戦国澄心伝

RyuChoukan

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第六十四話 河畔の易容・黒髪の名

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 近江と六角方の勢力がせめぎ合う境目に、小さな川が一本流れている。

 冬だというのに水面はまだ凍らず、薄い霧がたなびき、両岸の枯れ草は霜に押し倒されてぺたりと寝ている。風に揺れているのは、しぶとく残った数株の葦だけだ。川がゆるく曲がるところに、小さな石の祠がぽつんと立っている。香の煙はとうに絶え、祠の前には、風雨に削られて顔立ちの判然としない石仏が一体残っているだけだった。

 柳澈涵は荷を祠の脇に下ろした。

 弥助は木箱を抱えたまま、その横に立ち、先生が桶に水を汲んで石段の脇に置くのをじっと見ている。

「先生、髪を洗うんですか?」

 弥助が首をかしげる。

「そろそろ洗っておいたほうがいい。」

 柳澈涵は笑って、束ねていた細い紐をほどいた。白い髪がするりとほどけて肩に落ちる。

 川面から立ちのぼる霧に、白髪がやけに際立って見えた。この道中、清洲を発ち、尾張を抜け、美濃を回って近江へ向かうあいだにも、人と出会うことは少なくなかったが、大ごとになるほどではなかった。だが、この先は浅井と六角の勢力が犬の歯のようにかみ合う一帯であり、その先には小谷城の目が届く土地が広がっている。

 「清洲では、みなこの白髪を目印にしていたからな。」

 柳澈涵はそう言って、あらかじめ用意しておいた草木染めの粉を小さな包みから取り出し、桶にさらりとあけた。

 「外に出るなら、澄斎をそのまま背負って歩くわけにはいかない。」

 染料が広がり、水面がじわじわと淡い褐色に染まっていく。

 弥助は、先生が身をかがめ、白髪を水に沈めるのを見つめていた。指先が髪のあいだを滑り、薬の汁を少しずつもみ込んでいく。銀白の髪束が、褐色の水の中で少しずつ飲み込まれ、その下から押し隠されていた黒が顔を出す。

 胸の奥が、ふときゅっとなった。

 あの白い髪は、物心ついて以来、弥助にとって先生の一番強い印象だった。澄斎で字を教えてくれるときも、清洲の城下で大軍の針路を指し示すときも、つい数日前、雪夜に浪人の首を一太刀で斬り落としたときも、灯りの下でほのかに光る白が、いつも不思議と安心をくれた。

 柳澈涵は、最後の一筋の白を水の中でもみ消し、それから身を起こした。

 冷たい風が吹き抜け、乾ききっていない髪がこめかみに張り付く。色はすでに、わずかに青みを含んだ黒に変わっている。白は夜の錯覚に過ぎず、石祠の前に立つのは、黒髪の若い学者にしか見えない。

「先生……別の人みたいです。」

 弥助は呆然と見上げた。

「外から見えるところは、変わっていたほうが都合がいい。」

 柳澈涵は手拭いでざっと髪をぬぐい、高めの位置でひとつに結い上げる。

 「お前が覚えていればいい。中身は同じ、相変わらずお前の先生だ。」

 衣の襟を整え、石祠の前にきちんと立つと、磨り減った石仏に向かって、低く言葉を吐き出した。

 「澄原龍立――本日よりこの名を借りて歩む。」

 弥助はぱちぱちと瞬きをした。

「澄原……?」

 「澄は澄むの澄、澄みきるの澄。原は原野の原。」

柳澈涵は穏やかに言う。

「龍立は、龍の名を借りて踏ん張る、という意味だ。」

彼は北の山影へと視線をやった。

「この一年、借りるのは近江の山と湖であって、どこの家紋でもない。」

弥助は少し考え、真面目な顔でうなずいた。

「じゃあ、よその人は先生のことを澄原殿って呼ぶんですね。ぼくは、やっぱり先生って呼びます。」

「そうだな。お前は誰を呼んでもうるさいから、好きにしろ。」

柳澈涵がくすりと笑った、そのときだった。

遠くから、鋭い怒鳴り声と、鞭が空気を裂く音が届いてきた。

川沿いの山道に、馬蹄の起こす土煙が立ちのぼる。浅井家の三巴紋を染め抜いた小旗を掲げた関所が、霧の向こうにぼんやりと見えた。数人の武士が旅人を呼び止め、荷を改め、出自を問いただしている。空気は決して柔らかくない。

柳澈涵は袖を軽く振り、針道具の布巻きと小さな薬箱を結び直すと、弥助を振り返った。

「行こうか。澄原龍立として、まずは浅井の関所に挨拶だ。」

弥助は木箱を抱きしめるようにして、慌てて後を追った。
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