244 / 268
第二百四十六話 二子、斤を称す・隆景は水
しおりを挟む
明後日、小早川隆景に会う。
隆景の部屋は書斎のようだった。案の上には潮図と航路図が広げられ、墨の香が刀の気を押さえる。窓辺に古い海図が掛かる。角は毛羽立つのに、押さえは極めて平らだ。日々、繰り返しめくられてきた証。隆景の坐は元春ほど硬くない。だがいっそう稳い。水面が波立たぬような稳さ。浅く見れば温和に見える。深く見れば底に暗流があると分かる。
隆景は微笑む。
「先生、旗も持たず。商い人のようだ。」
柳澈涵が答える。
「商路は潮騒をいちばん聞きます。」
隆景は茶を取り、軽く頷く。
「来たのは、毛利を動かすなと言うためか。」
柳澈涵は首を振る。
「動かぬためではない。動と不動の界を明らかにするためです。」
隆景の眼に微かな光。
「界?」
柳澈涵は案へ寄り、潮図の一筋の折れ目に指を置いた。最も目立つ主線ではない。旁線だ。隆景の目がかすかに止まる。心の中で言っている——この指は無造作ではない。
柳澈涵が言う。
「火薬と人が一線だけを通るなら、その線は天下に盯まれます。盯まれた線は活路ではない。死路です。」
隆景は笑みを崩さない。
「では先生、路はどう走らせる。」
柳澈涵はすぐ「どう走らせる」と答えない。まず隆景が最も気にする「可逆」を置く。
「路は開けばよいのではない。収められる路でなければならぬ。送れること。断てること。盟友に見せられること。必要なとき、盟友にさえ見失わせられること。」
隆景は茶盏を置いた。声は温いのに、刃が増す。
「先生は網を編む者の言い方をする。」
柳澈涵が答える。
「海そのものが網です。」
隆景は潮図の、いちばん目立つ航路を指す。
「いま石山へ行く火と人、多くはこの線を通ろう。」
柳澈涵は頷く。
「だから危うい。」
隆景は目を上げる。
「分けろと言うのか。」
柳澈涵は「言う」とは言わない。隆景を引かぬために。「そうすればどうなる」を置く。水は自ら流れる。手に引かれるのを嫌う。
「三つに分けてください。」柳澈涵が言う。「三つの線に。一本は明。一本は半明。一本は暗。」
隆景の眼の光がさらに増す。だが急いで肯じない。
「明の線は天下へ。」柳澈涵が言う。「毛利は礼を尽くす、と天下に見せる。半明は盟友へ。暗は毛利だけへ。」
隆景が静かに問う。
「暗はどこに置く。」
柳澈涵の答えは「商」でも「武」でもない。真に海を知る者の答えだ。
「船に置かない。旗にも置かない。港に置きます。堺、博多、瀬戸内の小港の“人”に置く。船が固定しなければ、路も固定しない。路が固定しなければ、路を盯む者は名を盯むしかない。」
隆景は彼を見て、ふっと笑った。真の笑み。
「先生は“不固定”で固定せよと言うのだな。」
柳澈涵もわずかに礼をする。
「海はもとより不固定です。固定しようとすれば、折れます。」
隆景の笑みが収まる。そこで真の刃が出る。刃は今ここではない。石山でも将軍でもない。未来——天下に「唯一の刃」が生まれるかもしれぬ、その権力構造にある。
「もし信長が天下の唯一の刃になったとき。」隆景が言う。「東山の先生は保証できるか。その刃が、いずれ海を割かぬと。」
室内が一息、静まる。紙の角まで止まったかと思う静けさ。柳澈涵は誓いを出さない。誓いは戦国でもっとも安い。「必ずそうはならぬ」という空言で隆景を喜ばせもしない。それは隆景への侮りだ。彼は答えを、隆景の得意へ置く。網と退路へ。
「保証はしません。」柳澈涵が言った。隆景の眼がわずかに沈む。怒りではない。深さだ。柳澈涵は続ける。
「天下で、刀が振り向かぬと保証できる者はいません。私が保証できるのは一つだけ。海が、決して自分を刀柄に縛りつけぬようにすることです。」
隆景が低く復す。
「刀柄に縛らぬ。」
柳澈涵は頷く。
「刃が一つしか許されぬ天下になれば、海上の諸家は、どこに附くかを選ぶしかない。あなた方は織田の刃を怖れているのではない。天下が、ただ一把の刃だけになることを怖れている。」
隆景は長く沈黙し、やがて低く言った。
「先生、狠いが、准い。」
柳澈涵は「准い」に乗らない。話を高く、平らに収める。
「誰かが誰かを脅すために言っているのではありません。あなたに、海の生き方を、より明らかにして差し上げているだけです。」
隆景は茶盏を取り、ふっと吹く。言葉を胸で一度、通し直すように。
「元春の所では鉄のように語り、私の所では水のように語る。」隆景が言う。
柳澈涵は答える。
「鉄は、折れぬために折れない時を知る。水は、散らぬために散らない時を知る。」
隆景は笑った。眼に潮騒がある。
「東山の柳先生。あなたは風を借りに来たのではないな。」
柳澈涵は礼。
「風を問うために来ました。問うてから——帆をどれほど畳むかが分かる。」
廊を出ると、冬風が掠める。薬香と潮気が風の中で絡む。遠くで潮の音が低い鼓のように鳴る。鼓は戦のためではない。風のためだ。
柳澈涵は袖の香嚢に触れた。針目がわずかに指に当たる。その小さな痛みが、海から京へ彼を引き戻す。京では紙の雪がまだ降る。石山の香火は冷えきらず、比叡の霧はなお勢を噛む。
天下は、ますます冷えていく。
隆景の部屋は書斎のようだった。案の上には潮図と航路図が広げられ、墨の香が刀の気を押さえる。窓辺に古い海図が掛かる。角は毛羽立つのに、押さえは極めて平らだ。日々、繰り返しめくられてきた証。隆景の坐は元春ほど硬くない。だがいっそう稳い。水面が波立たぬような稳さ。浅く見れば温和に見える。深く見れば底に暗流があると分かる。
隆景は微笑む。
「先生、旗も持たず。商い人のようだ。」
柳澈涵が答える。
「商路は潮騒をいちばん聞きます。」
隆景は茶を取り、軽く頷く。
「来たのは、毛利を動かすなと言うためか。」
柳澈涵は首を振る。
「動かぬためではない。動と不動の界を明らかにするためです。」
隆景の眼に微かな光。
「界?」
柳澈涵は案へ寄り、潮図の一筋の折れ目に指を置いた。最も目立つ主線ではない。旁線だ。隆景の目がかすかに止まる。心の中で言っている——この指は無造作ではない。
柳澈涵が言う。
「火薬と人が一線だけを通るなら、その線は天下に盯まれます。盯まれた線は活路ではない。死路です。」
隆景は笑みを崩さない。
「では先生、路はどう走らせる。」
柳澈涵はすぐ「どう走らせる」と答えない。まず隆景が最も気にする「可逆」を置く。
「路は開けばよいのではない。収められる路でなければならぬ。送れること。断てること。盟友に見せられること。必要なとき、盟友にさえ見失わせられること。」
隆景は茶盏を置いた。声は温いのに、刃が増す。
「先生は網を編む者の言い方をする。」
柳澈涵が答える。
「海そのものが網です。」
隆景は潮図の、いちばん目立つ航路を指す。
「いま石山へ行く火と人、多くはこの線を通ろう。」
柳澈涵は頷く。
「だから危うい。」
隆景は目を上げる。
「分けろと言うのか。」
柳澈涵は「言う」とは言わない。隆景を引かぬために。「そうすればどうなる」を置く。水は自ら流れる。手に引かれるのを嫌う。
「三つに分けてください。」柳澈涵が言う。「三つの線に。一本は明。一本は半明。一本は暗。」
隆景の眼の光がさらに増す。だが急いで肯じない。
「明の線は天下へ。」柳澈涵が言う。「毛利は礼を尽くす、と天下に見せる。半明は盟友へ。暗は毛利だけへ。」
隆景が静かに問う。
「暗はどこに置く。」
柳澈涵の答えは「商」でも「武」でもない。真に海を知る者の答えだ。
「船に置かない。旗にも置かない。港に置きます。堺、博多、瀬戸内の小港の“人”に置く。船が固定しなければ、路も固定しない。路が固定しなければ、路を盯む者は名を盯むしかない。」
隆景は彼を見て、ふっと笑った。真の笑み。
「先生は“不固定”で固定せよと言うのだな。」
柳澈涵もわずかに礼をする。
「海はもとより不固定です。固定しようとすれば、折れます。」
隆景の笑みが収まる。そこで真の刃が出る。刃は今ここではない。石山でも将軍でもない。未来——天下に「唯一の刃」が生まれるかもしれぬ、その権力構造にある。
「もし信長が天下の唯一の刃になったとき。」隆景が言う。「東山の先生は保証できるか。その刃が、いずれ海を割かぬと。」
室内が一息、静まる。紙の角まで止まったかと思う静けさ。柳澈涵は誓いを出さない。誓いは戦国でもっとも安い。「必ずそうはならぬ」という空言で隆景を喜ばせもしない。それは隆景への侮りだ。彼は答えを、隆景の得意へ置く。網と退路へ。
「保証はしません。」柳澈涵が言った。隆景の眼がわずかに沈む。怒りではない。深さだ。柳澈涵は続ける。
「天下で、刀が振り向かぬと保証できる者はいません。私が保証できるのは一つだけ。海が、決して自分を刀柄に縛りつけぬようにすることです。」
隆景が低く復す。
「刀柄に縛らぬ。」
柳澈涵は頷く。
「刃が一つしか許されぬ天下になれば、海上の諸家は、どこに附くかを選ぶしかない。あなた方は織田の刃を怖れているのではない。天下が、ただ一把の刃だけになることを怖れている。」
隆景は長く沈黙し、やがて低く言った。
「先生、狠いが、准い。」
柳澈涵は「准い」に乗らない。話を高く、平らに収める。
「誰かが誰かを脅すために言っているのではありません。あなたに、海の生き方を、より明らかにして差し上げているだけです。」
隆景は茶盏を取り、ふっと吹く。言葉を胸で一度、通し直すように。
「元春の所では鉄のように語り、私の所では水のように語る。」隆景が言う。
柳澈涵は答える。
「鉄は、折れぬために折れない時を知る。水は、散らぬために散らない時を知る。」
隆景は笑った。眼に潮騒がある。
「東山の柳先生。あなたは風を借りに来たのではないな。」
柳澈涵は礼。
「風を問うために来ました。問うてから——帆をどれほど畳むかが分かる。」
廊を出ると、冬風が掠める。薬香と潮気が風の中で絡む。遠くで潮の音が低い鼓のように鳴る。鼓は戦のためではない。風のためだ。
柳澈涵は袖の香嚢に触れた。針目がわずかに指に当たる。その小さな痛みが、海から京へ彼を引き戻す。京では紙の雪がまだ降る。石山の香火は冷えきらず、比叡の霧はなお勢を噛む。
天下は、ますます冷えていく。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる