戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百二十三話 愛知川・葦原に走る銃声

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 元亀元年七月中旬、近江・愛知川のほとり。

 川面から吹き上げた風が、水のきらめきを掠め、そのまま背丈ほどの葦原へ潜り込む。乾いて、真っすぐで、日に晒し切った泥の匂いを運ぶ。京の風ではない。戦の匂いだけがする風だ。

 柳澈涵は渡し場の手前で馬を止めた。蹄が止まった瞬間、六十一騎が同時に静止する。号令も、ためらいもない。手綱のかすかな鳴りすら押し殺され、隊列は地面に押し込まれた鉄塊のように固まった。

 弥助の手は、背負った長銃の火縄銃へ伸びていた。

「先生……?」

 柳澈涵はすぐには答えない。目を閉じ、息を極限まで薄くする。風の中に、ひどく淡い渋みが混じっている。葦に刻まれて散り、また寄り集まる、消えきれない匂い。

「油だ」

 声は低く、短い。

「菜種油じゃない」

 目を開け、灰黄の葦の海を見切り、さらに先の枯れた林の縁へ視線の走らせる。

「火縄を拭く油だ。……ついさっき使った匂いが残ってる」

 手が上がり、すぐに落ちた。

「道が弄られている」

 言い終えるより早く、葦の奥が爆ぜた。軍の掛け声ではない。粗く、砕け、喉を裂くような吠え声。放たれた野犬の群れみたいな音が、湿った地を掻きむしってくる。

 数十の影が葦間から躍り出た。衣はぼろぼろ、槍も矛も長短ばらばら。しかし脚は速い。襲い潰すのではない。絡みつくのでもない。寄せて、叫んで、振り回し、馬隊を河原の低地へ押し込める。追い立てだ。羊追いの手つきだ。

「崩すな」

 柳澈涵の声は高くない。だが、芯が折れない。

「散るな」

 長槍が外へ開き、隊形が内へ締まる。柳澈涵の傍の弥助を除けば、残る六十騎は一枚の鉄の棘となって折り畳まれた。外周の浪人が吠え、挑発し、喚き散らしても、裂け目ひとつ作らせない。

 本物の殺気が、別の方向から浮上した。土手の陰から、足軽の列が音もなく迫る。叫ばない。突撃の気配を削り落とし、足取りだけを揃えて前へ出る。鎧は泥で家紋を潰されている。だが、潰せないものがある。北近江の兵のリズムだ。短く、低く、入り込むために研がれた歩調。

 柳澈涵はそれを見た。

「正面は追ってる。横からは圧してくる」

 視線が人波を越え、一瞬だけ遠くで止まる。

「……もう一つ。見てる場所がある」

 二百歩先。雷に裂かれた老松。幹は黒く焦げ、枝は折れ落ち、そこに“影”が余っている。

 杉谷善住坊が股枝に伏していた。全身を樹皮へ貼りつけ、影そのものになっている。手にした火縄銃は異様に長い。銃身は藤で締め上げられ、急造の武器では出せない安定がある。

 彼は待っている。一月前も、そうして待った。千草峠の山道で、織田信長の影が自分の呼吸の拍へ入る瞬間を。あの時、ほんの僅か。ほんの僅かで歴史は転んだ。だから今度は急がない。狙うのは旗でも隊列でもない。白髪の男、その一点だ。

 ――掟は掟。値は値。

 善住坊は胸の内で冷たく割り切る。与えられたのは金判ではない。生き延びる道だ。この一発が成れば、甲賀へ戻る必要すらない。

 戦場の中心。浅井の列に紛れた“浪人”が、わざと半歩遅れていた。奪い合わず、斬り合わず、ただ余光で馬上の一人を追う。襟元から僧衣の裏が僅かに覗き、すぐに指で押し込められた。彼は確かめに来ている。この銃が当たるのか――それだけを。

 柳澈涵が、ふいに首を巡らせた。音ではない。狙いを定められた時にだけ背筋へ這い上がる冷えが、肩甲骨の間から忍び込んできた。

「弥助」

 声は刃のように短い。

「左前、二百歩。木の上だ」

 弥助はもう下馬していた。片膝をつき、“驚雷”を据える。視界には揺れる葦と枝影ばかりで、人影はない。見えない。掌に汗が滲む。

「探すな」

 柳澈涵の手が弥助の肩へ置かれる。重くない。だが、岩のように揺るがない。

「奴は、自分で光る」

 柳澈涵が馬腹を軽く蹴る。隊列の前縁が、ほんのわずか動いた。善住坊は、それを“破綻”だと思った。標的の拍が変わった。今だ。

 火縄が落ちる。鈍い一発が空気へ食い込む。軽い破裂音ではない。重い塊が世界を叩くような音。鉛弾は柳澈涵の脇を掠め、背後の川岸へ突き刺さり、泥水を細い線で跳ね上げた。

 枝影の奥で、発火の一瞬が閃いた。それでいい。

 弥助が引き金を引く。

「――砰ッ」

 “驚雷”の音は長く尾を引き、白煙は真っすぐに伸びた。老松の上で、押し殺した呻きが一つ。善住坊の肩口が裂ける。身体が均衡を失い、枝から転げ落ちた。戦場を見返すこともなく、銃も拾わない。裂けた腕を引きずり、葦の闇へ潜り込む。消え方だけが異様に綺麗だった。

 土手の向こうで、哨が鋭く鳴る。浅井の足軽が即座に退いた。欲しかったのは機会であって消耗ではない。暗所の牙が折れたなら、六十騎は彼らを裂いてしまう。

 “僧”の浪人が最も早く身を引いた。なお一度、馬上に立つ柳澈涵を見て、葦原へ溶ける。

 風が戻った。戦いは、初めから無かったかのように薄まった。柳澈涵は下馬し、川岸へ歩いた。鉛弾が刺さった泥の割れ目を一瞥する。拾わない。

「……善住坊だ」

 弥助は地に座り込み、痺れた肩を抱えたまま、まだ息が整わない。

「先生……あれは、あなたを狙って……」

「違う」

 柳澈涵は首を振る。

「あれが狙ってるのは、信長公だ」

 馬へまたがり、隊列が再びほどける。

「殺せないなら、眼を試す」
「誰かが知りたいんだ――俺がまだ立っているかを」

 姉川の方角へ視線を投げる。

「今ので、分かっただろう」

 馬隊は再び進む。葦は口を閉ざし、風が銃声を覆い隠す。愛知川は平静を取り戻した。だが、この道には印が付いた。この先にあるのは、試し合いではない。ただ本物の戦場だけだ。
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