京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
30 / 109

第五話・伏見稲荷・狐の嫁入りと捨てられた願い(六)

しおりを挟む
「ふう――。」

 綾女は肺の奥の空気を、一気に吐き出した。

 そこでようやく、自分の両掌が汗でぐっしょり濡れていることに気づく。指先が痺れ、膝にも力が入らない。

「あいつ……。」

 さっき黒い狐面が消えたあたりを見やる。

「人間……なの?」

「今のところは。」

 劉立澄は、澄心剣を収めた。

 刃が空気の中でひときわ輝き、そのまま見えない鞘へと滑り込む。龍牙も、ゆっくりと鞘に戻されていく。鋼と木がぴたりと噛み合った瞬間、あたりに満ちていた圧迫感がようやく退いていった。

「どこかの組織に属している。」

「名前を聞いても、今の君には意味がないけど。」

「今の言い方だと。」

 綾女は荒い呼吸を整えながら、かろうじて笑った。

「そのうち、ゆっくりツケを回すつもりって聞こえるんだけど。」

「じゃあ、長期客用のメニュー表を作っておかないとね。」

 山を下りる。

 鳥居のあいだを抜けていく夜風には、まだ冷たさが残っているが、さっきまで肌を引っ張っていた「連れていかれそうな感じ」は、もうなかった。

 麓の店は、ぼちぼち灯りを落とし始めていた。最後の焼き串を片付けている屋台もあれば、店員があくびをかみ殺しながらシャッターを下ろしている店もある。

「ちゃんとしたもの、食べよ。」

 綾女は彼の袖をつまんで、まだ灯りのついた小さな食堂へ足を向けた。

 店内には、ほとんど客がいない。

 カウンターの向こうで、夫婦らしい二人が小さなテレビを眺めている。壁には、親子丼、唐揚げ定食、酒粕汁、味噌汁――とだけ書かれた、簡素なメニュー表が貼られていた。

「親子丼を二つ。酒粕汁一つと、味噌汁一つ。」綾女が声をかける。

「それから伏見の清酒を一合。熱燗で。」

「“生きる理由”を、テーブルの上に全部並べる気か。」

 劉立澄は、壁際の席に腰を下ろし、背もたれに少し体を預けて、指先で眉間を軽く揉んだ。

「さっきまで狐嫁の列にいそうになった人たちは、まず『まだご飯が食べられるか』を確認したほうがいいの。」

 綾女は顎を手のひらに乗せる。

「そこを空けたままにしてると、さっきの『みんな似たようなもん』って声に負けやすくなる。」

 ほどなくして、湯気を立てる親子丼が二人分運ばれてきた。

 半熟に煮えた卵が鶏肉を包み、表面にはとろりとした光沢が残っている。下のご飯には、出汁と醤油の汁がしみ込み、縁のあたりが薄く色づいていた。鶏肉を噛めばまだ肉汁があり、卵の香りと玉ねぎの甘さがいっしょになって口の中に広がる。どう頑張っても「死」を連想しづらい味だ。

 酒粕汁からは、穏やかな米と酒の香りが立つ。薄切りの大根と人参、小さな豚肉の切れ端が入っていて、白濁した汁を一口飲めば、喉から胃のあたりまで一度に温まる。

「さっきの白無垢の行列よりは信頼できる。」

 彼は正直に言った。

「少なくともこの丼は、最終的に俺の胃袋に収まる。誰かの実験材料にはならない。」

 綾女は声を立てて笑い、彼と自分の杯に、熱燗を少しずつ注いだ。

「さっき陣の中で言ってた『願いには持ち主がいる』って一言ね。」

 杯を傾けながら、目を細める。

「あれ、けっこう格好よかったよ。」

「ちょっと釘を刺しただけ。」

 彼は静かに言う。

「欲しいものも、いらないものも、本当は自分で決めるべきだ。流されっぱなしの奴が多すぎる。」

「先生は?」

 ふいに綾女が顔を上げる。

「先生自身は、捨てた願い、ある?」

 一瞬だけ、手が止まった。

 湯気をあげる酒が、二人のあいだに薄い霧の層を作る。その向こうに見える伏見の小さな通りは、頼りないが穏やかな灯りを点々と並べている。

「ある。」

 やがて、彼は口を開いた。

「ただ、その部分の後片づけは、自分でやる。」

 綾女は、しばらくじっと彼を見つめ、それからふっと笑った。

「じゃあ。」杯を軽く掲げてみせる。

「今目の前にいるほうの先生は、私がちゃんと食べさせる。」

 ふたりは、最後の一口まで丼を平らげ、店主夫婦に礼を言って店を出た。外へ出ると、夜の深さがひとつ増している。

 山の上の千本鳥居は、夜風に撫でられながら、ごくかすかな音を立てている。まだ誰かが歩いているような気配はあるが、それはもう、彼らからずいぶん遠ざかっていた。

 夜がさらに更けるころ、東山の中腹に建つあの家も、ふたたび静けさを取り戻していた。

 室内に灯された明かりは、一つだけ。本棚の片隅を照らしている。窓の外で、街の灯りは夜霧に削られ、遠くに車のライトが一本、山肌をかすめる。黒い紙にペン先で一本線を引いたような、そんな光の残り方だった。

 劉立澄は、机に戻っていた。

 開きっぱなしのノートが一冊。最初の四ページには、すでにこう記されている。

 「一件目:祇園・化粧の落ちない舞妓」

 「二件目:清水寺の舞台・落ちていく人」

 「三件目:錦市場・影を食べる少年」

 「四件目:鴨川逆流・未来への遺書」

 次のページを開く。

 筆に墨を含ませ、筆先を紙に落とす。

 「五件目:伏見稲荷・狐の嫁入りと捨てられた願い」

 墨はじんわりと紙に広がり、濡れた光を失って、ゆっくりと沈んだ黒に変わっていく。

 筆を硯の脇に置き、指先で紙の端を軽く押さえる。

 まただ――という感覚が、背中のほうから、じわじわと這い上がってきた。

 誰かが、どこか別の場所で、同じように机に向かっている気配。

 今までより、はっきりしている。

 この街のどこか見えない深みに、別の誰かが腰を下ろし、別のリストを片手に、同じ項目へ順番に線を引いているような感覚。

 清水、祇園、錦市場、鴨川、伏見――。

 龍脈に刻まれたすべての亀裂が、一つ一つ番号を振られ、点灯と消灯を繰り返している。

 外の塀の上では、石の狛犬がじっと身じろぎもせずに座っている。

 口にくわえた石の玉が、月光を受けて、一瞬だけ、何か読み取れない光を返した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く 

液体猫
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/  香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。  ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……  その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。  香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。  彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。  テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。  後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。  シリアス成分が少し多めとなっています。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

【コミカライズ決定】愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
【コミカライズ決定の情報が解禁されました】 ※レーベル名、漫画家様はのちほどお知らせいたします。 ※配信後は引き下げとなりますので、ご注意くださいませ。 愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

処理中です...