235 / 268
第二百三十七話 逆流の水・腐泥の鉄砲戦
しおりを挟む
元亀元年九月十三日 楼岸砦・川口砦
夜が白む前に、風が先に来た. 西風が急に暴れ、下流の水を上流へ押し戻す. 老兵は水音だけで顔が変わる. 矢も銃も怖れぬ. 怖いのは――水が怒ることだ. 水が怒れば、泥は縄になる. 脚を縛る縄だ。
柳澈涵は堤に立ち、目を閉じて一息聴いた. 風音、水音、櫓音、遠い鐘の余韻. それらが耳の中で一本の脈になる. 目を開き、ただ一字。
「来た」
その瞬間、遠くで鈍い破裂. 雷ではない. 堤が裂けた音だ. 黒水が蛇の群れのように噴き入り、砦線へ突っ込む. 楼岸、川口は瞬く間に切り離され、孤島になる. 水は膝を越え、泥が脚を吸う. 鉄甲が沈めば、人は棺へ押し込まれる。
足軽が火薬樽を抱えて走る. 滑る. 落ちる。
「ぼちゃん」
樽が沈み、人も沈む. 水面に気泡が二筋. 闇が笑ったように、すぐ消えた。砲架が流され、木台が揺れ、砲口は居場所を失った獣の首. 吼えられぬ. ただ喘ぐ。
「先生! 火縄が湿り――!」
弥助が初めて“真に”慌てた. 死が怖いのではない. 銃が鳴らぬのが怖い. 銃が鳴らねば、命は相手の掌の賽になる。柳澈涵は冷たい. 刀の背を脊へ貼りつける声で命じる。
「火縄を分けろ。乾いた方を取れ」
「砲口を上げろ。木台へ乗せろ」
「盾を前へ。隊は散るな」
「散れば十人死ぬ」
数日前に打った三策の意味が、ここで生きる. 火縄の分置があるから、織田軍は全線で黙らない. 砲架の木台があるから、いくつかの火点は踏ん張れる. 堤口夜巡があるから、決壊前に“半歩”だけ高所へ寄せられる. 半歩は一命だ。
本願寺側の高堤. 雑賀衆の鉄砲が点を打ち始める. 奴らの足場は乾き、銃は揺れず、視界は開く. 織田軍は腐泥の中で盾を上げ、砲を引き、木を運ぶ. 溺れながら刀を抜く者の群れだ. 火が瞬き、弾が泥の肉へ刺さる。
「パン!」
「パン!」
魂が胸から叩き出される音。
「佐々殿、被弾!」
叫びが乱れの中を走る. 佐々成政が泥水に倒れ、血は黒水に呑まれて暗くなる. 助けに行けば脚を取られる. 一歩救って半歩沈む。柳澈涵の目が収まる. 即座に令。
「板を敷け!」
「縄を腰に結べ!」
「左右、盾で護れ!」
「先に人、後に械!」
澄心軍団の鉄砲隊が火力を補う. 遠射を競わない.“頭を押さえる”ことだけを奪い合う. 砦内二つの射点が交差して撃つ. 対岸の櫓台、堤頂に覗く肩線. そこだけを狙う。
第一斉射――伏せさせる。
第二点射――装填手を落とす。
第三補射――号令を出す頭を沈める。
殺し尽くさぬ. 上げさせぬ. 火力は狂ではない. 冷だ. 賭けではない. 算だ。
弥助は“驚雷”を掲げて水を行く. 銃口から水が滴る. 洪水の中で消してはならぬ火種を運ぶように。人が引き上げられる頃、柳澈涵の全身は泥水だった. 彼は水に浸かった火縄を取り、指で擦る. 火縄は絮のように切れた。
怒らない. ただ弥助へ低く言う。
「水は人を殺さぬ」
「水を借りて刀を振るう者が殺す」
夜. 雨は止む. 水は退き始める. しかし泥は、さらに粘る. 砲架は泥に噛まれ、半分だけ突き出た. 断骨のようだ. 重い軍械ほど、抜け出せない. それが戦場の答えだった。柳澈涵は泥を見ながら、もっと冷たく理解する. ――これは試し斬りだ. 本願寺が試している. お前の刃は、泥の中でも鋭いか。
夜が白む前に、風が先に来た. 西風が急に暴れ、下流の水を上流へ押し戻す. 老兵は水音だけで顔が変わる. 矢も銃も怖れぬ. 怖いのは――水が怒ることだ. 水が怒れば、泥は縄になる. 脚を縛る縄だ。
柳澈涵は堤に立ち、目を閉じて一息聴いた. 風音、水音、櫓音、遠い鐘の余韻. それらが耳の中で一本の脈になる. 目を開き、ただ一字。
「来た」
その瞬間、遠くで鈍い破裂. 雷ではない. 堤が裂けた音だ. 黒水が蛇の群れのように噴き入り、砦線へ突っ込む. 楼岸、川口は瞬く間に切り離され、孤島になる. 水は膝を越え、泥が脚を吸う. 鉄甲が沈めば、人は棺へ押し込まれる。
足軽が火薬樽を抱えて走る. 滑る. 落ちる。
「ぼちゃん」
樽が沈み、人も沈む. 水面に気泡が二筋. 闇が笑ったように、すぐ消えた。砲架が流され、木台が揺れ、砲口は居場所を失った獣の首. 吼えられぬ. ただ喘ぐ。
「先生! 火縄が湿り――!」
弥助が初めて“真に”慌てた. 死が怖いのではない. 銃が鳴らぬのが怖い. 銃が鳴らねば、命は相手の掌の賽になる。柳澈涵は冷たい. 刀の背を脊へ貼りつける声で命じる。
「火縄を分けろ。乾いた方を取れ」
「砲口を上げろ。木台へ乗せろ」
「盾を前へ。隊は散るな」
「散れば十人死ぬ」
数日前に打った三策の意味が、ここで生きる. 火縄の分置があるから、織田軍は全線で黙らない. 砲架の木台があるから、いくつかの火点は踏ん張れる. 堤口夜巡があるから、決壊前に“半歩”だけ高所へ寄せられる. 半歩は一命だ。
本願寺側の高堤. 雑賀衆の鉄砲が点を打ち始める. 奴らの足場は乾き、銃は揺れず、視界は開く. 織田軍は腐泥の中で盾を上げ、砲を引き、木を運ぶ. 溺れながら刀を抜く者の群れだ. 火が瞬き、弾が泥の肉へ刺さる。
「パン!」
「パン!」
魂が胸から叩き出される音。
「佐々殿、被弾!」
叫びが乱れの中を走る. 佐々成政が泥水に倒れ、血は黒水に呑まれて暗くなる. 助けに行けば脚を取られる. 一歩救って半歩沈む。柳澈涵の目が収まる. 即座に令。
「板を敷け!」
「縄を腰に結べ!」
「左右、盾で護れ!」
「先に人、後に械!」
澄心軍団の鉄砲隊が火力を補う. 遠射を競わない.“頭を押さえる”ことだけを奪い合う. 砦内二つの射点が交差して撃つ. 対岸の櫓台、堤頂に覗く肩線. そこだけを狙う。
第一斉射――伏せさせる。
第二点射――装填手を落とす。
第三補射――号令を出す頭を沈める。
殺し尽くさぬ. 上げさせぬ. 火力は狂ではない. 冷だ. 賭けではない. 算だ。
弥助は“驚雷”を掲げて水を行く. 銃口から水が滴る. 洪水の中で消してはならぬ火種を運ぶように。人が引き上げられる頃、柳澈涵の全身は泥水だった. 彼は水に浸かった火縄を取り、指で擦る. 火縄は絮のように切れた。
怒らない. ただ弥助へ低く言う。
「水は人を殺さぬ」
「水を借りて刀を振るう者が殺す」
夜. 雨は止む. 水は退き始める. しかし泥は、さらに粘る. 砲架は泥に噛まれ、半分だけ突き出た. 断骨のようだ. 重い軍械ほど、抜け出せない. それが戦場の答えだった。柳澈涵は泥を見ながら、もっと冷たく理解する. ――これは試し斬りだ. 本願寺が試している. お前の刃は、泥の中でも鋭いか。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる