまで来れば、あとはそれぞれの道だ。」

柳澈涵は手綱を引き、馬を止めた。「これより先は、人目を引きやすい。」

竹中半兵衛は馬を降り、まず柳澈涵に深々と一礼し、それから藤吉郎、幸蔵にも頭を下げる。

「竹中重治、皆様に命ひとつ負うた。」

「命という字は重すぎる。」

柳澈涵も礼を返す。「誰に救われたかより、自分が何者であるかを忘れぬ方が大事だ。」

藤吉郎は後頭をかき、少し照れくさそうに笑う。

「どうにも我慢がならなくなった折には、まず先生に使いを寄越してくだされ。せめて走り回るくらいの役には立ちましょう。」

幸蔵はといえば、野太刀を肩に担ぎ直し、豪快に言い放つ。

「とにかく、今夜は斬り得でしたな。」

半兵衛は思わず吹き出し、それでも目の奥には消えない厳しさがある。

「必ず。」

彼は馬の手綱を取り、老僕とともに寺の裏手の小道へと消えていく。すぐに朝靄の中にその背は見えなくなった。

柳澈涵はその背中が完全に見えなくなるまで目で追い、それから馬に跨がる。

「戻るぞ。」

藤吉郎は素早く隊列を整え、足軽たちを率いて尾張の方角へと引き返す。幸蔵は刀を掛け直し、手綱を握る手に先ほどよりも余裕が生まれている。振り返って、先ほど血の匂いの濃く漂っていた山道を見やる。闇のように濃かった木々の影を見ながら、胸の奥でうっすらと悟る――自分という、本来ならばとっくに裏路地で朽ちていた命が、今夜さらに一枚、重ね紙を得たのだと。

冬の朝の風は相変わらず冷たい。だが清洲の方角には、淡い金色が少しずつ広がりつつあった。

城下へ戻ったころには、城門の番兵たちがちょうど交替の最中で、あくびもまだ終えていなかった。澄斎の者たちの姿を認めると、慌てて背筋を伸ばし門を開けた。

澄斎の井戸には、まだ薄氷が一枚張っていた。弥助はすでに起き出しており、廊下で木刀を握り、澄心の基礎の足さばきを練習している。

そのとき弥助は知らない。この夜、遠くの山道では、本物の刃が、彼がいつか歩むことになる路を、ひと足早く切り開いていたことを。

襖が「ギィ」と音を立てて開いた。

白髪の若者は身にまとった寒気をそっと脱ぎ捨てるように玄関で靴を履き替え、いつも通りに家へ入っていく。腰の澄心村正は静かにその脇に下がり、柄巻きの上の、夜露に濡れていた布地もすっかり乾いていた。見た目には、ごくありふれた刀でしかない。

だが、その刃がどのように振るわれたかを見た者だけが知っている。――この刀には今夜、新たに「折勢」の冷静と、「解結」の余韻が、一層深く刻み込まれたのだと。

「先生!」

弥助は足音を聞きつけ、木刀を抱きかかえて駆け寄った。「お戻りになったんですね。」

「ああ。」

柳澈涵は弥助の足元を一瞥する。「足元も怪しいのに、もう刀を振り回すのか。」

弥助は気恥ずかしそうに木刀を持ち直す。

柳澈涵は廊下に出て、彼の手から木刀を受け取ると、足元の地面を軽く指し示した。

「折勢は、戦場の技だけじゃない。誰かに背中を押されたとき、足がしっかりしていなければ、そのまま押された方向へ転げ落ちるだけだ。」

さらに木刀の先で、宙に小さく円を描く。

「解結も、人を殺すためだけの刀ではない。多くの場合、自分の内側にある乱れた綱の方が、山の伏兵よりよほど厄介だ。まず足元を固めろ。それから、綱を一本ずつ解きほぐすことを覚えろ。急ぐな。よく考えれば、そのうち分かる。」

弥助は完全に理解したとは言えない顔で頷いた。だが足の裏に力を込め、前よりも一段としっかりと立とうとする。

室内からは、佐吉が湯気の立つ茶を盆に載せて出てきた。中庭の様子を一瞥し、軽く首を振って笑う。

「先生はご自分の寝不足より、まずこの若造の立ち方ですか。」

「こいつの足がしっかり立てるようになるなら、今夜の道行きも無駄ではなかったということだ。」

柳澈涵は茶を受け取り、湯気を喉に流し込む。熱が胸を通り、夜の冷えの名残をゆっくりと溶かしていく。

昼過ぎ、本丸から召しがかかった。

練兵場での試鋒、山中の伏殺、近江の寺の前での「ここから先はそれぞれ」という一言――その一つひとつを、柳澈涵と藤吉郎は簡潔に述べた。

信長は最後まで黙って聞き終えると、地図の上で竹中の向かう先、大凡の落ち着き場所になりそうな辺りを指で軽く突いた。

「奴自身が考えをまとめたら、そのとき改めて呼べ。」

柳澈涵は承知し、澄斎へ戻った。

夕刻、茶室で彼は、美濃の詳細な地図を広げていた。そこに、新たに得られた情報――山脊の伏殺の場、近江の寺へ下る小道、竹中が腰を落ち着けるであろう幾つかの小城――を一本ずつ書き加えていく。

外では、老松の影が障子の紙に斜めに落ちている。その影は淡い墨の一筆のようにも見えた。

柳澈涵は筆をとり、図の隅に小さく書き添える。

「勢を折り、結を解く。刀が山に先に入り、人が後から局に入る。」

書き終えると、そっと筆を置いた。

そのとき、一時だけ清洲の上空の雲が薄まり、冬には珍しい柔らかな陽光が、雲間からこぼれ落ちた。それは澄斎の屋根と、練兵場の黄土を同時に照らし出す。

これから清洲が美濃へ伸ばす一歩一歩は、もはやただ紙の上の線ではない。「折勢」と「解結」の余韻を帯びた剣意として、静かに局面を書き換え始めていた。
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