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第二百六十話 風雅は閂・日月星風
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元亀二年(西暦一五七一年)六月、京都・東山。
梅雨が洛中をさらに薄く磨いた。屋根の棟に湿った紙を一枚かぶせたように薄い。雨糸は細く落ち、細いがゆえに人を驚かせない。だが細ければ細いほど、梁の間へ、戸の隙へ、袖の裏へと潜り込み、本来あるべき「音」をことごとく浸して「無音」にしてしまう――京都の怖さは、喧しさにあるのではない。万事を「まるで何も起きていない」かのように浸しきる、その性質にある。
澄斎の廊下では灯影が短く押し潰され、敷居と畳縁だけを照らすのがやっとだ。敷居は清い。清すぎて人情に近づかないほどに。雨の日だというのに泥点一つ見えない。まるでこの屋敷だけが、湿りきった京都全体と、目に見えぬ一枚の境を隔てているかのようだ。
障子の外で、まずは極めて軽い取次ぎの声がした。ついで足音が止まる。
明智光秀が入ってくる。
彼は常に衣冠端正だが、今日はさらに端正だった。雨気が袖口に貼りついているのに、水滴として落ちない。無数の「お見舞い」「探り」の間を歩いてきた者の湿りだ。歩き慣れるほど、湿りさえ礼を守るようになる。光秀は柳澈涵に礼をする。礼は繁くない――旧交で礼が繁ければ、かえって壁が立つ。
「柳殿。」光秀の声は極低い。紙に聞かれることを恐れるような低さである。
「長島の事は伊勢にありながら、余波はすでに京で巡っております。寺社は札を寄せ、公卿は見舞いを寄せる。字は皆、風雅。意は皆、刃。誰かが先に一句『名分』を書きつけたい。書き上がれば、多くの者をその一句の中へ引きずり込めます。」
柳澈涵は縁側に坐していた。机上には灯一つ、硯一つ。硯の縁の水痕を指先でそっと撫で開く。動きは遅い。光秀の言葉にある急を、まず静かに置き直すように。白髪は火に映え、淡いが散らない。その淡さの中に、揺るがぬ重みがある。
「彼らが欲しいのは風ではない。」柳澈涵が言う。
「あなたと私が先に動くことだ。」
光秀が目を上げる。
「動かねば、任せて書かせるのですか。」
柳澈涵は「動くか否か」とは答えず、言葉をさらに深い所へ折った。
「書くにも――禁裏へ紙を差し入れる度胸が要る。」
光秀の眉間が僅かに締まる。京都の筆が最も毒であるのはそこだ。一度でも禁裏の光に触れれば、それは巷の風聞ではなく「天下の公理」になる。だが禁裏は兵戈を忌み、俗気を忌む。武家が強引に触れれば、相手に最も体裁の良い鞘を与えてしまう。
柳澈涵は目を上げた。視線は極めて静かだ。
「風雅で閂を打つ。」
光秀は微かに息を止める。風雅は京都では衣である。だが柳澈涵の口から出ると、それは門の閂になる。
問い返そうとした時、外にまた足音がした。光秀よりもさらに軽い。しかもより「京」の規矩を帯びている。急がず、乱れず、歩の一つ一つが礼法に伺いを立ててから落ちるような足。
山科言継が来た。
言継は衣色素雅、笑みは温い。その温さの底に、京人特有の試しが隠れる――世事を花と風の中に包んで問う手口である。座が定まる前にまず雨を嘆く。
「今年の梅雨は……歌一首書くにも紙が湿ってしまいそうで。宮中も近頃は修補が方々、歳用も方々で――」
柳澈涵は「歳用」の糸を受けない。微かに手を上げる。佐吉が素匣を運ぶ。匣はまだ開いていないのに、言継はその重さを知る――これは贈り物ではなく名目である。名目が立てば、多くの者が自ら門を閉める。
柳澈涵は匣を言継の手元へ、そっと押しやった。語気は温和だが、落点は硬い。
「言継卿。体面の良いことを、三つだけ語りましょう。」
言継の目に僅かな光が動く。
「三つ――?」
柳澈涵は指先で机上に虚ろに一点、落とす。灯を点すように。点すのは禁裏が点すべき灯である。
「禁裏御修理料。」
「御会料――御歌会でも、御連歌会でも。」
「御祈祷料。」
言継は喉をひとつ動かした。言いかけ、飲み込む。彼はこの三条が何を意味するかを骨まで知っている。修理は門構えを守る。御会は座次を定める。祈祷は天下に「天上へ逃がす口」を与える。三条はいずれも雅で、雅ゆえに綻びがない。だが雅が規矩になると、野心は袖の中に縛られる。
柳澈涵は続ける。声は淡いまま、聞き誤りを許さぬ淡さで。
「修理は、禁裏の階を今まで通り清く保つため。清ければ、下場に降りる必要がない。」
「御会は、諸家名門それぞれに位を与え、それぞれに位を争わせるため。争いが締まるほど、誰も足を一本、門の外へ踏み出して他人の俗に濡れようとしない――濡れれば、同列に柄を握られる。」
「祈祷は許す。ただし殿内の香煙の中でのみ許す。詔を借りるな、旨を挟むな。祈祷を借りて勢を示す者があれば、それは禁裏を局へ引きずり込むことだ。局へ入れば、汚れになる。」
言継の額に細い汗が滲む。これは宮中に「どちらへ立て」と言っているのではない。宮中が「立たずに済む」資格を、体面よく守らせているのだ。だが立たずに済むほど、宮中の名を借りようとする諸家は、借りる場所を失う。
柳澈涵は匣の蓋を、そっと閉じた。声は相手の言葉を先に収めるように落ちる。
「潤筆は届きました。ならば言継卿、規矩をさらに潔く書いてください。潔斎百日。御会の編纂、修理、祈祷に関わる諸家は、兵戈を帯びた使いと面会するな。来歴不明の札を納めるな. 穢れに染むれば、自ら名簿を退けよ。」
言継は長く沈黙し、やがて低く吐息のように言う。
「柳殿は、雅で閂を作られる。」
柳澈涵は微笑む。刃は見せない。だが背に冷えが走る微笑だ。
「閂が雅で書ければ、門はよく鎖せます。」
光秀は傍らで聞きながら、心の張り縄が一筋、緩むのを感じた。京都は戦場ではない。京都の勝敗は刃先ではなく、紙の裏にある。紙の裏を柳澈涵が先に押さえれば、前線が敗れようが勝とうが、京で「天命已に改まる」と書き立てられることはない。
柳澈涵は光秀に向き直る。語気は依然として重くない。
「あなたがするのは、京に見せることだけだ――禁裏の灯が点いていること。諸家が皆、その灯の下で雅事を争っていること。灯の下で争えば、暗事は争えぬ。」
光秀は身を伏せ、是と答える。その「埋」には追従はない。重荷を、托すに足る者へ渡す時の黙契だけがある。
雨はさらに細くなった。暗がりで朱印を磨く者がいるように、細く、細く。
数日後、御会のことは、より相応しい屋敷から起こった――細川藤孝邸である。
藤孝は将軍の人であり、京で最も「風雅の刀」を知る者でもある。将軍の影が背後にあるからこそ、彼は誰よりも分かっている。京都が乱れれば、義昭は乱声に押し流される。押し流される者はいずれ面を出す。面を出せば勢を失う。将軍が欲しいのは「使える清」であって、「制御を失った熱」ではない。そして柳澈涵が今しているのは、熱をすべて規矩に収め、将軍を簾の内に留めることだ――留めるほど、「上」に見える。
藤孝は言葉を穿って言う必要がない。門を開く時を誤らず、席次を礼にかなわせ、題を天心にかなわせればよい。
その夜も雨は止まず、しかし風がわずかに起きた。藤孝邸の灯火は明るいが眩しくない。廊に簾を掛け、内外の境は極めて確かだ。来る者は皆、名門。衣紋は素、足音は軽く、笑みも浅い。挨拶の一つ一つが、まるで紙から写したようである。多すぎず、少なすぎず、互いの底を過不足なく隠す。
柳澈涵が来る時も、誇らず、隠れぬ。白髪は灯の下で、墨の縁に落ちた雪のようだ。目立たぬのに、一目で記憶に残る。藤孝と対座すると、藤孝は一句だけを置く。旧交の挨拶であり、将軍方の分寸でもある一句。
「柳殿。京が近頃、清すぎますな。清すぎるのは……誰かがわざと守っておるようで。」
柳澈涵は彼を見る。語は淡い。
「わざと守っているからこそ、京都です。」
藤孝の笑みが一度引き、またそっと戻る。理解したのだ。この清は虚飾ではない。閂である。閂が下りれば、京都は横門から血で書き込まれずに済む。藤孝がこの会を促す理由もそこにある。将軍に簾内の影を保たせ、京都に紙面の潔を保たせる。そして柳澈涵の狙いは、二重の「潔」を同時に成立させることだった。
座のさらに奥には一重、屏風があった。屏風の向こうは灯がさらに暗い。暗いのは見せぬためだ。だが分かる者は分かる――暗がりに耳がある。将軍は姿を見せぬ。だが聞かずにはいられぬ。柳澈涵がどれほどの人物か、この風雅の閂がどれほどの人心を鎖せるか。
題は四字、藤孝が自ら定めた。
日・月・星・風。
四字はいずれも天上であり、形がない。形がないものこそ京都にふさわしい。誰も掴めず、誰も乱暴に掴めない。掴もうとした瞬間、まず手が露わになる。
連歌が始まる。
藤孝が発句。字は重くない。だが席の息を先に押さえる。
日あかし
雨の都を
照らし分け
光が雨の中で明暗を分け、明暗が界を分ける。柳澈涵が脇句で受ける。光を争わず、界をさらに深く立てる。
月さして
簾のうらに
名を隠す
落ちた瞬間、何人もの指先が微かに締まる。簾のうら――禁裏を思う者がいる。将軍を思う者がいる。名分で人を縛ろうとする手を思う者もいる。だが雅が雅すぎて、誰も俗な意味を露わにして返せない。
藤孝が三句目で転じ、「星」を引く. 星が群れれば眼も群れる. 眼が群れれば京は安まらぬ。
星群れぬ
筆の先ほど
騒がしき
柳澈涵が四句目で収める。諭しではなく、規矩で収める。
静まりて
書けば白し
夜の紙
白は紙の白であり、禁裏の白でもある。白く書けば、黒は書けぬ。藤孝が五句目で「風」を差し込む。風は話を運び、風は禍を起こす。
風立てば
門の隙より
噂入る
柳澈涵は風を塞がず、風で閂を定める。閂が礼になれば、誰もそれを「鎖」と呼べぬ。
戸を閉めて
歌の座こそ
道となれ
藤孝が七句目でさらに迫り、「祈祷」を点す. 祈りは許される. だが名を挟むな。
祈りのみ
許されてなお
声を慎む
柳澈涵の八句が落ちた時、座の空気は、見えぬ手にそっと押さえられたように静まった。威はない。だが反駁できぬ定まりがある。
御前には
清き息だけ
通わせよ
屏風の奥で、極軽い息が一つ止まったようにも思えた。将軍は暗がりで「御前」の二字を聞き、この句が自分に向けた刃ではなく、自分のための盾だと知る。御前を汚れなき処として立てれば、誰も御前の名を借りて表明を迫れぬ。迫れぬなら、諸家は自家へ退き、門を固め、御会の名を争うしかない。
連歌がここまで来ると、風雅はすでに閂になっていた。閂が下りた以上、席の諸家は皆、理解する。今夜以後、もし朝倉や浅井、あるいはそれに連なる密使を受けるなら、それは「潔斎」を自ら破ることになる。破った者は武家の刀を待たずして、同列の連署で排される――京都が最も得手とするのは斬ることではない。「除名」だ。
酒は多くない。言葉も多くない。散じる時、皆いっそう礼数か整い、足取りが軽い。まるで自家の門前に掲げた「清」の札を踏み損なうのを恐れるかのように。廊で澄んだ灯を振り返る者がいた。あの灯は人を照らすのではない。門を照らしているのだ。門が固ければ、禍は入れぬ。
雨はなお落ちる. 洛中は相変わらず無風である。
だが無風の下で、紙鎮はすでに成った。公卿たちは最高の名を得たと思い込む。知らぬ間に、その名が彼らを一寸一寸、深い屋内へ鎖していく。寺社は禁裏がまだ遠いと思い込む。だが禁裏の潔はすでに規矩になった。規矩になれば、刀より改めがたい。
屏風の奥の影が、音もなく退く. 最初からそこにいなかったかのように. 将軍は姿を見せぬまま、今夜の結論だけを持ち帰った. 京都はなお隠せる. 名分はなお使える. そして――京都を「雅に鎖せる」者とは、信長の傍の刀ではない. 東山の短い灯の下に坐す白髪である。
軒先を風が掠め、香の気を少し攫っていった。
日月星風はなお在り、京都の門は、ひそやかに閂が下りた。
梅雨が洛中をさらに薄く磨いた。屋根の棟に湿った紙を一枚かぶせたように薄い。雨糸は細く落ち、細いがゆえに人を驚かせない。だが細ければ細いほど、梁の間へ、戸の隙へ、袖の裏へと潜り込み、本来あるべき「音」をことごとく浸して「無音」にしてしまう――京都の怖さは、喧しさにあるのではない。万事を「まるで何も起きていない」かのように浸しきる、その性質にある。
澄斎の廊下では灯影が短く押し潰され、敷居と畳縁だけを照らすのがやっとだ。敷居は清い。清すぎて人情に近づかないほどに。雨の日だというのに泥点一つ見えない。まるでこの屋敷だけが、湿りきった京都全体と、目に見えぬ一枚の境を隔てているかのようだ。
障子の外で、まずは極めて軽い取次ぎの声がした。ついで足音が止まる。
明智光秀が入ってくる。
彼は常に衣冠端正だが、今日はさらに端正だった。雨気が袖口に貼りついているのに、水滴として落ちない。無数の「お見舞い」「探り」の間を歩いてきた者の湿りだ。歩き慣れるほど、湿りさえ礼を守るようになる。光秀は柳澈涵に礼をする。礼は繁くない――旧交で礼が繁ければ、かえって壁が立つ。
「柳殿。」光秀の声は極低い。紙に聞かれることを恐れるような低さである。
「長島の事は伊勢にありながら、余波はすでに京で巡っております。寺社は札を寄せ、公卿は見舞いを寄せる。字は皆、風雅。意は皆、刃。誰かが先に一句『名分』を書きつけたい。書き上がれば、多くの者をその一句の中へ引きずり込めます。」
柳澈涵は縁側に坐していた。机上には灯一つ、硯一つ。硯の縁の水痕を指先でそっと撫で開く。動きは遅い。光秀の言葉にある急を、まず静かに置き直すように。白髪は火に映え、淡いが散らない。その淡さの中に、揺るがぬ重みがある。
「彼らが欲しいのは風ではない。」柳澈涵が言う。
「あなたと私が先に動くことだ。」
光秀が目を上げる。
「動かねば、任せて書かせるのですか。」
柳澈涵は「動くか否か」とは答えず、言葉をさらに深い所へ折った。
「書くにも――禁裏へ紙を差し入れる度胸が要る。」
光秀の眉間が僅かに締まる。京都の筆が最も毒であるのはそこだ。一度でも禁裏の光に触れれば、それは巷の風聞ではなく「天下の公理」になる。だが禁裏は兵戈を忌み、俗気を忌む。武家が強引に触れれば、相手に最も体裁の良い鞘を与えてしまう。
柳澈涵は目を上げた。視線は極めて静かだ。
「風雅で閂を打つ。」
光秀は微かに息を止める。風雅は京都では衣である。だが柳澈涵の口から出ると、それは門の閂になる。
問い返そうとした時、外にまた足音がした。光秀よりもさらに軽い。しかもより「京」の規矩を帯びている。急がず、乱れず、歩の一つ一つが礼法に伺いを立ててから落ちるような足。
山科言継が来た。
言継は衣色素雅、笑みは温い。その温さの底に、京人特有の試しが隠れる――世事を花と風の中に包んで問う手口である。座が定まる前にまず雨を嘆く。
「今年の梅雨は……歌一首書くにも紙が湿ってしまいそうで。宮中も近頃は修補が方々、歳用も方々で――」
柳澈涵は「歳用」の糸を受けない。微かに手を上げる。佐吉が素匣を運ぶ。匣はまだ開いていないのに、言継はその重さを知る――これは贈り物ではなく名目である。名目が立てば、多くの者が自ら門を閉める。
柳澈涵は匣を言継の手元へ、そっと押しやった。語気は温和だが、落点は硬い。
「言継卿。体面の良いことを、三つだけ語りましょう。」
言継の目に僅かな光が動く。
「三つ――?」
柳澈涵は指先で机上に虚ろに一点、落とす。灯を点すように。点すのは禁裏が点すべき灯である。
「禁裏御修理料。」
「御会料――御歌会でも、御連歌会でも。」
「御祈祷料。」
言継は喉をひとつ動かした。言いかけ、飲み込む。彼はこの三条が何を意味するかを骨まで知っている。修理は門構えを守る。御会は座次を定める。祈祷は天下に「天上へ逃がす口」を与える。三条はいずれも雅で、雅ゆえに綻びがない。だが雅が規矩になると、野心は袖の中に縛られる。
柳澈涵は続ける。声は淡いまま、聞き誤りを許さぬ淡さで。
「修理は、禁裏の階を今まで通り清く保つため。清ければ、下場に降りる必要がない。」
「御会は、諸家名門それぞれに位を与え、それぞれに位を争わせるため。争いが締まるほど、誰も足を一本、門の外へ踏み出して他人の俗に濡れようとしない――濡れれば、同列に柄を握られる。」
「祈祷は許す。ただし殿内の香煙の中でのみ許す。詔を借りるな、旨を挟むな。祈祷を借りて勢を示す者があれば、それは禁裏を局へ引きずり込むことだ。局へ入れば、汚れになる。」
言継の額に細い汗が滲む。これは宮中に「どちらへ立て」と言っているのではない。宮中が「立たずに済む」資格を、体面よく守らせているのだ。だが立たずに済むほど、宮中の名を借りようとする諸家は、借りる場所を失う。
柳澈涵は匣の蓋を、そっと閉じた。声は相手の言葉を先に収めるように落ちる。
「潤筆は届きました。ならば言継卿、規矩をさらに潔く書いてください。潔斎百日。御会の編纂、修理、祈祷に関わる諸家は、兵戈を帯びた使いと面会するな。来歴不明の札を納めるな. 穢れに染むれば、自ら名簿を退けよ。」
言継は長く沈黙し、やがて低く吐息のように言う。
「柳殿は、雅で閂を作られる。」
柳澈涵は微笑む。刃は見せない。だが背に冷えが走る微笑だ。
「閂が雅で書ければ、門はよく鎖せます。」
光秀は傍らで聞きながら、心の張り縄が一筋、緩むのを感じた。京都は戦場ではない。京都の勝敗は刃先ではなく、紙の裏にある。紙の裏を柳澈涵が先に押さえれば、前線が敗れようが勝とうが、京で「天命已に改まる」と書き立てられることはない。
柳澈涵は光秀に向き直る。語気は依然として重くない。
「あなたがするのは、京に見せることだけだ――禁裏の灯が点いていること。諸家が皆、その灯の下で雅事を争っていること。灯の下で争えば、暗事は争えぬ。」
光秀は身を伏せ、是と答える。その「埋」には追従はない。重荷を、托すに足る者へ渡す時の黙契だけがある。
雨はさらに細くなった。暗がりで朱印を磨く者がいるように、細く、細く。
数日後、御会のことは、より相応しい屋敷から起こった――細川藤孝邸である。
藤孝は将軍の人であり、京で最も「風雅の刀」を知る者でもある。将軍の影が背後にあるからこそ、彼は誰よりも分かっている。京都が乱れれば、義昭は乱声に押し流される。押し流される者はいずれ面を出す。面を出せば勢を失う。将軍が欲しいのは「使える清」であって、「制御を失った熱」ではない。そして柳澈涵が今しているのは、熱をすべて規矩に収め、将軍を簾の内に留めることだ――留めるほど、「上」に見える。
藤孝は言葉を穿って言う必要がない。門を開く時を誤らず、席次を礼にかなわせ、題を天心にかなわせればよい。
その夜も雨は止まず、しかし風がわずかに起きた。藤孝邸の灯火は明るいが眩しくない。廊に簾を掛け、内外の境は極めて確かだ。来る者は皆、名門。衣紋は素、足音は軽く、笑みも浅い。挨拶の一つ一つが、まるで紙から写したようである。多すぎず、少なすぎず、互いの底を過不足なく隠す。
柳澈涵が来る時も、誇らず、隠れぬ。白髪は灯の下で、墨の縁に落ちた雪のようだ。目立たぬのに、一目で記憶に残る。藤孝と対座すると、藤孝は一句だけを置く。旧交の挨拶であり、将軍方の分寸でもある一句。
「柳殿。京が近頃、清すぎますな。清すぎるのは……誰かがわざと守っておるようで。」
柳澈涵は彼を見る。語は淡い。
「わざと守っているからこそ、京都です。」
藤孝の笑みが一度引き、またそっと戻る。理解したのだ。この清は虚飾ではない。閂である。閂が下りれば、京都は横門から血で書き込まれずに済む。藤孝がこの会を促す理由もそこにある。将軍に簾内の影を保たせ、京都に紙面の潔を保たせる。そして柳澈涵の狙いは、二重の「潔」を同時に成立させることだった。
座のさらに奥には一重、屏風があった。屏風の向こうは灯がさらに暗い。暗いのは見せぬためだ。だが分かる者は分かる――暗がりに耳がある。将軍は姿を見せぬ。だが聞かずにはいられぬ。柳澈涵がどれほどの人物か、この風雅の閂がどれほどの人心を鎖せるか。
題は四字、藤孝が自ら定めた。
日・月・星・風。
四字はいずれも天上であり、形がない。形がないものこそ京都にふさわしい。誰も掴めず、誰も乱暴に掴めない。掴もうとした瞬間、まず手が露わになる。
連歌が始まる。
藤孝が発句。字は重くない。だが席の息を先に押さえる。
日あかし
雨の都を
照らし分け
光が雨の中で明暗を分け、明暗が界を分ける。柳澈涵が脇句で受ける。光を争わず、界をさらに深く立てる。
月さして
簾のうらに
名を隠す
落ちた瞬間、何人もの指先が微かに締まる。簾のうら――禁裏を思う者がいる。将軍を思う者がいる。名分で人を縛ろうとする手を思う者もいる。だが雅が雅すぎて、誰も俗な意味を露わにして返せない。
藤孝が三句目で転じ、「星」を引く. 星が群れれば眼も群れる. 眼が群れれば京は安まらぬ。
星群れぬ
筆の先ほど
騒がしき
柳澈涵が四句目で収める。諭しではなく、規矩で収める。
静まりて
書けば白し
夜の紙
白は紙の白であり、禁裏の白でもある。白く書けば、黒は書けぬ。藤孝が五句目で「風」を差し込む。風は話を運び、風は禍を起こす。
風立てば
門の隙より
噂入る
柳澈涵は風を塞がず、風で閂を定める。閂が礼になれば、誰もそれを「鎖」と呼べぬ。
戸を閉めて
歌の座こそ
道となれ
藤孝が七句目でさらに迫り、「祈祷」を点す. 祈りは許される. だが名を挟むな。
祈りのみ
許されてなお
声を慎む
柳澈涵の八句が落ちた時、座の空気は、見えぬ手にそっと押さえられたように静まった。威はない。だが反駁できぬ定まりがある。
御前には
清き息だけ
通わせよ
屏風の奥で、極軽い息が一つ止まったようにも思えた。将軍は暗がりで「御前」の二字を聞き、この句が自分に向けた刃ではなく、自分のための盾だと知る。御前を汚れなき処として立てれば、誰も御前の名を借りて表明を迫れぬ。迫れぬなら、諸家は自家へ退き、門を固め、御会の名を争うしかない。
連歌がここまで来ると、風雅はすでに閂になっていた。閂が下りた以上、席の諸家は皆、理解する。今夜以後、もし朝倉や浅井、あるいはそれに連なる密使を受けるなら、それは「潔斎」を自ら破ることになる。破った者は武家の刀を待たずして、同列の連署で排される――京都が最も得手とするのは斬ることではない。「除名」だ。
酒は多くない。言葉も多くない。散じる時、皆いっそう礼数か整い、足取りが軽い。まるで自家の門前に掲げた「清」の札を踏み損なうのを恐れるかのように。廊で澄んだ灯を振り返る者がいた。あの灯は人を照らすのではない。門を照らしているのだ。門が固ければ、禍は入れぬ。
雨はなお落ちる. 洛中は相変わらず無風である。
だが無風の下で、紙鎮はすでに成った。公卿たちは最高の名を得たと思い込む。知らぬ間に、その名が彼らを一寸一寸、深い屋内へ鎖していく。寺社は禁裏がまだ遠いと思い込む。だが禁裏の潔はすでに規矩になった。規矩になれば、刀より改めがたい。
屏風の奥の影が、音もなく退く. 最初からそこにいなかったかのように. 将軍は姿を見せぬまま、今夜の結論だけを持ち帰った. 京都はなお隠せる. 名分はなお使える. そして――京都を「雅に鎖せる」者とは、信長の傍の刀ではない. 東山の短い灯の下に坐す白髪である。
軒先を風が掠め、香の気を少し攫っていった。
日月星風はなお在り、京都の門は、ひそやかに閂が下りた。
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かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
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