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第一百六十一話 澄斎の三策定まる・サル、教えを受ける
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永禄九年盛夏、清洲の蝉しぐれは、聞く者の心を石のように硬くしていく。
それでも澄斎の内は静かだった。
蝉の声ごと戸の外に閉め出されたかのような、沈んだ静けさである。
柳澈涵は席に坐していた。
白い髪は灯火の下でも誇示めかしく光ることなく、ただ冷たくそこにある。
目の前には粗紙が一枚。
花も、奇抜な言葉もない。
あるのは、三つの短い文だけだった。
藤吉郎は対面で跪いている。
いつもの軽い笑みは影をひそめ、瞳だけが鮮やかだった。
それは軽薄さの光ではなく、「運命を賭ける」と覚悟した者の光だ。
柳澈涵は紙を押しやり、その三行の文字の上に指先を置いた。
一行目。
『彼らに「入り込めた」と思わせよ』
二行目。
『彼らに「退き得た」と思わせよ』
三行目。
『彼らが戻った後、自分たちが何を見たのか言葉にできぬようにせよ』
藤吉郎はしばらく、その三行を見つめていた。
やがて、ようやく骨を噛み当てた獣のように笑った。
「柳殿、これは柵を守る策ではござらぬな。
守るべきは、奴らの“口”でござる」
「口を縛ることができれば、『疑い』は勝手に育つ」
柳澈涵は答える。
「見たものを筋道立てて語れれば、恐れは戦術に変わる。
語れぬままであれば、恐れは夜ごと喉元を噛む影になる」
藤吉郎は低く応じ、その三行を丸ごと胃に落とし込むような顔つきになった。
柳澈涵は、さらに一言、付け加えた。
声量は変わらない。だがその一語は、釘のように深く刺さる。
「追うな。欲張るな。
夜のひと勝ちを、白日のひと敗けに換えるな」
藤吉郎は頷き、笑みを戻した。
「承知つかまつった。
夜のうちに退路を半ば残しておきましょう。
そして戻った彼ら自身に、その半端な道を“地獄”として語らせる」
そのとき、外の風音が揺れ、幸蔵が入ってきて手早く礼をした。
長居をする風ではない。
ただ報告だけが目的だ。
稲葉山城の兵が動いたという。
動きは大きくはないが、きわめて揃っている――巡邏ではなく、「試し」の動き。
柳澈涵は聞き終えて、三力月だけ問うた。
「火は」
「仰せの通り、足元を照らすのみで、人は映さず」
「縄は」
「結び目を換えました。濡れても鳴りませぬ」
「人は」
「蜂須賀が控えており、列は乱れませぬ」
柳澈涵は小さく頷いた。
藤吉郎が立ち上がり、退出の挨拶をしようとしたとき、八重美が内側から現れた。
手には冷やした茶碗が一つ。
彼女は口を挟まない。ただ茶碗を藤吉郎の前にそっと置いた。
「今夜は霧が深い」
八重美は、軽やかでありながら浮つきのない笑みを見せる。
「誰かの口が物語を語りたがっておるなら、その口には“半端な物語”だけを与えておくことです」
藤吉郎は一瞬きょとんとし、それから大きく笑った。
まるで神仏からもう一枚札をもらったように。
「奥方のお言葉、拙者の百言より効きますな」
八重美はただ静かに微笑みを返し、視線を柳澈涵へと移した。
その眼差しには、澄んだ敬意があった。
柳澈涵は多くを語らない。
再び紙の上の三行へと目を落とす。
文字はそこにある。
だが真に霧に刻まれるべきは、この紙の上の言葉ではない。
稲葉山城の者たちが戻った後、
その「言葉にできない」恐怖を、どう自分たちの夢の中へ持ち込むかだ。
その夜、墨俣に灯る火はさらに密になった。
歯ぎしりの音が、その黒の向こうでひそやかに研がれているかのように。
それでも澄斎の内は静かだった。
蝉の声ごと戸の外に閉め出されたかのような、沈んだ静けさである。
柳澈涵は席に坐していた。
白い髪は灯火の下でも誇示めかしく光ることなく、ただ冷たくそこにある。
目の前には粗紙が一枚。
花も、奇抜な言葉もない。
あるのは、三つの短い文だけだった。
藤吉郎は対面で跪いている。
いつもの軽い笑みは影をひそめ、瞳だけが鮮やかだった。
それは軽薄さの光ではなく、「運命を賭ける」と覚悟した者の光だ。
柳澈涵は紙を押しやり、その三行の文字の上に指先を置いた。
一行目。
『彼らに「入り込めた」と思わせよ』
二行目。
『彼らに「退き得た」と思わせよ』
三行目。
『彼らが戻った後、自分たちが何を見たのか言葉にできぬようにせよ』
藤吉郎はしばらく、その三行を見つめていた。
やがて、ようやく骨を噛み当てた獣のように笑った。
「柳殿、これは柵を守る策ではござらぬな。
守るべきは、奴らの“口”でござる」
「口を縛ることができれば、『疑い』は勝手に育つ」
柳澈涵は答える。
「見たものを筋道立てて語れれば、恐れは戦術に変わる。
語れぬままであれば、恐れは夜ごと喉元を噛む影になる」
藤吉郎は低く応じ、その三行を丸ごと胃に落とし込むような顔つきになった。
柳澈涵は、さらに一言、付け加えた。
声量は変わらない。だがその一語は、釘のように深く刺さる。
「追うな。欲張るな。
夜のひと勝ちを、白日のひと敗けに換えるな」
藤吉郎は頷き、笑みを戻した。
「承知つかまつった。
夜のうちに退路を半ば残しておきましょう。
そして戻った彼ら自身に、その半端な道を“地獄”として語らせる」
そのとき、外の風音が揺れ、幸蔵が入ってきて手早く礼をした。
長居をする風ではない。
ただ報告だけが目的だ。
稲葉山城の兵が動いたという。
動きは大きくはないが、きわめて揃っている――巡邏ではなく、「試し」の動き。
柳澈涵は聞き終えて、三力月だけ問うた。
「火は」
「仰せの通り、足元を照らすのみで、人は映さず」
「縄は」
「結び目を換えました。濡れても鳴りませぬ」
「人は」
「蜂須賀が控えており、列は乱れませぬ」
柳澈涵は小さく頷いた。
藤吉郎が立ち上がり、退出の挨拶をしようとしたとき、八重美が内側から現れた。
手には冷やした茶碗が一つ。
彼女は口を挟まない。ただ茶碗を藤吉郎の前にそっと置いた。
「今夜は霧が深い」
八重美は、軽やかでありながら浮つきのない笑みを見せる。
「誰かの口が物語を語りたがっておるなら、その口には“半端な物語”だけを与えておくことです」
藤吉郎は一瞬きょとんとし、それから大きく笑った。
まるで神仏からもう一枚札をもらったように。
「奥方のお言葉、拙者の百言より効きますな」
八重美はただ静かに微笑みを返し、視線を柳澈涵へと移した。
その眼差しには、澄んだ敬意があった。
柳澈涵は多くを語らない。
再び紙の上の三行へと目を落とす。
文字はそこにある。
だが真に霧に刻まれるべきは、この紙の上の言葉ではない。
稲葉山城の者たちが戻った後、
その「言葉にできない」恐怖を、どう自分たちの夢の中へ持ち込むかだ。
その夜、墨俣に灯る火はさらに密になった。
歯ぎしりの音が、その黒の向こうでひそやかに研がれているかのように。
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