戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百六十六話 北嶺自絶・火前定分

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元亀二年(西暦一五七一年)八月末、近江・坂本/横山/京都・東山。

北嶺の手は、伸びるほどに軽い。

鐘の音を驚かせず、香煙を乱さず――それでも人は言える。「清修護国」と。

だが近江の事は、鐘を問わぬ。路を問う。路の上に「軽いところ」が出れば、袖口の内で何かが動いていると知れる。

坂本口には、この頃「ちょうどよさ」が増えた。

ちょうど、いちばん明るい問いかけの場を外し、ちょうど、岸陰に舟を寄せ、ちょうど、関口ではさらに短い問答に当たり、ちょうど、僧形の者が人の言葉を代わりに渡し、ちょうど、募縁の名で本来替わるべきでない手が替わる。

「ちょうど」が一度なら巧みとも言える。だが毎度なら巧みではない。次第である。

次第が成れば、意になる。

木下藤吉郎が、まずその意を見抜いた。

重い字は書かぬ。「通敵」とも書かぬ。ただ三つを報じた。

――渡口の問答に異あり。

――僧形の往来に常あり。

――夜泊の停靠に次第あり。

三つとも軽い。だが三つとも指せる。指せるなら、「清名」の衣は隠しきれぬ。

横山本陣にて、信長は目を通し、ただ一つ問うた。

「再び見られるか。」

藤吉郎は極めて稳く答える。

「見られます。」

「しかも、より馴れております。」

「より馴れた」二字が落ちた時、帳中の諸将は悟った。

偶然ではない。誰かが練っている。練が馴れるほど、見られることを恐れぬ。見られるのを恐れぬのは、清名を幌にしているからだ。

信長は怒らぬ。

怒りは先に火を顔へ灯し、洛中へ辞を差し出す。

まず礼をもって告げる。

使者は礼に叶う者を選ぶ。衣冠は整い、言辞は雅正。寺社の礼を弁える者を伴わせた。札には威も罰も書かぬ。分寸のみを記す。

山門は清修を称する。近江の兵火はいま張り詰める。寺社は使者を匿ってはならず、路を貸して物を渡してはならず、募縁の名で往来を覆ってはならぬ。

末尾には退路を残す。分を守れば、清名は自ら保たれる。

札は山門へ届き、山門は受け取った。

受け取り方はあまりに稳い。尋常の問安を受けるがごとく。返書も来る。字も雅で、「護国」「清浄」を称し、「自ずから慎むべし」と書く。句句が礼に叶い、礼に叶い過ぎて、一字も摘まれぬ。

だが路の「ちょうどよさ」は止まらぬ。

渡口はなお簡問、夜泊はなお明るみを避け、僧形の者はなお手を替える。

さらにある夜、道番が岸陰で二舟の寄り合うを見た。寄り合いは極めて短い。袖口が袖口に触れるほどの時しかない。触れたら二方へ散る。

伝えるものが無いなら、何ゆえ避ける。忌むものが無いなら、何ゆえ短い。

藤吉郎は再び報じる。

信长は聞き終えても怒らず、諫めをより明らかにした。

今度は分寸だけではない。見聞を条に立てる。何夜、何口、何舟、何の人形。

なお山門を罵らず、理を争わず、ただ「指せるもの」を目前に置く。

清名が真に清いなら、何ゆえこの次第を容れるのか。

札は再び山門へ。

山門はなお受け取る。なお雅辞を返す。なお言う。

「たまたま香客あり」「たまたま募縁あり」「たまたま護法祈願あり」。

雅辞は香煙のように美しく上る。だが香煙では路は隠せぬ。

路はなお止まらぬ。

三度告げた後、信長は明智光秀を遣わした。礼の許すところに留める――堂口の奥へ入らず、門前の階に立つ。

光秀は兵気を携えず、京の規矩を携える。一歩一礼。言辞に刺はない。だが「清名」で引き延ばす余地を与えぬ。

光秀は一つだけ問う。

「山門は清浄と称す。ならば坂本口の往来を自禁できるか。」

僧衆はなお雅に答える。

「山門は広く四方を護る。来たる者は皆客。客が祈りを求むれば、拒むべからず。」

光秀はさらに問う。

「客が祈るは妨げぬ。祈りを借りて他事を行うを、どうして容れる。」

僧衆は微笑む。笑みも雅である。

「他事とは何か。衆生の行止に過ぎぬ。」

これが山門の路数である。

「浅井を助ける」とは言わぬ。ただ「衆生を拒まぬ」と言う。

「路を貸す」とは言わぬ。ただ「路はもとより此処に在る」と言う。

万事を「無罪」と書き、万事を「清浄」に揉み込む。

光秀は横山へ戻り復命した。

信長は聞き、ようやく笑った。笑いは短いが、ただ冷いだけではない。厭いがある。――無窮の雅辞への厭い。

雅辞が幌になれば、幌は刀より汚れる。

信長は直ちに命じぬ。

往復の書状と、録した「指せるもの」をまとめ、京都へ送った。柳澈涵に断じさせるためである。

京都・東山澄斎。

洛中はなお静かだ。静かさは、磨き上げた鏡のように明るく、万物を清く映す。だが誰が先に一滴の墨を落とすかは映さぬ。

柳澈涵の机に長巻はない。短札が数枚あるのみ。

一枚は横山の録した「処・時・人形」。

一枚は度重なる告げと山門の雅返。

一枚は光秀が門前で記した問答。

柳澈涵は読むのが極めて遅い。遅さは迷いではない。軽いところを重いところへ読みに換えるためだ。

山門は誰を助けると叫ばずとも、路を少し順にするだけでよい。そうすれば浅井と朝倉の往来は一枚分、覆いを増す。覆いが増えれば近江の対峙は長引く。対峙が長引けば洛中の辞章は厚くなる。

読み終え、信長へ筆を取った。

札は長くない。だが北嶺の本質を、怒詞を要さぬ冷で断つ。

――「北嶺の害は、口にて誦経するに在らず。袖にて路を通ずるに在り。」

――「清名を衣とす。衣が破れねば、天下は兵を見て罪を見ぬ。兵を見れば疑は生じやすい。」

――「横山の楔が小谷を按じ得るは、路が制せられ、声が制せられるゆえ。山門が清名を借りて路を回し、声を借りれば、楔は在っても力は先に減ずる。」

――「さらに深きは、寺社が清名にて越分を行い、なお事なければ諸方これに效う。端が開けば、天下の路も口も幌となり、武家の刀は挙ぐる先より污れる。」

――「これは仏事に非ず、国事なり。分寸立たずば、後日の動刀は皆清からず。」

末尾に、火を急がせず、伐を記さず、ただ一語だけを置く。

――「先ず界を立てよ。」

――「告げて自ら正せば清名は存す。正さねば自ら清を棄つ。」

札が届く。

横山本陣、信長が開いた時、帳中に声はない。

勝家、長秀、信盛、藤吉郎が居る。

「武家の刀は挙ぐる先より污れる」の句に至ると、信長の指腹が紙を軽く押した。

その押しは、一口の気を按じる押しだ。散らさぬ。散れば躁となる。躁が露わになれば、辞を与える。

信長は目を上げ、諸将を見る。

「此の事」信長が言う。声は平だ。「一時の忿のために非ず。」

柳澈涵の札の骨を、さらに硬い句へ収め直す。

「山門が清名を借りて越分を行えば、近江の勢は必ず遅れる。」

「近江の勢が遅れれば、浅井は息を得、朝倉は胆を得る。」

「浅井・朝倉が胆を得れば、諸寺みな敢えて效う。」

「諸寺みな敢えて效えば、武家の刀は、清く在るところ無し。」

「清く在るところ無し」と落ちた瞬間、諸将の背が強ばる。武家が最も忌むのは、刀の不清である。不清は勝ではなく、禍となる。

信長は改めて令書を出した。

今度は誤魔化しの隙がない。文はなお礼に叶う。だが礼の内に、明界を立てる。

――山門は清修を称するなら、坂本口と渡口の「非常の往来」を自禁せよ。

――僧形の転手、夜泊の袖替え、関口の簡問、これらは即日止めよ。

――告げてなお改めぬなら、越分により自ら清名を棄つと見做す。

信長はこの「最後の札」を光秀へ渡す。

「礼をもって届けよ。」

「明をもって届けよ。」

光秀は承る。

書状が届いた。

坂本口の夜泊はなお在る。関口の簡問はなお在る。僧形の袖替えはなお在る。

さらに厭うべきは――止まらぬばかりか、いよいよ馴れていることだ。馴れとは、山門がすでに腹を決めた証である。

武家は清名と争えぬ。京もまた、武家のために先に口を開かぬ。

これが執迷。

執迷とは知らぬことではない。自恃である。清名を甲とし、清名を凭り代とする自恃。

横山本陣にて、信長は報を受け、淡々と言った。

「界は明らかになった。」

「礼は尽きた。」

一息置き、声はなお平だが、天下の分寸を地へ落ろす。

「自ら絶つ。」

勝家の眼底に火が立つ。だが先に動けぬ。

長秀は目を垂れ、「此の夜は定まった」と胸へ書き込む。

信盛は無言のまま。しかし無言の中には「ようやく久坐を止め得る」稳さがある。

藤吉郎は何も言わぬ。ただ準備を、黙々と差し出す。路を断つ、声を断つ――その用意。火薬、乾草、松明、導火の具、すべて次第に従い整う。

信長は地図の上で、北嶺の一点へ手を置いた。置き方が稳い。

点は小さい。だが天下の口を押さえるほどの重さがある。

彼は「殺す」とも「討つ」とも言わぬ。言うのは「定分」だ。

「期、至れり。」

「触れを回せ。」

「整軍。」

「備火。」

四句は四本の釘となって落ちる。一本ごとに深い。

これは暴怒ではない。裁断である。

一時の気ではない。久しく宙に吊られていた「分」を地へ下ろすことだ。

帳外の風はなお悶り、夜はなお熱い。

だがこの瞬間から、近江の空気はふと質を変えた。

悶雷はもはや雲中で転がってはいない。すでにどこかへ落ちて定まっている。火の粉が一つ届けば、天下が「聞かなかった」ふりをできぬ明白が焼け出る。
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