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第一話・祇園花街・化粧を落とせない舞妓(三)
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ほどなくして、座敷には、もう一組の客が通された。
花見小路という場所は、どこかに一つでも灯りが残っている限り、新しい客がふらりと現れる可能性を秘めている。西木屋にやってきたのは、出張で京都を訪れた数人の商社マン。急に思い立って、夜の席を取ったらしい。綾女は自ら玄関まで出迎え、軽い冗談を交えて彼らを座敷に通すと、すぐに場の空気を温めた。
小春は、少し控えめな色合いの着物に着替えて現れた。
さっきよりも華美さを抑えた、古風な好みを思わせる装いだ。砥粉色の地に、細かな白い小花。帯の線はきっちりと抑えられ、品の良い落ち着きを添えている。
舞妓の化粧は、完璧そのものだった。足取りも、笑みも、袖の揺れ方も、座り姿も――祇園で「正しい」と教えられている線の上を、一寸のずれもなくなぞっている。
注ぐ酒の角度。
話題の振り方。
季節の挨拶から、景気の話、祭りの思い出まで。
客が喜びそうな言葉を、間違えずに、過不足なく差し出し続ける。
「最近出てきたんですか?」
客のひとりが感心したように言う。
「とてもそうは見えへんなあ。三年も四年も、ここにおるみたいや」
「皆さんに育てていただいてるだけどす」
小春は、深く頭を下げる。「まだまだ未熟どすさかい、どうぞこれからも、ご指導ご鞭撻お願い申し上げます」
客たちは、どっと笑い、さらに上機嫌になった。
座敷の隅には、ひとつだけ別の卓が用意されていた。
そこに座る客は、スーツではなく、ごく普通のシャツとセーターにロングコート姿。年の頃は、他の客とそう変わらないように見えるが、座り方は一番きちんとしていて、食べる速度は一番遅い。ひと口ごとに味を確かめているような、妙な真面目さがあった。
劉立澄は、その卓で、何気ない顔をして酒を飲んでいた。
彼の目には、小春のまわりに、別のものが見えている。
薄い白い影。
肩口から外側へとふわりと広がり、小春の身体をすっぽりと包み込むような輪郭。本人より、ひとまわり大きな「もう一人の舞妓」の姿。顔のディテールまでははっきりしない。だが、笑みの弧だけは、現実の小春よりも、ほんの少し大きく、丸く描かれていた。
誰かが用意した「教科書どおりの答え」を口にするたび、その白い影は、わずかに光を増す。
小春の目がふっと空ろになる瞬間には、逆に、その輪郭が、いっそうくっきりしていく。
劉立澄は杯を持ったまま、何も言わずに、その様子を眺めていた。
中座のタイミングで、綾女が酒壺を手に、座敷の中央へ出る。
「小春、このお客様にも一杯、お願いね」
呼びかけに、小春はすぐさま立ち上がり、客の前で浮かべていた華やかな笑みをすっと引いて、反射的に「少し落ち着いた顔」に切り替えた。
「失礼いたします」
角の卓に膝をつき、空の杯を盆に移しながら、柔らかく問いかける。
「お酒、お注ぎしてもよろしゅうおすか?」
「頼む」
劉立澄は杯を、彼女の手の届く位置に置いた。
「今日は、お疲れさん」
小春は、一瞬だけ目を見開いた。
客前で、こんな言葉をかけられることはあまりない。
褒め言葉や軽い口説き文句には慣れているが、「労い」だけが素で差し出されることには、慣れていなかった。
「とんでもおへん」
すぐに笑顔を整え、いつもの調子に戻る。
「西木屋に置いていただけるだけで、うちは十分幸せどす」
「……そうか」
劉立澄は、彼女をじっと見た。
「最近、『食べたかったのに、食べそびれてるもの』はあるか」
「え?」
予想もしていなかった問いに、小春は言葉を失う。
祇園の席で客が問うのは、たいてい別のことだ。年齢、出身、贔屓の有無、好きな酒――料理の話はしても、「あんた自身が何を欲しがってるか」などと問われることは、まずない。
「何でもええ」
劉立澄は、先を促す。
「どんなありふれたもんでも。……口から出てきたやつが、本物や」
「……抹茶パフェ」
気がつくと、小春の口から、その言葉が漏れていた。
言った途端、彼女は恥ずかしそうに笑う。
「なんや、子どもみたいやろ」
「普通でええ」
彼はうなずく。
「で、食べに行く時間はあるんか」
返事が、喉の奥でつかえた。
ない――と即答しかけて、笑みで上書きする。
朝から稽古。
日中はお使いや雑事。
夕方から夜にかけては席。
黒板に「季節限定」と書かれた喫茶店の前を、何度も通り過ぎた。
扉の内側に、一度も足を踏み入れたことがない。
「でも、こうして働かせてもろてるだけで、贅沢どす」
彼女は話を、いつもの「安全な場所」へと戻す。
「ここでは、ちゃんとみなさんの期待に応えなあきまへん」
その言葉を言い終えた瞬間――
小春の背後の白い影が、ぱっと明るくなった。
笑みは、さらに理想的な弧を取り、首筋の線まで、舞台照明に合わせて設計されたように美しく見える。
小春自身は、その変化に気づかない。
ただ、角の席の「外の客」だけが、その白い輪郭の厚みが、一枚増えたのを見ていた。
「……残形、か」
劉立澄は、心の中で小さく呟いた。
杯を置く。
今夜、眠れそうにない理由が、またひとつ増えた。
花見小路という場所は、どこかに一つでも灯りが残っている限り、新しい客がふらりと現れる可能性を秘めている。西木屋にやってきたのは、出張で京都を訪れた数人の商社マン。急に思い立って、夜の席を取ったらしい。綾女は自ら玄関まで出迎え、軽い冗談を交えて彼らを座敷に通すと、すぐに場の空気を温めた。
小春は、少し控えめな色合いの着物に着替えて現れた。
さっきよりも華美さを抑えた、古風な好みを思わせる装いだ。砥粉色の地に、細かな白い小花。帯の線はきっちりと抑えられ、品の良い落ち着きを添えている。
舞妓の化粧は、完璧そのものだった。足取りも、笑みも、袖の揺れ方も、座り姿も――祇園で「正しい」と教えられている線の上を、一寸のずれもなくなぞっている。
注ぐ酒の角度。
話題の振り方。
季節の挨拶から、景気の話、祭りの思い出まで。
客が喜びそうな言葉を、間違えずに、過不足なく差し出し続ける。
「最近出てきたんですか?」
客のひとりが感心したように言う。
「とてもそうは見えへんなあ。三年も四年も、ここにおるみたいや」
「皆さんに育てていただいてるだけどす」
小春は、深く頭を下げる。「まだまだ未熟どすさかい、どうぞこれからも、ご指導ご鞭撻お願い申し上げます」
客たちは、どっと笑い、さらに上機嫌になった。
座敷の隅には、ひとつだけ別の卓が用意されていた。
そこに座る客は、スーツではなく、ごく普通のシャツとセーターにロングコート姿。年の頃は、他の客とそう変わらないように見えるが、座り方は一番きちんとしていて、食べる速度は一番遅い。ひと口ごとに味を確かめているような、妙な真面目さがあった。
劉立澄は、その卓で、何気ない顔をして酒を飲んでいた。
彼の目には、小春のまわりに、別のものが見えている。
薄い白い影。
肩口から外側へとふわりと広がり、小春の身体をすっぽりと包み込むような輪郭。本人より、ひとまわり大きな「もう一人の舞妓」の姿。顔のディテールまでははっきりしない。だが、笑みの弧だけは、現実の小春よりも、ほんの少し大きく、丸く描かれていた。
誰かが用意した「教科書どおりの答え」を口にするたび、その白い影は、わずかに光を増す。
小春の目がふっと空ろになる瞬間には、逆に、その輪郭が、いっそうくっきりしていく。
劉立澄は杯を持ったまま、何も言わずに、その様子を眺めていた。
中座のタイミングで、綾女が酒壺を手に、座敷の中央へ出る。
「小春、このお客様にも一杯、お願いね」
呼びかけに、小春はすぐさま立ち上がり、客の前で浮かべていた華やかな笑みをすっと引いて、反射的に「少し落ち着いた顔」に切り替えた。
「失礼いたします」
角の卓に膝をつき、空の杯を盆に移しながら、柔らかく問いかける。
「お酒、お注ぎしてもよろしゅうおすか?」
「頼む」
劉立澄は杯を、彼女の手の届く位置に置いた。
「今日は、お疲れさん」
小春は、一瞬だけ目を見開いた。
客前で、こんな言葉をかけられることはあまりない。
褒め言葉や軽い口説き文句には慣れているが、「労い」だけが素で差し出されることには、慣れていなかった。
「とんでもおへん」
すぐに笑顔を整え、いつもの調子に戻る。
「西木屋に置いていただけるだけで、うちは十分幸せどす」
「……そうか」
劉立澄は、彼女をじっと見た。
「最近、『食べたかったのに、食べそびれてるもの』はあるか」
「え?」
予想もしていなかった問いに、小春は言葉を失う。
祇園の席で客が問うのは、たいてい別のことだ。年齢、出身、贔屓の有無、好きな酒――料理の話はしても、「あんた自身が何を欲しがってるか」などと問われることは、まずない。
「何でもええ」
劉立澄は、先を促す。
「どんなありふれたもんでも。……口から出てきたやつが、本物や」
「……抹茶パフェ」
気がつくと、小春の口から、その言葉が漏れていた。
言った途端、彼女は恥ずかしそうに笑う。
「なんや、子どもみたいやろ」
「普通でええ」
彼はうなずく。
「で、食べに行く時間はあるんか」
返事が、喉の奥でつかえた。
ない――と即答しかけて、笑みで上書きする。
朝から稽古。
日中はお使いや雑事。
夕方から夜にかけては席。
黒板に「季節限定」と書かれた喫茶店の前を、何度も通り過ぎた。
扉の内側に、一度も足を踏み入れたことがない。
「でも、こうして働かせてもろてるだけで、贅沢どす」
彼女は話を、いつもの「安全な場所」へと戻す。
「ここでは、ちゃんとみなさんの期待に応えなあきまへん」
その言葉を言い終えた瞬間――
小春の背後の白い影が、ぱっと明るくなった。
笑みは、さらに理想的な弧を取り、首筋の線まで、舞台照明に合わせて設計されたように美しく見える。
小春自身は、その変化に気づかない。
ただ、角の席の「外の客」だけが、その白い輪郭の厚みが、一枚増えたのを見ていた。
「……残形、か」
劉立澄は、心の中で小さく呟いた。
杯を置く。
今夜、眠れそうにない理由が、またひとつ増えた。
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