161 / 268
第一百六十三話 投降を求めず・まず「動かぬ」を求める
しおりを挟む
永禄九年、仲夏のあとの清洲には、細い雨が降り続いていた。
細雨は音を立てない。だが、もっとも人を磨り減らす。
何かを一気に打ち壊すことはしない。
ただ、木の一本一本をじわじわと湿らせ、重くし、
人に悟らせるのだ――一つの城を本当に押し潰すのは、一太刀ではなく、止むことを知らぬ一季節の潮だ、と。
澄斎の内で、信長は墨俣における夜の「試し」の報告を聞き終えた。
口元に笑みが浮かぶ。
だが、それは唇の端にちらりと走るだけで、すぐに消えた。
「奴らは戻って、自分たちの見たものを筋道立てて話せたか」
信長が問う。
柳澈涵の答えは静かだった。
「言葉にできぬままであれば、よろしい」
信長は横目で彼を見た。
その眼の奥の光は、火の中に針を隠したように鋭い。
「どれほど乱せば、門が開く」
柳澈涵は地図の上に指を置いた。
押さえたのは城門ではなく、人の名である。稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全。
「門とは城門のことではござらぬ」
柳澈涵は言う。
「門とは、彼らの心の中にある『退路』のこと。
退路が残っておる限り、彼らは動かぬ。
長く動かなければ、城はじわじわと自らひび割れていく」
信長は小さく鼻を鳴らす。
「降伏させるつもりか」
「いいえ」柳澈涵は首を振った。
「降伏させるのではない。
ただ、『ここで動くと自分がいちばん早く死ぬ』と悟らせる」
この一言に、部屋に連なる諸将の呼吸が、ほんのわずか軽くなった。
丹羽長秀の眼がかすかに動く。
森可成は、その言葉の残酷さをより深く理解しているようだ――求めているのは、美しい帰順ではなく、醜くとも生き延びたいがゆえの躊躇である。
信長は少し考え、ふっと笑った。
「動かぬようにさせたければ、動いたほうが早く死ぬと教えてやればよい」
柳澈涵は頷く。
「ゆえに、書状には『来たれ』と書いてはならぬ。ただ『後ろ道』のみを示す」
彼はその場で札をしたためた。
長くはない。紙も荒い。
わざと、途中で押収されても致命傷にならぬような書きぶりだ。
記した言葉は一句のみ。
『城とともに死ぬ気なき者は、自らの家臣を先に死なせぬことだ』
信長は目を通し、口の端を薄く上げた。
「これは刀だな」
柳澈涵は静かに答えた。
「抜かずともよろしい。
鞘の中で鳴る音だけで、十分に効きます」
札が運ばれるのは、軍道ではない。
寺と、商家と、古い縁を辿る。
早くはないが、深く潜っていく道だ。
数日後、返札が来た。
こちらも名を記さず、印も浅い。
だが、そのごく薄い捺し方、角度と力のかかり方は、老臣の手つきによく似ている――
揺るず、しかし目立たぬように。
そこにも一句だけがあった。
『そなたが何者かは問わぬ。ただ、“後ろ道”が本当に残るか否かだけを問う』
信長は読み終え、目の奥の火を一寸ほど強くした。
「後ろ道の価値を、日に日に重く見ておるようだ」
柳澈涵は札を灯の火にかざし、紙の端を軽く炙った。
端がわずかに巻き、薄い骨片のようになった。
「道を論じ始めたということは、ひびが入ったということ」
柳澈涵は言う。
「いつか必ず、自分たちの手で門の閂を引き抜く日が来る」
信長は立ち上がり、手の扇で机を軽く叩いた。
その音は、人の骨を叩くようにも聞こえる。
「よし。ならば叩き続けるまでよ」
夜更け、八重美は内室で柳澈涵の濡れた袖を替えた。
軍議のことは問わない。
ただ、静かに一言だけ。
「細い雨がいちばん人を磨ります」
柳澈涵は彼女を見やり、その眼差しには疲労はなく、かえって冷たい決意が深く刻まれていた。
「ならばちょうどよい。
“もう沢山だ”と、先に彼らのほうが言い出すまで、降り続けばいい」
窓の外で、雨筋が瓦を叩く。
それは数えきれぬ小さな歩みのようであり、
今まさに稲葉山城の心臓へと歩み寄っている足音でもあった。
細雨は音を立てない。だが、もっとも人を磨り減らす。
何かを一気に打ち壊すことはしない。
ただ、木の一本一本をじわじわと湿らせ、重くし、
人に悟らせるのだ――一つの城を本当に押し潰すのは、一太刀ではなく、止むことを知らぬ一季節の潮だ、と。
澄斎の内で、信長は墨俣における夜の「試し」の報告を聞き終えた。
口元に笑みが浮かぶ。
だが、それは唇の端にちらりと走るだけで、すぐに消えた。
「奴らは戻って、自分たちの見たものを筋道立てて話せたか」
信長が問う。
柳澈涵の答えは静かだった。
「言葉にできぬままであれば、よろしい」
信長は横目で彼を見た。
その眼の奥の光は、火の中に針を隠したように鋭い。
「どれほど乱せば、門が開く」
柳澈涵は地図の上に指を置いた。
押さえたのは城門ではなく、人の名である。稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全。
「門とは城門のことではござらぬ」
柳澈涵は言う。
「門とは、彼らの心の中にある『退路』のこと。
退路が残っておる限り、彼らは動かぬ。
長く動かなければ、城はじわじわと自らひび割れていく」
信長は小さく鼻を鳴らす。
「降伏させるつもりか」
「いいえ」柳澈涵は首を振った。
「降伏させるのではない。
ただ、『ここで動くと自分がいちばん早く死ぬ』と悟らせる」
この一言に、部屋に連なる諸将の呼吸が、ほんのわずか軽くなった。
丹羽長秀の眼がかすかに動く。
森可成は、その言葉の残酷さをより深く理解しているようだ――求めているのは、美しい帰順ではなく、醜くとも生き延びたいがゆえの躊躇である。
信長は少し考え、ふっと笑った。
「動かぬようにさせたければ、動いたほうが早く死ぬと教えてやればよい」
柳澈涵は頷く。
「ゆえに、書状には『来たれ』と書いてはならぬ。ただ『後ろ道』のみを示す」
彼はその場で札をしたためた。
長くはない。紙も荒い。
わざと、途中で押収されても致命傷にならぬような書きぶりだ。
記した言葉は一句のみ。
『城とともに死ぬ気なき者は、自らの家臣を先に死なせぬことだ』
信長は目を通し、口の端を薄く上げた。
「これは刀だな」
柳澈涵は静かに答えた。
「抜かずともよろしい。
鞘の中で鳴る音だけで、十分に効きます」
札が運ばれるのは、軍道ではない。
寺と、商家と、古い縁を辿る。
早くはないが、深く潜っていく道だ。
数日後、返札が来た。
こちらも名を記さず、印も浅い。
だが、そのごく薄い捺し方、角度と力のかかり方は、老臣の手つきによく似ている――
揺るず、しかし目立たぬように。
そこにも一句だけがあった。
『そなたが何者かは問わぬ。ただ、“後ろ道”が本当に残るか否かだけを問う』
信長は読み終え、目の奥の火を一寸ほど強くした。
「後ろ道の価値を、日に日に重く見ておるようだ」
柳澈涵は札を灯の火にかざし、紙の端を軽く炙った。
端がわずかに巻き、薄い骨片のようになった。
「道を論じ始めたということは、ひびが入ったということ」
柳澈涵は言う。
「いつか必ず、自分たちの手で門の閂を引き抜く日が来る」
信長は立ち上がり、手の扇で机を軽く叩いた。
その音は、人の骨を叩くようにも聞こえる。
「よし。ならば叩き続けるまでよ」
夜更け、八重美は内室で柳澈涵の濡れた袖を替えた。
軍議のことは問わない。
ただ、静かに一言だけ。
「細い雨がいちばん人を磨ります」
柳澈涵は彼女を見やり、その眼差しには疲労はなく、かえって冷たい決意が深く刻まれていた。
「ならばちょうどよい。
“もう沢山だ”と、先に彼らのほうが言い出すまで、降り続けばいい」
窓の外で、雨筋が瓦を叩く。
それは数えきれぬ小さな歩みのようであり、
今まさに稲葉山城の心臓へと歩み寄っている足音でもあった。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる