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第八十話 小谷への帰還・別れの前夜
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翌朝、一行は再び出立した。
六角方の関所に着くと、門を守る武士たちは文書を受け取り、昨夜の伏兵の件には一言も触れず、礼だけは整った冷ややかな表情で応対した。
「どうやら、あの手合いは六角の正式な帳面には載っていない。」
柳澄原は心の中で結論をつける。
「旗は掲げられるが、帳簿には書かれぬ者たち。」
小谷への帰り道は、行きよりも口数が少なかった。
ようやく遠くに小谷城の輪郭が見えた時、島田はほっと大きく息を吐く。
「こうして生きて帰れるとは……ありがたいことですな。」
「感謝するなら、この道を見てくれた者に。」
阿閉はそ知らぬ顔で言う。
城門の内側では、雨森が待っていた。
無事な姿を認めた途端、彼の肩が、ほんのわずかだが緩んだ。
「六角の様子は。」
彼は文箱を受け取りながら問う。
「門は立派で、顔は冷たく。」
島田は苦笑する。
「口にする言葉だけは、やけに丸い。」
「道中の連中は。」
雨森がさらに問う。
阿閉は、夜襲の顛末を簡潔に報告した。
その中の「夜でも道に迷わぬ奴だ」という台詞を聞いた瞬間、雨森の視線は思わず柳澄原へ流れる。
「見ているのは、浅井だけではない、ということか。」
雨森は言った。
「人様の山を歩けば、見られて当然。」
柳澄原はただ、そう笑って返す。
その夜、小谷城下にはいつも通り灯りがともった。
弥助は窓辺にもたれ、小谷山の灯火を見上げる。
「先生、この辺りの人も、先生が帰ってくるのをもう『当たり前』だと思ってるみたい。」
「当たり前というのは、始末の悪いものだ。」
柳澄原は小冊子に筆を走らせながら言う。
「始末が悪い?」
「誰かがここで道を見て、兵を見て、街口を見ているのが『当たり前』になる。」
柳澄原は言う。
「そうなると、その誰かが去るときには、背中をもう一度見直さないといけない。」
小冊子の端に、彼は小さく書き添える。
「近江・小谷山路:夜風重く、足跡多し。
六角の旗の下、真仮入り乱る。
なお一日留まれば、いよいよ本当の『立つ場所』に近づく。」
その一行をしばらくじっと眺めていた。
「先生。」
弥助が小声で尋ねる。
「じゃあ、僕らはいつ、ここを出るの?」
「もうすぐだ。」
柳澄原は冊子を閉じる。
「そろそろ、次の山へ行く頃合いだ。」
谷を抜ける風は、小谷の旗を揺らし、その向こう側の、ぼんやりとしか見えない六角の山肌も撫でていく。
この年の夏は、まだ本格的には始まっていない。
だが、小谷の壺口から外を眺めている者たちは、すでに分かっていた。
どの旗が掲げられようとも――
山道に残る足跡は、いつか必ず、どちらか一方の方角を選ばねばならないのだと。
六角方の関所に着くと、門を守る武士たちは文書を受け取り、昨夜の伏兵の件には一言も触れず、礼だけは整った冷ややかな表情で応対した。
「どうやら、あの手合いは六角の正式な帳面には載っていない。」
柳澄原は心の中で結論をつける。
「旗は掲げられるが、帳簿には書かれぬ者たち。」
小谷への帰り道は、行きよりも口数が少なかった。
ようやく遠くに小谷城の輪郭が見えた時、島田はほっと大きく息を吐く。
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「感謝するなら、この道を見てくれた者に。」
阿閉はそ知らぬ顔で言う。
城門の内側では、雨森が待っていた。
無事な姿を認めた途端、彼の肩が、ほんのわずかだが緩んだ。
「六角の様子は。」
彼は文箱を受け取りながら問う。
「門は立派で、顔は冷たく。」
島田は苦笑する。
「口にする言葉だけは、やけに丸い。」
「道中の連中は。」
雨森がさらに問う。
阿閉は、夜襲の顛末を簡潔に報告した。
その中の「夜でも道に迷わぬ奴だ」という台詞を聞いた瞬間、雨森の視線は思わず柳澄原へ流れる。
「見ているのは、浅井だけではない、ということか。」
雨森は言った。
「人様の山を歩けば、見られて当然。」
柳澄原はただ、そう笑って返す。
その夜、小谷城下にはいつも通り灯りがともった。
弥助は窓辺にもたれ、小谷山の灯火を見上げる。
「先生、この辺りの人も、先生が帰ってくるのをもう『当たり前』だと思ってるみたい。」
「当たり前というのは、始末の悪いものだ。」
柳澄原は小冊子に筆を走らせながら言う。
「始末が悪い?」
「誰かがここで道を見て、兵を見て、街口を見ているのが『当たり前』になる。」
柳澄原は言う。
「そうなると、その誰かが去るときには、背中をもう一度見直さないといけない。」
小冊子の端に、彼は小さく書き添える。
「近江・小谷山路:夜風重く、足跡多し。
六角の旗の下、真仮入り乱る。
なお一日留まれば、いよいよ本当の『立つ場所』に近づく。」
その一行をしばらくじっと眺めていた。
「先生。」
弥助が小声で尋ねる。
「じゃあ、僕らはいつ、ここを出るの?」
「もうすぐだ。」
柳澄原は冊子を閉じる。
「そろそろ、次の山へ行く頃合いだ。」
谷を抜ける風は、小谷の旗を揺らし、その向こう側の、ぼんやりとしか見えない六角の山肌も撫でていく。
この年の夏は、まだ本格的には始まっていない。
だが、小谷の壺口から外を眺めている者たちは、すでに分かっていた。
どの旗が掲げられようとも――
山道に残る足跡は、いつか必ず、どちらか一方の方角を選ばねばならないのだと。
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