京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第二話・清水寺雨夜・何度も死んだ女(五)

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 残形が動き始めた。

 空中に宙吊りになっていた無数の「美雲」が、一斉に再生ボタンを押されたように、また転がりだす。

 骨が石段にぶつかる音が、雨夜の中でいくつもいくつも重なり、乱れたドラムのようなリズムを刻む。見えない時間線の上では血が広がり、そしてまた雨に薄められて消えていく。

 美雲は思わず頭を抱えた。

「やめて! やめてよ――!」

 叫びは、画面のスピードに追いつけない。

「これは、あんたに見せるためのものじゃない。」

 劉立澄は言う。

「あいつが自分で眺めるための映像だ。」

 失敗残形の中心に、周囲より一段暗い影が集まり始める。ちょうど舞台の中央に、ライトに照らされた演出家が歩み出てくるように。

 その影には、はっきりした顔がない。ただ、人型の輪郭がぼんやりと揺らめき、手には細い指揮棒めいたものが握られている。

「もう一度、いこうか。」

 影は軽く手を振った。

 石段の上の「彼女たち」は逆再生され、砕けた骨も血溜まりも、歪んだ手足も、すべて逆方向へ巻き戻されていく。ばらばらになった身体が一つに戻り、再び、起点に立つ一人の美雲に収束する。

 そのたびに、影の輪郭は少しずつ濃くなる。新しい「素材」を吸い込んでいるかのように。

「見てごらん。」

 影の声は、妙に穏やかで、長年付き合いのある講師か、事務所の先輩か、そんな誰かを思わせた。

「失敗なんて、いくらしたってかまわない。完璧になるまで、何度でも稽古すればいい。」

 「完璧な転落。完璧な諦め。完璧な――完全降伏。」

 その声が耳に入り込んできたとき、美雲は、危うく頷きかけた。

 そうだ。もし「完璧な諦め方」があるのなら、それも一つの成功と呼べるんじゃないか。

 中途半端に何度も小さな負けを重ねて、削られていくくらいなら、せめて最後は「絵になる終わり方」で締めくくれたほうが、まだマシなんじゃないか――。

「あんたはよく頑張った。」

 影は優しくささやく。

「ここまでその役のために、何度も何度も死ぬ覚悟をしてきた。こんなに真剣に“負け”に取り組める人間なんて、そういないよ。」

「だから、もう一回だけ。」

 影は、指揮棒を美雲の足元に向けて掲げた。

 足首が、見えない糸に捕まったようにふっと前へ引かれる。

「もういい。」

 低い声が割り込んだ。

 劉立澄は右手を上げ、指先で何かをひねる。空気がほんの一瞬裂けたように感じられた。

 細身の刀身が、指先からすっと姿を現す。

 派手な装飾も、ぎらつく光もない。ひどく細く、まっすぐな刃。その様は、極限まで研がれた一筋の筆致のようでもあった。雨粒が刃に触れた瞬間、そこから弾かれるように左右に逸れていく。

 澄心剣。

「あんたは、彼女の失敗を演出してるつもりだろう。」

 彼はその刃を失敗残形に向ける。

「でも、彼女に、本当にまだ続けたいかどうか、訊いたことがあるか?」

 影は一拍、動きを止めた。

「オレは、彼女の身に起きた失敗を、少し整理してやってるだけだ。」

 影は応じる。

「そのほうが、彼女は納得できる。最後に飛び降りるとき、本当の意味で“悔いなく”飛べるように。」

「“悔いがない”ためには、まず自分に悔いがあることを認める必要がある。」

 劉立澄の声は、相変わらず静かだ。

「同じ場所で百回転ぶことじゃなくてな。」

 影は低く笑った。

「何がわかる。彼女自身が毎日言ってるんだ。“もしもう一回やり直せたら”って。」

 影から無数の細い糸が伸び、石段の隙間という隙間に絡みついていく。

 その色は、透明から灰色へ、灰色から、ほぼ黒に近い色へと、じわじわと濃くなっていた。

「問題は、何回失敗したかじゃない。」

 劉立澄は美雲を見る。

「あんたが――“失敗する”って動きそのものを、自分の唯一の得意技だと思い込んでることだ。」

 そう言うと、彼は傘を石段のわずかな隙間に突き立てた。骨組みが石にしっかりと喰い込み、そこだけ小さな屋根ができる。

 次の瞬間、彼は軽く地を蹴り、彼女より数段上の石段に飛び移った。つま先が石をとらえたとほぼ同時に、剣先は淡い金色の弧を描いて走る。

「――退場。」

 低くつぶやく。

 その刃が通ったところだけ、一瞬、雨線が切れたように見えた。次には重力に引かれてまた元の軌道に戻るが、そのわずかなあいだに、石段にからみついていた黒い糸がいくつもいくつも断ち切られる。「じゅっ」と、熱した鉄を冷水に落としたときのような、鋭い音を立てて。

 失敗残形が、びくりと縮む。

「お前――」

 影の声から、はじめて余裕が消えた。

「彼女はもう、十分すぎるほど死んできた。」

 劉立澄は、また一段高い場所へ跳ぶ。

「次は、お前の番だ。」

 彼が降り立つたびに、澄心剣は下へ向かって一筆ずつ線を引く。

 その軌跡は、型のある剣術のようでも、乱暴な喧嘩の斬りつけのようでもない。むしろ、雨夜の空気に文字を書き込んでいるようだった。

 一画は「止」。一画は「断」。一画は「返」。

 一筆一筆の落としどころが、時と空間に、ごく細く、だが消えない線を刻み込んでいく。

 繰り返し流れていた「死の映像」は、次々と停止した。

 足を踏み出しかけた瞬間で止まるもの。石段にまだ当たっていない半空で止まるもの。途中で落下している彼女の顔に浮かぶ、どうにも説明しがたい表情のところで止まるもの。

「自分が演出してるつもりだろう。」

 彼は雨の中でもう一段跳び上がり、失敗残形の中心に剣先を向けた。

「でも、お前をここまで育て上げたのは、彼女自身だ。」

「彼女が、失敗のたびに手放すことを惜しんで、“もう一回”に縋りついてきたから、お前みたいなものがこんなに太る。」

 影は歯ぎしりをしたような、低い唸り声を漏らす。

「そうだとして、何だ。オレは彼女の“失敗への恐怖”だ。オーディションで落ちるたびに流した涙も、悔しさも、怒りも、全部オレの中にある。オレがなきゃ、とっくに諦めてる。」

「それも、ある意味では事実だ。」

 劉立澄は認める。

「人間には、たしかにある程度のブレーキが必要だ。」

 最上段に足を据えたとき、雨粒が彼の頬を伝い、首筋の血管の上で、温度差にわずかに震えた。

「問題は――ブレーキが、運転手の代わりはできないってことだ。」

 彼は剣を横に回し、その刃先を影の「首」にそっと当てる。

「さっき、お前はずっと彼女に訊いてたな。“もう一回やるか?”って。今度は、お前が答える番だ。」

 彼はその無貌の影を見据える。

「お前にとって、“どの失敗が本当の終点なのか”。」

 失敗残形が固まった。

 そもそもそれは、無数の「もう一回」を素材にした塊であり、本質的に「終点」という概念を持っていない。

 失敗は終わりではない。ただ何度でも再利用できる素材だ。剪輯され、再生され、編集され続ける。主役がその言葉を口にする限り。

 だが今、剣を突きつけられ、「どれか一つだけを最後に選べ」と迫られている。

「お前に――そんな権利は――」

「これは、彼女の人生だ。」

 劉立澄は言う。

「お前のじゃない。お前は、彼女が本当に選ぶべきときに、先延ばしするための言い訳に過ぎない。」

 彼は腕を上げた。

 剣身が、脈打つように伸び縮みする。

「もう彼女に返せ。――選ぶ権利を。」

 そのとき、雨夜に、初めてはっきりとした「カチリ」という音が響いた。

 鍵が、半分だけ開いた音だった。
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