戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百零五話 東山買宅・残院立局

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 暮春の風が背中から吹き上がってきた。山の湿った木の匂いと、遠く城下の煙の匂いをいっしょに運んでくる。
 夕暮れどき、最後の稜線を回り込むと、ようやく洛中が視界の向こうに押しひろげられた――。

 鴨川が暗い銀の帯のように城東を横切り、屋根が幾重にも重なり、そのいちばん奥には、朱の社殿の一角がかすかにのぞいている。

 弥助は思わず足を止めた。

「先生、あれが……京なんですね……」

 柳澄原(柳澈涵)は「ふむ」とだけ応じた。
 背には薬箱が重くのしかかり、腰の刀は衣の下に隠れている。だが、その歩きぶりには行きずりの廻り医者の気配は少しもなく、むしろ衣を着替えたばかりの大名家臣のようであった。

 本当に重いのは、背でもなければ腰でもない。
 袖の中だ。

 袖の中の金包みは、何度も出し入れされたせいで、角が少し丸くなっている。
 清洲を発つとき、織田信長が何気なさそうに放ってよこした「路銀」であった。その額は、ただの「見送り」にしては、あまりに大きい。

「身につけておけ。清洲に置いておけば、余計な者の目を呼ぶだけだ」
 あの男は笑いながら、たしかにそう言った。

 柳澄原はその笑みを覚えている。
 だが、自分をどこかの家の「金で買った手」だと納得する気はさらさらなかった。

 金は金。
 局は局。

 京に入るや、彼はふつうの旅人のように宿を探すこともせず、まっすぐ東山の方へと折れた。

 道をたずねるとき、彼が口にしたのはただ一言。

「人のために宅を求めるのを得意とする町人は、どこにいる?」

 問いかけられた脚夫はぽかんとした後、石畳の坂を指さした。

「山崎屋って店がありやす。大名衆や公家衆の家探しばかりやってるところで」

 山崎屋の店は大きくはないが、すみずみまでよく整えられていた。
 帳台の奥に座る主(あるじ)は四十前後、背筋がまっすぐ伸びている。初めのうちは、前に立つ二人の身なりを見て、地方の儒医と従者ぐらいにしか思わず、笑みもどこか上すべりだったが――柳澄原が袖の金包みを帳上に置いた瞬間、その目つきが変わった。

 袋が板の上に落ちて、実に手応えのある低い音を立てる。

「先生は……?」

「湖東から来た者だ」柳澄原は言った。「東山に宅を買いたい。山に寄りかかり、見晴らしの利くところ。城も水も、どちらも望めるのがよい」

 主人の胸中が一度転がる。
 口ぶりは、ひと休みのために腰を落とすだけの浪人医者ではない。
 腰を据えて「根を張る」者のそれである。

「東山の宅となると……お値段は安くはありませぬが」彼は探るように言った。「借家でございましょうか、それとも――」

「買う。一括で払う」

 そこで今度は弥助が目を丸くした。
 山崎屋の主人はすぐさま帳台の奥から出てきて、直々に二人を案内した。

 宅探しは、意外なほどすんなり進んだ。

 まず一軒目は清水寺の参道近く。人声は絶えず、呼び込みも賑やかで、たしかに景気はよさそうだが、香華と油煙が全身にまとわりつきそうである。

 二軒目は山腹に寄った新築の屋敷。梁や柱はぴかぴかに光り、塗りたての笑顔のように整っているが、どこか作り物めいていて、見ているだけで胸がむかつきそうだ。

 最後の一軒は、目立たぬ石畳の小路のいちばん奥にあった――。

 門前の石灯籠は途中まで焼け焦げ、その上には古い苔が張り付いている。
 塀は高くはないが、中は奥行きがある。前後二棟、脇の庭には太い楓が一本。片側の枝は黒く焦げ、反対側からはすでに新しい葉がのびていた。

 軒下には前の主の家紋札がまだ掛かっているが、文様は煙に焼かれて判別しづらい。

 山崎屋の主人は声をひそめた。

「この宅は、もとはある中級武士の別邸でしてな。数年前の大火で一角が焼け、人も何人か亡くなりまして……そのうえ、その家の主君も代わり、いっそ手放すことになったんでさ。お値段のほうは……まぁ、話はつきやすいで」

 弥助は梁の焦げ跡を見上げ、背筋がひやりとした。

「先生、ここ……縁起が悪いんじゃありませんか?」

 柳澄原は答えない。
 井戸に手を触れ、門を眺め、庭を一巡し、楓の根元に立って、ゆっくりと目を細めた。

 背後には山。
 前方へ緩やかに下ってゆく視線の先には、かすかに鴨川と城下の屋根の輪郭が見通せる――山は玄武、水は明堂。

 楓の根がおさまっている位置は、ちょうど庭を流れる水脈と石の筋が交わるところであった。
 火は西から舐め上がり、幹の片側を削ぎとっているが、残った半身の筋は却って太く、あたかも刀傷の裂け目から新たな命が生え出したかのようだ。

「山は玄武、人は山を背にして座るのがよい」柳澄原は楓の斜めに伸びた枝を指で軽く弾いた。「前には水が来る。左の青龍、右の白虎はいささか物足りぬが、この一帯は気がひらけていて、中央に局を仕掛ける余地がある」

 山崎屋は、最初は調子を合わせて笑っていただけだったが、「玄武」「明堂」という言葉が出た途端、ふざけた色を引っ込めた。
 あらためて梁を見上げ、楓を見て、唾を飲み込む。

「一度火に舐められたぶん、むしろ古い穢れが割れている」柳澄原は続ける。「梁の焦げは西に寄り、東はほとんど無傷。火の勢いはこのあたりで止まった。次に火が来るとしても、まず古い道筋をなぞるだろう」

 主人の背中に冷や汗がにじむ。
 これは迷信の講釈などではない。まるで、「火軍の通り道」を読んでいるかのような口ぶりであった。

「値は?」柳澄原が振り向いた。

 山崎屋は腹を括って数字を口にする。
 柳澄原は首を振った。

「この宅は元の『魂』をすでに手放し、骨だけが残っている。売るのは骨であって、門地ではない」彼は淡々と言った。「今の京の火気の高さを見れば、もう一度焼ければ、ここは灰になる。売り抜けねばならぬことは、あなたがいちばんよく知っているはずだ」

 主人は沈黙し、やがて歯を食いしばって、値を三割ほど切り詰めた。

 柳澄原はそれ以上押しも引きもせず、袖の金包みをほどいた――金の小判が几帳面に並べて置かれてゆく。表の彫りは細やかで、普通の町人がそうそう手元にするものではない。

 山崎屋の視線が端に引っかかり、胸がひやりとした。
 小判の縁に刻まれた紋様は、彼が遠目に見たことのある「織田家御賞与の金」と、驚くほどよく似ていたからである。

 湖東から来た儒医が、織田家由来と思しき金を手に、東山に宅を買う。
 この三つの事実が、一瞬で一つにつながる。

「余った分は、山崎殿に口を閉ざしてもらう手間賃だ」柳澄原は、包んでおいた銀を一つ、そっと押しやった。「ここは今日からただの町家の古い宅。元の主のことも、新たな主の出どころも、口に出す必要はない」

 山崎屋は何度も何度も頷いた。

「もちろん、もちろん。ほかにもお宅をご覧になりますなら――」

「いや、東山はこれで足りる」

 店を出るころには、空はすっかり暮れていた。
 石畳の坂を戻り、新たに買い入れた宅へ。弥助が油灯を掲げて先に立つ。灯りが門の古い木札を照らす。そこに刻まれていた家紋はもう剥がれ落ち、ただ輪郭だけがぼんやりと残っている。

「先生、この札、取り替えましょうか?」

「そのうち替えるさ」柳澄原はしばし見上げてから言った。「だが、『柳』にも、『織田』にも替えぬ」

 彼はそっと木札を叩いた。骨を起こしてやるように。

 山から吹き下ろす夜風が、焦げた梁の隙間を抜け、空いた障子をくぐり、楓の枝葉をかすめて庭を一巡する。

 一巡して戻ってくる間に、柳澄原の胸には、はっきりとした感覚が生まれていた。

 この宅は身を落ち着けるための場所ではない。
 局を支えるための、ちょうどいい支点である。

 いつか誰かがこの門を叩くとき、彼はこの縁先に立って、その顔を悠々と眺めていればよい。

 弥助は灯を抱えたまま、思わず聞いた。

「先生、本当に、家を買っても手元に一文も残さずに……この先、困りませんか?」

「金は散らしたほうが、一巡して戻ってくる」柳澄原は淡々と言う。「宅を買えば、人のほうから吸い寄せられてくる。人が集まれば、その中を銀が歩く」

 彼は振り返り、楓を見上げた。

「一度焼かれてなお生きているものほど、局を養うのに向いている」

 東山の夜は静かに沈んでいく。
 山の麓、城中の灯がぽつぽつと点り、鍋の底から泡が立ち始める前のように、じわじわと熱を帯びていた。

 買い取られたばかりのこの「残りの宅」は、夜のうちに、洛中の風水の暗い流れにゆっくりと沈み込み、まだ誰の目にも留まっていない一つの石となった。
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