京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第二話・清水寺雨夜・何度も死んだ女(六)

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 その「カチリ」は、美雲自身の胸の奥から鳴った。

 彼女はずっとその場に立ち尽くし、スマホを握る指関節が真っ白になるまで力を込めていた。

 さっきの死の映像は、豪雨のように意識に叩きつけられ、ここ数年の「誠に残念ながら」をすべてメールボックスから引っ張り出して、紙屑にして投げつけられたようだった。

 その中で、彼女はふいに気づいた。

 ――自分は、死ぬのが怖いわけじゃなかった。

 本当に怖かったのは、「これだけの失敗が、全部同じ一人の人間に起きたことなんだ」と認めることだった。

 それを認めた瞬間、「環境が悪かったから」「監督が理解してくれなかったから」では済まなくなる。どうしたって、「自分は本当に今のところ、掴み損ねてる」と受け入れなければならない。

「あんたは、“完璧な死に方”を探してる。」

 雨上がりのような声が、頭上から降ってくる。

「そうすれば、全部に意味を持たせられる。“オレはプロセスで負けたんじゃなくて、派手なラストを選んだんだ”って。」

「残念だけど、“完璧な死に方”は、失敗を“見栄えよく”するだけで――成功に変えてはくれない。」

 雨粒が、帽子のツバにぽつぽつと打ちつけられる。一滴一滴が太鼓のようにリズムを刻む。

 美雲は顔を上げ、剣に押さえられた影を真正面から見る。

「……。」

 初めて、その“何か”に向かって、まともに話しかけた。

「わたしは、本当に頑張ったつもりだよ。でも、本当に……まだ、成功してない。」

 声は小さかったが、胸のいちばん奥からかき集めてきた言葉だった。

「ちゃんとやったし、ちゃんと練習したし、ちゃんと泣いたし、自分はこの仕事に向いてないんじゃないかって疑ったことがある。」

 美雲は息を大きく吸い込む。

「あんたの言うとおり、失敗は怖い。『やっぱりダメだったね』って言われるのが怖い。地元の人たちの『ほら見たことか』って目も怖い。面談の人が『お疲れさまでした』って笑って言うとき、心の中ではもう名前を消してるんだろうなって、思うのも怖い。」

 彼女は目を閉じた。

「だから、ずっと頭の中で失敗のシーンを再生してた。“先に百回死んでおけば、本番の一回はそんなに痛くない”って思い込んで。」

 雨水が睫毛から滑り落ち、涙と混ざり合う。

「でも今になってやっとわかった。――そのほうが、余計に疲れる。」

 彼女は手を持ち上げる。寒さと緊張で指先が震える。

「もう、“どうやって死ぬか”の稽古はしたくない。」

 自分の手を見つめる。その手は、舞台の小道具を見るようだった。

「たとえ一度きりでもいいから、生きてるときに成功したい。」

「残りの失敗は――本当に、一回ずつでよかったこととして、そのままそこに置いておきたい。」

 その瞬間、失敗残形の輪郭が激しく揺れた。

 その身から伸びていた糸が、一本また一本と断ち切れていく。あるものは灰になって消え、あるものは雨に溶けて見えなくなっていく。

 繰り返し再生されていた「落下の映像」のうち、多くは完全に消去され、残りは遠い棚にしまわれた。「既に発生済み。再生の必要なし」と書かれたラベル付きで。

「お前――!」

 影は、悔しさを滲ませた悲鳴を上げた。

「彼女はもう、お前に“死に方の練習”を付き合う気はない。」

 劉立澄は、剣の柄をしっかり握る。

「お前の出番はもう終わりだ。」

 澄心剣が、ほんのわずか前へと押し出される。

 紙に最後の一画を入れるのと変わらない軽さだったが、その刹那、石段の上に降り注ぐ雨の線が、全部一瞬だけ止まった。

 世界が静止したのは、ほんのコンマ数秒にも満たない。しかし、それだけあれば十分だった。失敗残形の核を、きれいに真っ二つに断ち切るには。

 上半分は、微細な光の粒となって空中に散り、雨に乗ってどこかへ流されていく。

 下半分は、剣先に押し戻されるように、美雲の胸の中へと沈んでいった。今度は、重さを持った塊として――彼女に、「これは実際に起こったことだ」と教えるための重みとして。

 雨は、何事もなかったように再び流れ始める。

 美雲は膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。

「――痛っ。」

 彼女が漏らしたのは、骨が折れた痛みではない。冷えた石段に太ももが直接触れた、地味で容赦のない冷たさだった。

 劉立澄は剣を納めた。刃は雨水に洗われるようにして薄れていき、やがて空気の中に溶けて消えた。

 彼は傘を拾い上げ、彼女のほうへ歩み寄る。

「立てるか?」

 問いかけには、同情も、「危険人物を救出した」という自己満足もない。ただ、店の客に声をかけるときのような、一歩引いた気遣いだけがあった。

「……たぶん。」

 美雲は石段に手をついて、ゆっくり立ち上がる。

 今度は、あの半歩を踏み出すことはなかった。

 ただ、石段を下へ――一段ずつ降りていく。

 一歩降りるたびに、膝のだるさ、石の凹凸を踏む足裏の感触、靴の縁からじわじわ染みてくる雨水の不快感が、はっきりと伝わってくる。

 彼女は、生きていた。

 頭の中で死ぬシーンを繰り返し再生するための「生存」ではない。疲れていて、みっともなくて、それでも一段一段降りていく、今この瞬間だけの「生」。

 *

 湯豆腐屋の灯りはまだついていた。

 店主は、二人が雨の中から入ってくるのを見て、一瞬目を丸くする。

「おい、お前――」

「あの子に、さっきより熱めの湯豆腐を。」

 劉立澄は、入口で傘をたたみながら言う。

「それと、いちばん旨い漬物を一皿。」

「お金――」

 美雲は思わず手を振る。

「持ってない……」

「オレの奢りだ。」

 劉立澄は短く言った。

「それなら、下手なものは出せないな。」

 店主は、安堵を滲ませた声で言い、厨房へ引っ込む。

「そこ、座ってろ。」

 ほどなくして、湯豆腐が再び卓に置かれた。

 さっきより少し熱い。豆腐も、一口で食べやすい大きさに切られている。

 漬物は、店主自慢の紫蘇大根。酸味と、ほんの少しの渋みがあり、口の中に沈殿した「失敗の味」を洗い流してくれる。

 美雲は両手で碗を包み込み、しばらくぼんやりとそこに浮かぶ豆腐を眺めていた。それから、そっとひと切れをすくい上げる。

「……おいしい。」

 そう言った瞬間、また目が赤くなる。

「あんた、昨日もそう言った。」

 劉立澄は淡々と告げる。

「でも昨日の顔は、今よりひどかった。」

「昨日?」

 美雲は瞬きをする。

「昨日もここを通った。あんたはオレを見てなかったが。」

 彼は窓の外から視線を戻す。

「そのとき、あんたの顔には、『また落ちた』って言葉しかなかった。」

 彼は横目で彼女を見る。

「今日は違う。」

「どこが違うのよ。」

 思わず、すねたような声が出る。

「今日のあんたはな。」

 劉立澄は、綾女の言い回しを真似て、少し眉を上げた。

「昨日よりずっといい“失敗の顔”してる。」

 美雲は二秒ほど固まり――ぷっと吹き出した。

 泣き顔の中に、ようやく別の色が混じる。自分を笑い飛ばす余裕の欠片のようなもの。

「あんた、完全にからかってるでしょ。」

 鼻をすすりながら言う。

「生きてる相手を冷やかすほうが、死にかけてる相手を説得するより楽だからな。」

 彼は肩をすくめる。

 二人は、それ以上多くを語らず、黙々と湯豆腐を平らげた。

 店主は詮索することなく、帰り際に小さなおにぎりを一包み、美雲に持たせた。

「明日も上に行くなら。」

 店の外で傘をさしながら、劉立澄は言う。

「ちゃんと昼間に来い。観光客の顔をしに。毎回雨夜ばかり選ぶと、観客が飽きる。」

「……明日、東京に戻る。」

 美雲は言った。

「でも、また来ると思う。」

 手の中のおにぎりをぎゅっと握り締め、彼に向かって深々と頭を下げる。

「今度はオーディションじゃなくて。」

「それがいい。」

 彼は背を向け、雨の闇へと歩き出した。

 *

 清水寺の舞台は、雨夜の中で輪郭をかすかにぼやかしている。木の欄干は雨に濡れて鈍く光り、夜間の見回り用に残された照明だけが、軒下で控えめに灯っていた。

 劉立澄は、その舞台の真下にあたる斜面に立ち、傘を閉じて見上げる。

 人の目には、そこにはただ黒い闇と、木組みの影があるだけだ。

 だが、彼の眼には、舞台を支える山の内側に、一本の暗い線が見えていた。寺の基壇から清水坂の方角へと伸びる、細く深い筋。

 それは、自然のひび割れではない。

 龍脈に、誰かが最初に刻んだ一本の「脈裂」だ。

 美雲の失敗残形は、ただその裂け目からこぼれ出た泡に過ぎない。

 本当の問題は、誰かがこの裂け目を使って、街のあちこちにある「失敗の感情」をここに集め、少しずつ外へ漏らしていることだった。

「……やっぱりな。祇園から清水まで、同じ手が仕掛けてる。」

 彼は低く呟く。

 雨は肩を打ち、衣服の繊維を伝って滴る。

 ここで術を使うことはしなかった。ただ、しばらく黙ってその「裂け目」を眺め、その位置と流れを頭に記憶する。

 そして踵を返し、東山の小さな借家へと山を下りた。

 夜は、すでに丑三つ時に近い。

 庭の紅葉は、雨に洗われて墨のように濃く見えた。

 二階建ての木造の屋根はずっしりと重く、室内の横幅は驚くほど広いわけではないが、決して窮屈ではない――独り身の男には、「中の上」といっていい住まいの規模だ。

 劉立澄は身体を拭いて着替え、ちゃぶ台に向かって座る。

 平凡な煎茶を一壺ぶん淹れた。高山の銘茶でもなく、缶飲料のように手軽なものでもない。ただひたすら、口の中に残った味をクリアにするためだけの茶だ。

 彼は引き出しから、表紙に何の文字もない小さなノートを取り出す。

 一ページ目には、こう記されている。

 第一件:祇園花街・化粧の落ちない舞妓。

 彼は二ページ目にめくる。

 ペン先をおろし、ゆっくりと書き連ねる。

 第二件:清水寺雨夜・何度も死んだ女。

 最後の一文字を書き終えると、しばしペンを止めた。

 外の雨は、少しずつ細くなっていく。

 京都の夜は、そのぶんだけ、いっそう濃く深くなっていった。
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