戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百三十一話 岐阜の小休止・暴雨前の蝉

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 元亀元年七月中旬 美濃・岐阜城

 岐阜へ戻ると城は引き直されたように整う。甲冑は架に戻り、火縄は干され、鍛冶は昼夜を叩く。鈍い響きが心拍のように続いた。兵は笑い、“息がつける”と言う。

 だが柳澈涵が聞くのは別の息だ。人ではない。情勢が喘いでいる息である。

 澄斎に戻ると生活の匂いが漂う。それが逆に、夢のように不気味だった。阿新は梅干しを晒す。酸と塩が陽に光る。阿久は冷や麦を作り、葱を刻む音が時を細く刻む。佐吉は帳簿を抱え、算盤を弾き、豆一握りまで数える。

 ただ柳澈涵の巻物だけが、長く頁をめくらなかった。読めぬのではない。蝉が文字を押し退けるのだ。蝉の声は鋭く、夏の皮膚を裂き、内側の熱と腐りを曝け出す。

 弥助は縁で“驚雷”を磨く。銃身は光り、木影と、あまりに清い眼を映す。ふと弥助が手を止め、子どものように問うた。

「先生……戦は、いつ終わりますか」

 柳澈涵は庭の老松を見る。松葉が石へ落ちる。音はない。だが心に刺さる。

「蝉が一番うるさく鳴く時が、夏の終わりだ」
「乱世も同じだ」
「ただ……どの夏かは分からぬ」

 弥助は首を傾げ、また銃を磨いた。命を磨く手つきで。

 柳澈涵は書斎に入り、素箋を取る。乱れるほど、長文は己を欺く。短句だけが刃になる。刃は言い訳を許さない。筆を取り、俳句を書いた。

 俳句一(勝後の緩み)
 蝉しぐれや
 鎧の血まだ
 弦ゆるむ

 俳句二(京都の仮面と正統)
 御所あかり
 笑みに冷刃(れいじん)
 杯のめず

 俳句三(摂津への入口)
 海の匂ひ
 荷なき舟来る
 人ばかり

 書き終えると宗久の文を開いた。封に海の気配。堺の港の匂い。商人の警鐘。

「堺の海、見慣れぬ船多し」
「荷を積まず、人のみ積む。四国音多し」
「本願寺、火薬買い入れ三倍。硝石高騰」

 柳澈涵は文を伏せ、低く言った。

「堺の船主は銀しか見ぬ」
「だから戦の匂いを最初に嗅ぐ」

 地図を広げる。三好残党は四国に沈み、沈むほど浮上は汚い。本願寺は寺ではない。財と火器と信徒と規律の王国。義昭は敵ではないが、“正統”という刀柄を握る。三本の線が交わる場所は京都でも岐阜でもない。摂津だ。

「同盟ではない」柳澈涵が幸蔵に言う。「同じ刀の三つの背だ。柄を握る者が、信長公を刺す」幸蔵が唾を飲む。「柄は……誰の手に?」

 柳澈涵は答えず、ただ湯面の震えを見る。地の奥で巨きものが寝返るように。そして地図に二文字だけ書いた。

 摂津。
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