京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
35 / 109

第六話・京都大学・複製人格の講義室(五)

しおりを挟む
 男は動こうとした。

 だが、自分の身体が、どこか見えない層で固定されていることに気づく。

 筋肉が動かないのではない。

 「後退したい」という意志が生まれるたび、その端から、何かに押し戻されているのだ。

 「人関……。」

 彼は歯を食いしばる。

 「我々に、それを使うつもりか。」

 「そちらが、キャンパス全体を人格実験の場にしているのに?」

 劉立澄の声は、相変わらず淡々としている。

 左手の剣先が、僅かに下がった。

 その刃は、相手の肌にはかすりもしていない。ただ、眉間の前、ごく近い空気の一点をなぞる。

 彼の視界には、その瞬間、細かな文字列が立ち上がって見えた。

 漢字でもなく、カタカナでもない。

 むしろ、「契約条項」を符号化したような符の文字だ。

 「失敗時、遠隔からの終了を許可する。終了後、データは全て回収側に帰属。」

 そこに書かれている内容が、一息のあいだに読み取れる。

 「ずいぶんと思い切った契約ですね。」

 彼は低く言う。

 「上の連中は、情報漏洩がよほど怖いらしい。」

 男の目に、わずかな凶光が灯る。

 「この程度の信号妨害で、終了プログラムが止められると思うな。」

 彼は口の端を歪めた。

 「自分を、買いかぶりすぎだぞ、道士。」

 その言葉と同時に、手首の符輪が激しく光る。

 遠く見えない場所から、極細の術力が、天線の防壁を無理やり突き抜けて、実験室に注ぎ込んできた。

 劉立澄の目には、契約の文字列が、炎に包まれるように見えている。

 普通の火ではない。

 燃えているのは文字そのものだ。

 条文一つひとつが、マッチで下から炙られていくように、末尾から順に燃え上がる。

 炎は男の手首から肘、肩へと這い上がり、最後に胸の中央へと突き刺さった。

 男がうめき声を漏らす。

 顔から一気に血色が失われ、眼の光が半ばほど抜け落ちる。

 「本当に、使い捨てなんですね。」

 劉立澄は、左手の剣をくるりと返した。

 自爆プログラムそのものを止めることはできない。それでも、その炎がすべてを焼き尽くす前に、核心のひと欠片だけを救い上げる余地はある。

 彼は、燃え上がる文字列の中から、もっとも中心に近い一点を、剣先で丸く切り取った。

 小さな光の塊が、一瞬で凝縮される。

 それが、彼の用意していた黄紙の符の上に、刃先からぽとりと落ちる。

 紙符に触れたとたん、表面に、まだ読めないほど微細な文字が、うっすらと浮かび上がった。

 残りの条項は、全て燃え尽きる。

 男の身体が、椅子と機器のあいだでがくりと傾き、そのまま床に崩れ落ちた。

 外側から見れば、心筋梗塞か、脳血管障害だと言われてもおかしくない倒れ方だ。

 大学の管理者たちは、おそらく「過労とストレスによる突然死」か「持病の発作」として処理するだろう。

 誰も、「人格実験における術式回収の結果」だとは思わない。

 彼の身体を満たしていた術力は、一滴残らず抜き取られ、手首の銀輪は乾いた音を立てて砕け、床に散らばった。今は、ただの金属片に過ぎない。

 床に立っていた人格人形たちも、同じ瞬間に崩れ落ちる。

その半透明の肉体は、粉々の欠片となって空中に散り、再び微細な残形となって漂う。

それらを、足元の「地鎖」がゆっくりと引き寄せ、それぞれの本来の持ち主の影の中へと、押し戻していった。

学生たちは、一人、また一人と目を覚ます。

頭を抱えて、声を詰まらせる者。

狐につままれたような顔で、周囲を見回す者。

彼らの記憶に残っているのは、鏡の前で普段なら言えないことをたくさん喋り、泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまった、ということだけ。

それ以外の部分は、誰かに丁寧に一枚剥ぎ取られたかのように、抜け落ちていた。

「先生。」

劉立澄は剣と刀を消し、壁際に寄りかかる若い講師の方へ向き直った。

「今、あなたには三つの選択肢があります。」

講師はまだ青ざめたまま、喉を鳴らしてやっと声を出す。

「聞かせてくれ。」

「一つ目。」

彼は淡々と指を折って数える。

「この実験に参加した学生全員のリストを私に渡し、学内の倫理委員会へ自首すること。その結果、講師の資格を失う覚悟をしておくこと。」

「二つ目。」

「今夜の出来事を丸ごと夢だと思って無視し、実験を続けること。そのまま行けば、いつかあなた自身が、何かの契約書の一番下に名前を書かれ、『実験事故の一症例』として回収される。」

講師は顔を上げる。

眼のふちが、赤く滲んでいた。

「君は……。」

「あなたの出発点が、最初から悪意だったとは思っていません。」

彼の声には、非難の色は薄い。ただ、事実を述べているだけだ。

「あなたはただ、あまりにも急いで、この子たちを『使い勝手の良い大人』に仕立て上げようとした。その過程で、彼らが元々どういう存在であったかを忘れた。」

「そして、彼らが『いらない』とされた部分を、あなたよりずっと『使い道』を知っている相手に、丸ごと渡してしまった。」

講師は顔を両手で覆った。

肩が、小刻みに震えている。

長い時間が過ぎたのち、彼はようやく大きく息を吸った。

「リストは、整理して渡す。」

掠れた声で、どうにかそう言った。

「倫理委員会には……自分で話しに行く。」

「それでいい。」

劉立澄は頷いた。

「二つ目の選択肢は、こちらで消しておきました。」

彼は扉に向かって歩き出し、実験室のドアを押し開けた。

時間が、押しとどめられていた一瞬から、再び流れ始める。

廊下の灯は、何事もなかったかのように通常の明るさに戻っていた。

遠くで、「さっき電圧がおかしくなったんじゃない?」という声が上がり、それに続いて、いくつかの苦情と笑い声が混ざり合う。

三階は、ふたたびキャンパスの日常に戻った。

ただ、天井のさらに上──彼の目には、細いひび割れが一本だけ走っているのが見える。

そのひびは、校舎を抜け出し、キャンパスの上空を渡り、清水寺、錦市場、鴨川のあたりで彼が見つけてきた裂け目と繋がり合い、目に見えない網の目へと姿を変えつつあった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる

gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く ☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~

菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。 だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。 蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。 実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。

処理中です...