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第三話・錦市場・影を食べる少年(二)
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「最近、その子に『おいしそう』って言われた人たち、その後どうなった?」
二人はコロッケ屋台から少し離れ、市場の奥へと歩いていく。空気の中には、削り節の煙の匂い、醤油で煮込んだ惣菜の甘い匂い、氷で冷やされた魚のひんやりした湿気が入り混じっていた。
「最初は、変なこと言う子どもだなって思われてただけ。」
綾女はスマホのメモをめくりながら言う。そこには何人かの店主の名前と場所が簡単に記されていた。「でもね、その子に『影がおいしそう』って言われた人が、何日かするとみんな、どこかおかしくなってきたの。」
二人は京野菜の店の前で立ち止まる。店主は中年の女性で、大根の皮をむきながら客と世間話をしていた。綾女が声をかけると、彼女はすぐに笑顔で応じる――が、件の子どもの話になると、その笑みをすっと引っ込めた。
「この前、私も言われたのよ。」
女将は声を落とした。「あの日、野菜を切るのに夢中でね。あの子がそばでしゃがんで、私の影を見ながらニヤニヤしてて……家に帰ってから、何もする気がしなくなっちゃったの。荷物がまだ残ってるのも、お客さんが待ってるのも分かってるのに、どうしても体が動かない。」
彼女は自分の胸を、手で軽く叩いてみせる。
「ここに穴が空いたみたいで。やっとのことで眠っても、朝起きたときにはもっと疲れてるの。」
似たような話が、乾物屋でも、魚屋でも、和菓子屋でも繰り返された。
前はよく冗談を飛ばして客を笑わせていたのに、最近は世間話をする気力すら湧かなくなったとか。大好きだったはずの商売道具を見ても何の感情も起きず、目の前のショーケースいっぱいの食材を前に浮かぶのは、「もう店を畳んだほうがいいんじゃないか」という考えだけだとか。
「ぱっと見は、『軽い鬱が大流行』ってところだな。」
劉立澄が、感想のように言った。
「京都版、『仕事燃え尽き症候群』。」
綾女も冗談めかしたが、口元には笑みが浮かばなかった。
二人はさきほどの空いたスペースに戻る。少年はまだ同じ場所にしゃがんでいた。
今度は、劉立澄のほうから近づいていく。
「よう。」
彼は少年と同じ目線になるように腰を落とし、「みんなの影を見てるのは、何をしてるんだ?」と問いかけた。
少年は一瞬だけ彼を見上げ、すぐに視線をそらす。
「おじさんの影はおいしくない。」
正直な声だった。「ちょっと苦い。」
ちょうど近くにたこ焼き屋があった。鉄板の上では丸いたこ焼きがくるくる返され、表面がこんがりと焼けていく。ソースが刷毛で塗られると、甘じょっぱい匂いがふわっと広がった。
「たこ焼き一舟。タコ多めで。」
劉立澄は店主にそう告げ、受け取った紙舟をそのまま少年に差し出した。
「ほら。」
少年は一瞬きょとんとし、警戒するように彼を見てから、あらためて湯気の立つたこ焼きを見つめる。
「いらない。」
口では拒否するが、目はソースの照りに釘付けだ。
「ひと口食べて。その代わり、きみの五分を買う。」
劉立澄は淡々と言う。「さっき、『影はおいしい』って言ってただろう? どんな味なのか、聞かせてほしい。」
たこ焼きは熱い。少年はふうふうと息を吹きかけ、そっと半分だけかじる。ソースが口の端についたが、拭うのも忘れている。
「影はね……」
少年はもごもごと口を動かしながら言う。「甘い影もあるし、ちょっと辛い影もあるし、何の味もしない影もある。」
「きみは、どんなのが好きなんだ?」
とつぜん投げかけられた問いは、脈絡がないようでいて、その芯を突いていた。
少年は言葉をなくす。
その質問を、これまで誰も彼にしたことがなかったのだ。
二人はコロッケ屋台から少し離れ、市場の奥へと歩いていく。空気の中には、削り節の煙の匂い、醤油で煮込んだ惣菜の甘い匂い、氷で冷やされた魚のひんやりした湿気が入り混じっていた。
「最初は、変なこと言う子どもだなって思われてただけ。」
綾女はスマホのメモをめくりながら言う。そこには何人かの店主の名前と場所が簡単に記されていた。「でもね、その子に『影がおいしそう』って言われた人が、何日かするとみんな、どこかおかしくなってきたの。」
二人は京野菜の店の前で立ち止まる。店主は中年の女性で、大根の皮をむきながら客と世間話をしていた。綾女が声をかけると、彼女はすぐに笑顔で応じる――が、件の子どもの話になると、その笑みをすっと引っ込めた。
「この前、私も言われたのよ。」
女将は声を落とした。「あの日、野菜を切るのに夢中でね。あの子がそばでしゃがんで、私の影を見ながらニヤニヤしてて……家に帰ってから、何もする気がしなくなっちゃったの。荷物がまだ残ってるのも、お客さんが待ってるのも分かってるのに、どうしても体が動かない。」
彼女は自分の胸を、手で軽く叩いてみせる。
「ここに穴が空いたみたいで。やっとのことで眠っても、朝起きたときにはもっと疲れてるの。」
似たような話が、乾物屋でも、魚屋でも、和菓子屋でも繰り返された。
前はよく冗談を飛ばして客を笑わせていたのに、最近は世間話をする気力すら湧かなくなったとか。大好きだったはずの商売道具を見ても何の感情も起きず、目の前のショーケースいっぱいの食材を前に浮かぶのは、「もう店を畳んだほうがいいんじゃないか」という考えだけだとか。
「ぱっと見は、『軽い鬱が大流行』ってところだな。」
劉立澄が、感想のように言った。
「京都版、『仕事燃え尽き症候群』。」
綾女も冗談めかしたが、口元には笑みが浮かばなかった。
二人はさきほどの空いたスペースに戻る。少年はまだ同じ場所にしゃがんでいた。
今度は、劉立澄のほうから近づいていく。
「よう。」
彼は少年と同じ目線になるように腰を落とし、「みんなの影を見てるのは、何をしてるんだ?」と問いかけた。
少年は一瞬だけ彼を見上げ、すぐに視線をそらす。
「おじさんの影はおいしくない。」
正直な声だった。「ちょっと苦い。」
ちょうど近くにたこ焼き屋があった。鉄板の上では丸いたこ焼きがくるくる返され、表面がこんがりと焼けていく。ソースが刷毛で塗られると、甘じょっぱい匂いがふわっと広がった。
「たこ焼き一舟。タコ多めで。」
劉立澄は店主にそう告げ、受け取った紙舟をそのまま少年に差し出した。
「ほら。」
少年は一瞬きょとんとし、警戒するように彼を見てから、あらためて湯気の立つたこ焼きを見つめる。
「いらない。」
口では拒否するが、目はソースの照りに釘付けだ。
「ひと口食べて。その代わり、きみの五分を買う。」
劉立澄は淡々と言う。「さっき、『影はおいしい』って言ってただろう? どんな味なのか、聞かせてほしい。」
たこ焼きは熱い。少年はふうふうと息を吹きかけ、そっと半分だけかじる。ソースが口の端についたが、拭うのも忘れている。
「影はね……」
少年はもごもごと口を動かしながら言う。「甘い影もあるし、ちょっと辛い影もあるし、何の味もしない影もある。」
「きみは、どんなのが好きなんだ?」
とつぜん投げかけられた問いは、脈絡がないようでいて、その芯を突いていた。
少年は言葉をなくす。
その質問を、これまで誰も彼にしたことがなかったのだ。
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