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第九十六話 鷹目谷・影を踏み跡を奪う
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鷹目谷という名は、上から見下ろしたとき、その谷が一羽の鷹の眼のように見えることから来ている。
黒い岩が輪のように囲み、その中央がわずかに低く窪んでいる。
平時なら、猟師が網を張り、獣が餌を探しに来る絶好の場所だろう。
乱世では、伏兵と死人のための場所になる。
朝霧はまだ晴れない。
柳澈涵は谷口に立ち、足元の土を一瞥した。
「昨日、誰かが下りているな」
「三好の探りの一隊だ」森鋼蔵が答える。「簡易の旗を立てて谷に入るのを見た者がいるが、出てくるのを見た者はいない」
「見てないだけで、別の道からよじ登ったのかもしれませんね」弥助は不安そうだ。
「伊賀と三好は、このところ互いに探り合いばかりで、本気で刃を立ててはいない」森鋼蔵は言う。
「今日はどうだろうな」
百地は半ばほどの斜面の岩に立ち、上から谷を見渡していた。「先に本気を出してくるか、様子を見よう」
一行十数名が、三手に分かれて谷へ下りていく。
百地は谷底までは下りず、森鋼蔵に隊を任せる。
「澄原殿は真ん中を頼む」彼は言った。「お前の刀は、ここから見届けたい」
柳澈涵は頷いた。
弥助は、小さな分かれ道の入口に残されることになった。役目は一つだけ──この道を見張り、誰か来たら合図を送ること。
「俺一人でですか」弥助は心細げだ。
「お前は一人じゃない」柳澈涵は小さな竹笛を手渡す。「これを吹け。聞こえれば、どこにいるか分かる」
「先に捕まったらどうするんです」
「だからこそ吹くんだ」柳澈涵は言う。「お前を捕らえた奴は、笛を聞いて『仲間を呼んだ』と思う。人が集まると、心が乱れる」
弥助は、よく分かったような分からないような顔をしたが、不思議と胸の中は少し落ち着いた。
谷底へ下る道は狭いが、歩くのに不自由はない。
奥へ進むほど、霧は濃くなる。
柳澈涵は急がず、数歩ごとに刀の切っ先でそっと地面をなぞった。
ほとんど見えないほど細い線が、柔らかな泥に薄く刻まれていく。
「先生、何を描いておられるんですか」傍らの伊賀の若者が低く尋ねる。
「自分のための印だ」柳澈涵は言う。「一度踏んだ場所と、二度踏んではいけない場所を分けておく」
若者は一瞬きょとんとしたが、それ以上は何も聞かなかった。
やがて、先頭の方がぴたりと止まる。
「いるな」森鋼蔵が声を落とした。
霧の帳の向こうから、甲冑の擦れる音が聞こえる。
伊賀の足とは違う。やや重く、武士の歩き方の癖を引きずっている。
「三好か」誰かが囁く。
言葉が終わらぬうちに、谷のどこかで鳥の鳴き真似が短く響いた。
芝居がかっているが、合図としては十分だ。
ほぼ同時に、両側の岩壁の上で黒い影がきらりと動く。
金属の切り裂く音が頭上を斜めに走り、さっき彼らが通ってきた道へ、撒菱がばらまかれた。
「退路を断ったか」森鋼蔵は落ち着いて判断する。
前方の霧の中から、笑い声がした。
「伊賀の連中は、人の背中から眺めるのが好きだな」
霧を裂いて、簡素な甲冑をまとった武士の一団が現れた。粗い布の旗には、歪んだ三好の紋が描かれている。
腰の刀もまちまちだ。正規の打刀もあれば、市井の鉈のようなものもある。
「正規軍じゃないな」柳澈涵は口にした。
「三好の名を勝手に掲げて、他人の命で斬れ味試しをしてる手合いだ」森鋼蔵は鼻を鳴らす。「この数年で、こういう連中が増えた」
両者は谷底で対峙した。
相手の数はやや少ないが、地の利はそちらにある。相手の足元は乾いた高みにあり、こちらとの間には、わずかに低くぬかるんだ泥地帯が横たわっていた。
「ここを通るってのは、俺たちをいないものとして扱うってことか」先頭の男がせせら笑う。
「谷の道を見に来ただけだ」森鋼蔵は淡々と返す。「お前らが道を塞ぐのは、銭を貰い過ぎたせいか、それとも命に飽いたか」
相手が答えるより早く、柳澈涵が声を上げた。
「背後にもいるぞ」
視線が一斉に柳澈涵に向く。
「足音だ」柳澈涵は言う。「谷壁の上に二人、岩を踏んでる。足さばきは軽いが、完全にはじっとしていられない」
先頭の男の目尻がピクリと動いた。
「耳がいいな」
「耳は並だ」柳澈涵は淡々と返す。「ただ、お前たちの息が荒すぎる」
相手は黙って腕を振り上げた。
数人の武士が同時に躍りかかり、刀光が霧の中に白い弧を描いた。
伊賀の者たちは本能的に散ろうとした。速さと角度で勝負する癖が体に染みついている。
柳澈涵は、その一歩前に出た。
さきほど自分で引いておいた細い線の上に、つま先をそっと置き、わずかに体を傾ける。
最初の一撃が振り下ろされる瞬間、彼の刀は相手の刃先を正面から受け止めはしなかった。刃の背に沿って滑らせるように、ほんの軽い力で前に押しやる――。
それだけで、相手の刃の落ちる点は、わずかに横へずれる。刀勢がまだ完全には変わり切らぬうちに、相手の足は湿った泥の縁を踏んでいた。
泥の下には、水に隠れた平滑な石が一つ。
足が滑り、男は横倒しに転がった。刀は泥水を巻き上げながら地面に叩きつけられる。
「急いで斬るな」柳澈涵が低く言う。「まず、自分たちで道を踏み外させろ」
二人目の武士は、隙を見つけたつもりで側面から斜めに斬り込んでくる。
柳澈涵は一歩引き、刀の切っ先で地面をちょんと突いた。
そこには小石が一つ。
石は弾かれて少し転がり、武士が次に踏み込もうとした地点に、ぴたりと入り込む。
その一歩は空を踏む。膝ががくりと落ち、男の体は前へと倒れ込んだ。
後ろにいた味方が止まり切れず、その背に真正面からぶつかる。
空中で乱れた刀は、伊賀の者に届くより早く、味方の肩を斬り裂き、血を飛ばした。
「影踏み、だな」柳澈涵は心の中で名を付けた。「奴らの影は、刀より半拍遅れて動く」
彼が斬っているのは、人ではない。道だ。
一太刀ごとに、肉を裂かずとも、「いちばん通りやすそうな線」を切り落としていく。
道筋を変えられた者の足は乱れる。
一つ乱れれば、陣は自らを噛み始める。
谷口の方から、かすかな竹笛の音が聞こえた。
弥助だ。
柳澈涵の耳がぴくりと動く。
音は急いているが、ばらけてはいない。吹いている者の頭がまだ冷えている証拠だ。
「分かれ道から、回り込もうとしている者がいるな」即座にそう判断した。
「森殿」彼は短く言う。「左側の石塊を押さえろ」
森鋼蔵は迷わなかった。二人を連れて跳び、谷中の岩を滑るように駆け抜けていく。
ほとんど同時に、霧の陰から三人の敵兵が飛び出した。背後を突けると思い込んでいた彼らは、そのまま森鋼蔵の刃に突っ込む形になった。
「誰にそんな上手い笛を教わった」戦いの後、森鋼蔵は思わず弥助に聞いた。
「先生が、『助けてくれ』って思いながら吹くんじゃなくて、『面倒を増やしてやる』って思いながら吹けって……」弥助は息を切らせながら答える。「だから、その通りにしました」
谷での戦いは、それほど長くは続かなかった。
三好の紋を掲げた雑兵たちは、どの方向から突撃しても、結局は自分たちが「歩きやすいように」作った道の上に乗せられてしまうと気づいたとき、腹の底の荒っぽい闘志は、たちまち抜けていった。
岩壁をよじ登り始める者も出る。
刀を捨て、横手の岩陰から逃げ道を探す者もいた。
柳澈涵は、追いすがって斬り伏せることはしなかった。
ただ、谷の中央より少し高い岩の上に立ち、彼らの足の運びを見ていた。
「覚えておけ」彼は隣にいた伊賀の少年に言う。「本物の殺陣ってのは、何人斬ったかじゃない。何人に、二度とこの道を通る気を起こさせないかだ」
少年の目は、興奮でぎらぎらと光っている。
「先生のやり方、うちの稽古より、ずっとえぐいです」小声で言った。
えぐいのは刀ではなく、「道」の握り方だ。
谷の外れで、百地は遠くからその一戦を見ていた。
彼は手を出さない。
ただ、心の中で一つ計算を済ませる。
もし今日、この谷底に立っていたのが伊賀で、自分がその対岸にいたのなら――。
この「鷹目谷」の地図は、二度と使ってはならない。
黒い岩が輪のように囲み、その中央がわずかに低く窪んでいる。
平時なら、猟師が網を張り、獣が餌を探しに来る絶好の場所だろう。
乱世では、伏兵と死人のための場所になる。
朝霧はまだ晴れない。
柳澈涵は谷口に立ち、足元の土を一瞥した。
「昨日、誰かが下りているな」
「三好の探りの一隊だ」森鋼蔵が答える。「簡易の旗を立てて谷に入るのを見た者がいるが、出てくるのを見た者はいない」
「見てないだけで、別の道からよじ登ったのかもしれませんね」弥助は不安そうだ。
「伊賀と三好は、このところ互いに探り合いばかりで、本気で刃を立ててはいない」森鋼蔵は言う。
「今日はどうだろうな」
百地は半ばほどの斜面の岩に立ち、上から谷を見渡していた。「先に本気を出してくるか、様子を見よう」
一行十数名が、三手に分かれて谷へ下りていく。
百地は谷底までは下りず、森鋼蔵に隊を任せる。
「澄原殿は真ん中を頼む」彼は言った。「お前の刀は、ここから見届けたい」
柳澈涵は頷いた。
弥助は、小さな分かれ道の入口に残されることになった。役目は一つだけ──この道を見張り、誰か来たら合図を送ること。
「俺一人でですか」弥助は心細げだ。
「お前は一人じゃない」柳澈涵は小さな竹笛を手渡す。「これを吹け。聞こえれば、どこにいるか分かる」
「先に捕まったらどうするんです」
「だからこそ吹くんだ」柳澈涵は言う。「お前を捕らえた奴は、笛を聞いて『仲間を呼んだ』と思う。人が集まると、心が乱れる」
弥助は、よく分かったような分からないような顔をしたが、不思議と胸の中は少し落ち着いた。
谷底へ下る道は狭いが、歩くのに不自由はない。
奥へ進むほど、霧は濃くなる。
柳澈涵は急がず、数歩ごとに刀の切っ先でそっと地面をなぞった。
ほとんど見えないほど細い線が、柔らかな泥に薄く刻まれていく。
「先生、何を描いておられるんですか」傍らの伊賀の若者が低く尋ねる。
「自分のための印だ」柳澈涵は言う。「一度踏んだ場所と、二度踏んではいけない場所を分けておく」
若者は一瞬きょとんとしたが、それ以上は何も聞かなかった。
やがて、先頭の方がぴたりと止まる。
「いるな」森鋼蔵が声を落とした。
霧の帳の向こうから、甲冑の擦れる音が聞こえる。
伊賀の足とは違う。やや重く、武士の歩き方の癖を引きずっている。
「三好か」誰かが囁く。
言葉が終わらぬうちに、谷のどこかで鳥の鳴き真似が短く響いた。
芝居がかっているが、合図としては十分だ。
ほぼ同時に、両側の岩壁の上で黒い影がきらりと動く。
金属の切り裂く音が頭上を斜めに走り、さっき彼らが通ってきた道へ、撒菱がばらまかれた。
「退路を断ったか」森鋼蔵は落ち着いて判断する。
前方の霧の中から、笑い声がした。
「伊賀の連中は、人の背中から眺めるのが好きだな」
霧を裂いて、簡素な甲冑をまとった武士の一団が現れた。粗い布の旗には、歪んだ三好の紋が描かれている。
腰の刀もまちまちだ。正規の打刀もあれば、市井の鉈のようなものもある。
「正規軍じゃないな」柳澈涵は口にした。
「三好の名を勝手に掲げて、他人の命で斬れ味試しをしてる手合いだ」森鋼蔵は鼻を鳴らす。「この数年で、こういう連中が増えた」
両者は谷底で対峙した。
相手の数はやや少ないが、地の利はそちらにある。相手の足元は乾いた高みにあり、こちらとの間には、わずかに低くぬかるんだ泥地帯が横たわっていた。
「ここを通るってのは、俺たちをいないものとして扱うってことか」先頭の男がせせら笑う。
「谷の道を見に来ただけだ」森鋼蔵は淡々と返す。「お前らが道を塞ぐのは、銭を貰い過ぎたせいか、それとも命に飽いたか」
相手が答えるより早く、柳澈涵が声を上げた。
「背後にもいるぞ」
視線が一斉に柳澈涵に向く。
「足音だ」柳澈涵は言う。「谷壁の上に二人、岩を踏んでる。足さばきは軽いが、完全にはじっとしていられない」
先頭の男の目尻がピクリと動いた。
「耳がいいな」
「耳は並だ」柳澈涵は淡々と返す。「ただ、お前たちの息が荒すぎる」
相手は黙って腕を振り上げた。
数人の武士が同時に躍りかかり、刀光が霧の中に白い弧を描いた。
伊賀の者たちは本能的に散ろうとした。速さと角度で勝負する癖が体に染みついている。
柳澈涵は、その一歩前に出た。
さきほど自分で引いておいた細い線の上に、つま先をそっと置き、わずかに体を傾ける。
最初の一撃が振り下ろされる瞬間、彼の刀は相手の刃先を正面から受け止めはしなかった。刃の背に沿って滑らせるように、ほんの軽い力で前に押しやる――。
それだけで、相手の刃の落ちる点は、わずかに横へずれる。刀勢がまだ完全には変わり切らぬうちに、相手の足は湿った泥の縁を踏んでいた。
泥の下には、水に隠れた平滑な石が一つ。
足が滑り、男は横倒しに転がった。刀は泥水を巻き上げながら地面に叩きつけられる。
「急いで斬るな」柳澈涵が低く言う。「まず、自分たちで道を踏み外させろ」
二人目の武士は、隙を見つけたつもりで側面から斜めに斬り込んでくる。
柳澈涵は一歩引き、刀の切っ先で地面をちょんと突いた。
そこには小石が一つ。
石は弾かれて少し転がり、武士が次に踏み込もうとした地点に、ぴたりと入り込む。
その一歩は空を踏む。膝ががくりと落ち、男の体は前へと倒れ込んだ。
後ろにいた味方が止まり切れず、その背に真正面からぶつかる。
空中で乱れた刀は、伊賀の者に届くより早く、味方の肩を斬り裂き、血を飛ばした。
「影踏み、だな」柳澈涵は心の中で名を付けた。「奴らの影は、刀より半拍遅れて動く」
彼が斬っているのは、人ではない。道だ。
一太刀ごとに、肉を裂かずとも、「いちばん通りやすそうな線」を切り落としていく。
道筋を変えられた者の足は乱れる。
一つ乱れれば、陣は自らを噛み始める。
谷口の方から、かすかな竹笛の音が聞こえた。
弥助だ。
柳澈涵の耳がぴくりと動く。
音は急いているが、ばらけてはいない。吹いている者の頭がまだ冷えている証拠だ。
「分かれ道から、回り込もうとしている者がいるな」即座にそう判断した。
「森殿」彼は短く言う。「左側の石塊を押さえろ」
森鋼蔵は迷わなかった。二人を連れて跳び、谷中の岩を滑るように駆け抜けていく。
ほとんど同時に、霧の陰から三人の敵兵が飛び出した。背後を突けると思い込んでいた彼らは、そのまま森鋼蔵の刃に突っ込む形になった。
「誰にそんな上手い笛を教わった」戦いの後、森鋼蔵は思わず弥助に聞いた。
「先生が、『助けてくれ』って思いながら吹くんじゃなくて、『面倒を増やしてやる』って思いながら吹けって……」弥助は息を切らせながら答える。「だから、その通りにしました」
谷での戦いは、それほど長くは続かなかった。
三好の紋を掲げた雑兵たちは、どの方向から突撃しても、結局は自分たちが「歩きやすいように」作った道の上に乗せられてしまうと気づいたとき、腹の底の荒っぽい闘志は、たちまち抜けていった。
岩壁をよじ登り始める者も出る。
刀を捨て、横手の岩陰から逃げ道を探す者もいた。
柳澈涵は、追いすがって斬り伏せることはしなかった。
ただ、谷の中央より少し高い岩の上に立ち、彼らの足の運びを見ていた。
「覚えておけ」彼は隣にいた伊賀の少年に言う。「本物の殺陣ってのは、何人斬ったかじゃない。何人に、二度とこの道を通る気を起こさせないかだ」
少年の目は、興奮でぎらぎらと光っている。
「先生のやり方、うちの稽古より、ずっとえぐいです」小声で言った。
えぐいのは刀ではなく、「道」の握り方だ。
谷の外れで、百地は遠くからその一戦を見ていた。
彼は手を出さない。
ただ、心の中で一つ計算を済ませる。
もし今日、この谷底に立っていたのが伊賀で、自分がその対岸にいたのなら――。
この「鷹目谷」の地図は、二度と使ってはならない。
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