戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百六十五話 本丸定勢・半兵衛帰局

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    永禄九年の晩秋。清洲の風は硬くなっていた。研ぎ澄ました刀の峰みたいな鉄の風が、本丸の外壁にぴたりと張り付き、一寸一寸と削っていく。その風を胸に入れたら、余計な一言すら吐けなくなるような冷たさだった。

本丸評定。灯は多くないのに、座敷に暗がりはない。暗いのは人の心の中のわずかな侥幸で、それもこの風に吹かれれば、すぐにあらわになる。

織田信長は姿勢正しく座し、扇を手にしていた。開きもせず、畳みもしない。その扇は、まだ鞘から抜かれていない短刀に見えた。誰もが知っている。この扇が一度動けば、誰かの身が裂かれる、と。

丹羽長秀が左に、森可成が右に座る。前田利家は一歩あとに控え、その眼差しは研ぎ上げた槍先のように真っ直ぐだ。柴田勝家も列にいるが、ほとんど口を開かない。ただそこに座っているだけで、さながら燃え上がる火を押さえつける鉄塊のようだった。

藤吉郎は外側に控え、いつもの笑みはあるものの、いくぶん薄い。その笑みは、少しでも声を張れば自分の命の重さのせいで崩れ落ちそうなほどに、かすかだった。

柳澈涵(りゅう・てつかん)は、評定の輪の中にいながらも、決して目立つ位置を取らない。白い髪はきちんと束ねられ、袖口には一つの乱れもない。目の前には一枚の粗い地図。墨線は少ないが、尾張と美濃の間に走る川筋、渡し場、堤道が、骨節のように要点だけを押さえて打たれている。

信長が先に口を開いた。声は高くない。

「美濃だ」

その二文字だけで、座にいる者たちの呼吸が一気に詰まる。

そのとき、外から声がかかった。近江からの書状だという。

参上したのは使者ではなく、一介の足軽上がりの下級武士にすぎなかった。だが礼はきわめて整っており、薄い文を恭しく差し出す。

信長は封も切らず、そのまま柳澈涵に渡した。

「見よ」

柳澈涵が受け取る。紙は薄く、文は短い。それでも筆致は石を削ったように鋭い。

「城はいちど我が手に帰し、また返した。稲葉山の命は軽い、重荷を負うに及ばず。――半兵衛」

座は静まり返った。ランプの芯でさえ、爆ぜるのをためらっているような沈黙だ。

前田利家が眉をひそめる。

「竹中半兵衛……ついに口を開いたか」

丹羽長秀が静かに言う。

「口を開いたというより、盤面に戻ってきた、というべきでしょうな」

柳澈涵は札を卓に戻した。指先は微動だにしない。ただ、その一瞬だけ、瞳の奥底に、古い借りを掘り返されたような冷たい光が走った。

彼と半兵衛の間柄は、「名を聞き知っている」程度ではない。かつて城を奪っては返し、近江まで護送し、同じ夜風の中で命を道のように歩かせた、そんな関わりがある。

ゆえにこの札は、許しを乞う手紙ではない。告知である。――俺は盤に戻った、と。

信長の口元に、短く笑みが走る。

「よい」

彼は藤吉郎の方を向いた。

「呼べ」

藤吉郎が頭を下げようとしたとき、信長はもう一言、刃を足す。

「官を約すな、禄を約すな。気取った言葉で釣るな。ただ、あれを、わしの目の届くところまで連れて来い」

藤吉郎の喉がひくりと動く。それでも笑みを崩さない。

「承知。飾り言葉はよそで使います。わたしが運ぶのは、道でございます」

信長の扇が、卓を軽く叩く。

「その道も、あまり明るく描くな。明るすぎる道は、古くからの家臣ほど“叛”の字を背負った気になる」

柳澈涵が受けて言う。声は冷静だ。

「後ろ道だけ見見せればよいのです。歩くかどうかは、彼ら自身に任せればよろしい」

信長が目を上げる。

「どう歩かせる?」

柳澈涵は、ただ四文字だけを答えた。

「半拍、遅く」

柴田勝家が、ついに口を開く。声は低く重い。

「半拍遅れれば、生きる」

柳澈涵は彼を一瞥し、黙って頷いた。

軍議がはねるころ、本丸の廊下には風が吹き込んでいた。その風は「美濃」という二文字を、さらに硬く研ぎ上げる。

藤吉郎が廊下へ下がるところを、柳澈涵が呼び止めた。

「藤吉郎」

藤吉郎が振り返る。笑みをまた顔に載せるが、その薄さは刀身より細い。

「柳殿」

柳澈涵は、ひと言だけ告げる。

「お前が請うのは人ではない。城の命を帳簿に書き換えられる男だ。口を惚けさせるな」

藤吉郎は、ごく軽く答える。

「心得ております」

本丸を出るとき、背中を叩くような風がひと押しした。近江へ、半兵衛へ、美濃三本柱の、最初の亀裂へと押し出す風だった。

一方その夜の稲葉山城では、灯がいつもより密にともっている。

あまりに密で、誰かが暗闇からそっと門の閂を抜き取るのを、怖れているかのように。

だが、いったん「閂」のことが人の心に上ったとき、そんな閂は、もう外れかかっているのだ。
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