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第二百三十五話 淀川の籠(かご)・重き鉄の脚
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元亀元年八月二十六日 摂津・淀川三角州
数万の軍勢が野に敷き開かれる。黒地木瓜紋の指物が海となり、陣太鼓は腹の奥で鳴る雷のように重い。遠望すれば織田軍は、鉄を纏う獣。北から南へと押し下り、葦ですらその影に押し伏せられた。
野田・福島の両城は湿地の間に伏し、動かぬ二頭の獣のようだった。吼えもせず、牙も見せぬ。ただ湿地そのものを口にして、牙を泥の奥へ隠している。
柳澈涵は馬上で地を見る。蹄が落ちた刹那、泥水が跳ねる。その跳ね返りだけで、彼の眉が僅かに動いた。降りる。腰を折り、黒い土をひとつまみ捻る。土は黒く、脂のようにぬめる。指先で擦れば、濁った水漿が滲む。肥え土ではない。腐土だ。地ではない。脚を喰う口だ。
顔を上げる。水路は縦横に走り、葦は天まで連なり、潮の湿り気が見えぬ衣となって皮膚へ貼りつく。貼りつき方が冷たい。――生きた土地の冷たさではない。
「弥助」
泥を払う手つきは淡い。声も淡い。
「ここはまず人を喰わぬ。脚から喰う」
弥助には“脚”の意味がすぐには分からない。ただ、先生がそれを言うときの気配が、病が発つ前の脈案のように冷たかった。
大帳の軍議は熱い。前田利家、佐々成政らは請戦の火。柴田勝家は吼えぬが、低く低く急き立てる。押せば倒れる、と皆が思い込もうとしていた。
信長は腰掛けに座し、扇は開かれぬ。扇骨が掌を軽く叩く。
「攻めぬ」
二字が落ちた瞬間、帳の熱血は桶の水で被せられたように鎮まった。
「砦を築く」
信長の指が地図の要点を叩く。叩き方が揺れない。
「楼岸、川口――まず楔を打つ」
「砦で鎖し、糧と日で圧す」
織田の最も覇道なやり口だ。獣の噛みつきではない。巨石の転圧である。今日死なずとも、明日に糧が切れ、明後日に臭う。腐るのは肉ではない。希望だ。
柳澈涵は末席に立ち、諸将と争わない。地図をめくり、堤、防、水路、潮汐が記された頁を開く。言葉より先に、日をひとつ心に刻む。――旧暦九月十三。潮が大きい。風も強い。
天意は信じない。だが“天時が人に使われる”ことは信じる。
砦は腐泥の上に起こされる。工兵の掛け声。巨木の杭が泥の腹へ叩き込まれる。
「どん――」
一撃ごとに泥水が隙間から湧き、濁泡が浮く。大地が傷を負い、喘いでいるようだった。砲架を据える。まだ撃たぬのに、台がじわじわと傾く。足軽が土を盛りながら低く罵る。罵声は押し殺されているのに、恐怖だけが滲む。
「死人の腹みてぇだ……底がねえ」
軍目付が横目で掃う。罵声は即座に途切れた。柳澈涵は、その一言を心へ残した。汚言ではない。戦場の真言だ。
彼は背を向け、三つだけ指示を出す。
第一――火縄の分置。鉄砲組の火縄を三箇所に分け、油布で幾重にも包み、夜は火鉢のそばで交替して乾かせ。
第二――砲架の木台。大筒・砲架は必ず厚木の台に据え、泥へ直に圧し付けることを禁ず。
第三――堤口の夜巡。澄心軍団の軽足を抜き、堤口・暗渠・葦の水道だけを見張らせよ。やることは二つ――水音を聴け、潮の気配を見ろ。
弥助がついて来る。堪えきれず問う。
「先生……何を心配してるんですか」
楼岸砦の上。柳澈涵は、静かすぎる葦原を見た。
「人ではない」
一拍置く。
「地が、奴らの手になるのが怖い」
野田・福島は相変わらず静かだ。出ず、吼えず、首も献ぜず、功も求めぬ。噛めぬ革のように、こちらの歯を鈍らせるだけ。柳澈涵が雷霆峨保に言う。
「三好が死に物狂いで来るなら、まだ処しやすい」
「静かすぎるのは……誰かが“静かにしろ”と教えている」
夜風が立つ。石山の方角から吹き込んだ。柳澈涵が掌を開くと、極細の灰が落ちた。海の腥さではない。――香灰だ。雪のように軽い。だが胸を重く塞ぐ。指で捻り、低く呟く。
「香火が先に来たな」
数万の軍勢が野に敷き開かれる。黒地木瓜紋の指物が海となり、陣太鼓は腹の奥で鳴る雷のように重い。遠望すれば織田軍は、鉄を纏う獣。北から南へと押し下り、葦ですらその影に押し伏せられた。
野田・福島の両城は湿地の間に伏し、動かぬ二頭の獣のようだった。吼えもせず、牙も見せぬ。ただ湿地そのものを口にして、牙を泥の奥へ隠している。
柳澈涵は馬上で地を見る。蹄が落ちた刹那、泥水が跳ねる。その跳ね返りだけで、彼の眉が僅かに動いた。降りる。腰を折り、黒い土をひとつまみ捻る。土は黒く、脂のようにぬめる。指先で擦れば、濁った水漿が滲む。肥え土ではない。腐土だ。地ではない。脚を喰う口だ。
顔を上げる。水路は縦横に走り、葦は天まで連なり、潮の湿り気が見えぬ衣となって皮膚へ貼りつく。貼りつき方が冷たい。――生きた土地の冷たさではない。
「弥助」
泥を払う手つきは淡い。声も淡い。
「ここはまず人を喰わぬ。脚から喰う」
弥助には“脚”の意味がすぐには分からない。ただ、先生がそれを言うときの気配が、病が発つ前の脈案のように冷たかった。
大帳の軍議は熱い。前田利家、佐々成政らは請戦の火。柴田勝家は吼えぬが、低く低く急き立てる。押せば倒れる、と皆が思い込もうとしていた。
信長は腰掛けに座し、扇は開かれぬ。扇骨が掌を軽く叩く。
「攻めぬ」
二字が落ちた瞬間、帳の熱血は桶の水で被せられたように鎮まった。
「砦を築く」
信長の指が地図の要点を叩く。叩き方が揺れない。
「楼岸、川口――まず楔を打つ」
「砦で鎖し、糧と日で圧す」
織田の最も覇道なやり口だ。獣の噛みつきではない。巨石の転圧である。今日死なずとも、明日に糧が切れ、明後日に臭う。腐るのは肉ではない。希望だ。
柳澈涵は末席に立ち、諸将と争わない。地図をめくり、堤、防、水路、潮汐が記された頁を開く。言葉より先に、日をひとつ心に刻む。――旧暦九月十三。潮が大きい。風も強い。
天意は信じない。だが“天時が人に使われる”ことは信じる。
砦は腐泥の上に起こされる。工兵の掛け声。巨木の杭が泥の腹へ叩き込まれる。
「どん――」
一撃ごとに泥水が隙間から湧き、濁泡が浮く。大地が傷を負い、喘いでいるようだった。砲架を据える。まだ撃たぬのに、台がじわじわと傾く。足軽が土を盛りながら低く罵る。罵声は押し殺されているのに、恐怖だけが滲む。
「死人の腹みてぇだ……底がねえ」
軍目付が横目で掃う。罵声は即座に途切れた。柳澈涵は、その一言を心へ残した。汚言ではない。戦場の真言だ。
彼は背を向け、三つだけ指示を出す。
第一――火縄の分置。鉄砲組の火縄を三箇所に分け、油布で幾重にも包み、夜は火鉢のそばで交替して乾かせ。
第二――砲架の木台。大筒・砲架は必ず厚木の台に据え、泥へ直に圧し付けることを禁ず。
第三――堤口の夜巡。澄心軍団の軽足を抜き、堤口・暗渠・葦の水道だけを見張らせよ。やることは二つ――水音を聴け、潮の気配を見ろ。
弥助がついて来る。堪えきれず問う。
「先生……何を心配してるんですか」
楼岸砦の上。柳澈涵は、静かすぎる葦原を見た。
「人ではない」
一拍置く。
「地が、奴らの手になるのが怖い」
野田・福島は相変わらず静かだ。出ず、吼えず、首も献ぜず、功も求めぬ。噛めぬ革のように、こちらの歯を鈍らせるだけ。柳澈涵が雷霆峨保に言う。
「三好が死に物狂いで来るなら、まだ処しやすい」
「静かすぎるのは……誰かが“静かにしろ”と教えている」
夜風が立つ。石山の方角から吹き込んだ。柳澈涵が掌を開くと、極細の灰が落ちた。海の腥さではない。――香灰だ。雪のように軽い。だが胸を重く塞ぐ。指で捻り、低く呟く。
「香火が先に来たな」
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