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第六話・京都大学・複製人格の講義室(六)
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キャンパスの門の近くにあるラーメン屋では、「ラーメン」と書かれた提灯が風に揺れている。
夜の十時を過ぎてなお、店内には数組の学生がいて、ラーメンの丼を囲みながら、試験やサークルの話を大声でしている。
塩ラーメンの香りと、焼き餃子の油の匂いが、半開きの戸口から通りへと溢れ出していた。
「こっち。」
入口脇の影から、綾女が手を上げて合図をする。
昼間、花街で身にまとっていたきっちりとした着物は脱ぎ捨て、今日は気楽な普段着だ。シンプルなセーターにロングスカート、その上から長いコートを羽織っている。それでも、彼女がそこに立っているだけで、不思議な艶やかさは隠しきれない。
「また図書館の閉館時間までいると思ってた。」
彼女は笑う。
「でも、今日はすでに残業を終えてきたみたいね。」
「どうしてここに?」
劉立澄は、少し驚いたように眉を上げた。
「今日は西木屋、早じまい。」
綾女は肩をすくめる。
「うちでバイトしてた京大生から、『最近、心理学部の辺りの怪談が増えてる』って噂が回ってきたの。それ聞いて、ある道士が残業しそうだなと思って、ついでに張り込み。」
彼女は彼を上から下までひと通り眺めた。
「ほらね。この服の裾の埃、絶対どこか掃除してきた後でしょ。」
「あなたの『ついで』の範囲は、一般的な感覚と少しズレている。」
彼は、さらりと言葉を返した。
二人はラーメン屋の中に入り、壁際の席に並んで座る。
「塩ラーメン二つと、餃子一皿。それから味玉追加で。」
綾女は手慣れた口調で店主に声をかける。
「夜勤道士の定食ね。」
「僕はただの大学院生だ。」
彼は訂正する。
「今日は昼間、女子学生に取り囲まれて、課題の質問攻めに遭った。」
「へえ。」
綾女は、頬杖をついて笑う。
「学内じゃ、けっこう人気あるらしいじゃない。教育学部の後輩、医学部の研修生、法学部の子たちまで、『三研究科またいでる中国人』って話題にしてるって。」
「情報が早い。」
「西木屋は祇園の情報交換所よ。」
彼女は片目をつぶって見せる。
「うちに飲みに来る学生たちが、恋バナとバイトの愚痴だけ話してると思った?」
やがて、ラーメンが運ばれてくる。
透き通った塩のスープの上に、刻んだ葱と小さな油の輪がいくつも浮かび、鶏ガラと魚介の出汁の香りが立ち上る。細めの麺は、柔らかすぎない絶妙な加減で湯に浸かっている。丼の縁には、程よい厚さのチャーシューが二枚、半熟の味玉は真ん中で割られ、黄身がとろりと覗いていた。
皿に並んだ餃子は、底面がきつね色に香ばしく焼け、縁がわずかに反り返っている。噛めば、きっとパリッと音がするだろう。
「どうぞ。」
綾女は箸を渡した。
「で、今日は誰とやり合ったの?」
「人格を使って遊ぶのが好きな人。」
彼は麺を少しすくい上げ、ふう、と息を吹きかけてから口に運んだ。
塩のスープの旨味と、小麦の香りが広がる。胃のあたりに、ようやく「何かが収まった」という感覚が戻ってきた。
「で、どうなった?」
「自分でサインした契約書に、焼かれて終わった。」
講義のまとめでもするかのような口調で、彼は答える。
「僕は、その燃え残りから、少しだけメモを拝借した。」
胸元を指先で軽く叩いて見せる。服の下に貼った小さな符紙が、そこにある。
綾女は彼の顔をじっと眺めた。
「毎回、誰に報告書を出してるつもりで動いてるの?」
「数百年前に、この龍脈の布置を書いた人たちに。」
彼はスープをひと口啜り、淡く笑う。
「たぶん、もう誰も気にしてはいないんだろうけど。ただ、帳簿をきれいにしておく癖だけは、勝手に身についてしまった。」
「で、あなた自身は?」
綾女は、餃子を箸でつつき、ぷいと裏返す。
「なんでそこまで、きちんと書き続ける?」
彼は少しだけ考えた。
「誰かが、この街を実験場に使っているから。」
「清水寺の下に一本。錦市場の天井に一本。鴨川の川底に一本。」
彼は視線を、店の外の暗がりへ向ける。
「そして今、この大学の上空にも一本。」
「龍脈の裂け目。」
四文字を発したときの声は、低く抑えられていた。
綾女はすぐに言葉を返さなかった。
麺をひと口すすると、餃子を一つつまみ、半分だけ齧る。
「知ってる?」
やがて、少しだけ戯けた調子で言った。
「そうやって、どこに行っても裂け目が見えてしまう体質なら、そりゃ学校でもモテるわけよ。」
「どういう理屈だ。」
「女の子たちが探してるのはね、“崩れそうになったときに、受け止めてくれる人”なの。」
彼女は箸で彼を指し示す。
「あなたみたいに、『この問題の本質はここだよ』って一言で言い当ててしまうタイプは、なかなかに危ない。」
「危ない?」
「そう。」
綾女は笑みを深める。
「『この人のそばにいれば、自分も少しは直してもらえるかも』って、錯覚させちゃうから。」
「それは、幻想だ。」
彼は丼に視線を落としながら言った。
「僕にできるのは、せいぜい、書き間違えられた線を少しだけ消すこと。」
「残りをどう書き直すかは、本人の手にしか宿らない。」
「その言い方、どこかの先生みたいよ。」
綾女は笑う。
「三研究科を渡り歩く留学生先生。“人生指導講師”には向いてるんじゃない?」
彼はその冗談には応じず、黙って最後の一口の麺を食べ切った。
どんぶりの底には、うっすらとスープが残っている。
彼はそれを飲み干しはしなかった。
「また少し残した。」
綾女が、その様子を見逃さない。
「節制?」
「次の一杯の余地。」
彼は箸を箸置きに戻した。
「生きている限り、『次の一杯を何にするか』は、いつでも選び続けられるから。」
夜は、さらに深くなっていく。
キャンパスの門の灯りが、少しずつ消えていく。
その夜、劉立澄は車を使わず、一人、ラーメン屋から東山の自宅までの道を歩いた。背中のリュックには、数冊の本と、整理したばかりの紙束が挟まっている。
坂の下から見上げると、街の灯りは薄い靄の向こうで、ぼんやりと揺れていた。
家の前に着くと、彼は夜空を仰いだ。
普通の人の目には、星の少ない暗い空にしか見えないだろう。街の灯りが反射して、わずかに橙の幕がかかっている。
彼の目には、いく筋もの細かな裂け目が、すでに一枚の図を描き始めている。
清水寺の舞台の下から伸びた一本が、錦市場の屋根の上をかすめ、鴨川を渡り、この大学の上空まで達し、最後には東山一帯をぐるりと回り込むようにして、何かの陣形を結ぼうとしている。
「ずいぶんと、大掛かりな遊びですね。」
彼は、見えない暗がりに向かって、ごく静かに呟いた。
戸を開けると、茶の香りと木の匂いが迎える。
書斎の机には、例のノートが開かれたまま置かれていた。
彼は五ページ目を開く。
ペン先が落ちる。
「五件目:京都大学・複製人格の講義室。」
ノートを閉じ、机の脇の茶碗を手に取る。
茶は、少しぬるくなっていたが、まだかすかな苦みと香りを残している。
彼はひと口含み、静かに息を吐いた。
窓の外の夜は、応えることなく暗い。
ただ、遠くキャンパスの方角で、他の灯よりもひときわ明るい光が一瞬だけ瞬き、そのまま、すぐに夜に呑み込まれていった。
夜の十時を過ぎてなお、店内には数組の学生がいて、ラーメンの丼を囲みながら、試験やサークルの話を大声でしている。
塩ラーメンの香りと、焼き餃子の油の匂いが、半開きの戸口から通りへと溢れ出していた。
「こっち。」
入口脇の影から、綾女が手を上げて合図をする。
昼間、花街で身にまとっていたきっちりとした着物は脱ぎ捨て、今日は気楽な普段着だ。シンプルなセーターにロングスカート、その上から長いコートを羽織っている。それでも、彼女がそこに立っているだけで、不思議な艶やかさは隠しきれない。
「また図書館の閉館時間までいると思ってた。」
彼女は笑う。
「でも、今日はすでに残業を終えてきたみたいね。」
「どうしてここに?」
劉立澄は、少し驚いたように眉を上げた。
「今日は西木屋、早じまい。」
綾女は肩をすくめる。
「うちでバイトしてた京大生から、『最近、心理学部の辺りの怪談が増えてる』って噂が回ってきたの。それ聞いて、ある道士が残業しそうだなと思って、ついでに張り込み。」
彼女は彼を上から下までひと通り眺めた。
「ほらね。この服の裾の埃、絶対どこか掃除してきた後でしょ。」
「あなたの『ついで』の範囲は、一般的な感覚と少しズレている。」
彼は、さらりと言葉を返した。
二人はラーメン屋の中に入り、壁際の席に並んで座る。
「塩ラーメン二つと、餃子一皿。それから味玉追加で。」
綾女は手慣れた口調で店主に声をかける。
「夜勤道士の定食ね。」
「僕はただの大学院生だ。」
彼は訂正する。
「今日は昼間、女子学生に取り囲まれて、課題の質問攻めに遭った。」
「へえ。」
綾女は、頬杖をついて笑う。
「学内じゃ、けっこう人気あるらしいじゃない。教育学部の後輩、医学部の研修生、法学部の子たちまで、『三研究科またいでる中国人』って話題にしてるって。」
「情報が早い。」
「西木屋は祇園の情報交換所よ。」
彼女は片目をつぶって見せる。
「うちに飲みに来る学生たちが、恋バナとバイトの愚痴だけ話してると思った?」
やがて、ラーメンが運ばれてくる。
透き通った塩のスープの上に、刻んだ葱と小さな油の輪がいくつも浮かび、鶏ガラと魚介の出汁の香りが立ち上る。細めの麺は、柔らかすぎない絶妙な加減で湯に浸かっている。丼の縁には、程よい厚さのチャーシューが二枚、半熟の味玉は真ん中で割られ、黄身がとろりと覗いていた。
皿に並んだ餃子は、底面がきつね色に香ばしく焼け、縁がわずかに反り返っている。噛めば、きっとパリッと音がするだろう。
「どうぞ。」
綾女は箸を渡した。
「で、今日は誰とやり合ったの?」
「人格を使って遊ぶのが好きな人。」
彼は麺を少しすくい上げ、ふう、と息を吹きかけてから口に運んだ。
塩のスープの旨味と、小麦の香りが広がる。胃のあたりに、ようやく「何かが収まった」という感覚が戻ってきた。
「で、どうなった?」
「自分でサインした契約書に、焼かれて終わった。」
講義のまとめでもするかのような口調で、彼は答える。
「僕は、その燃え残りから、少しだけメモを拝借した。」
胸元を指先で軽く叩いて見せる。服の下に貼った小さな符紙が、そこにある。
綾女は彼の顔をじっと眺めた。
「毎回、誰に報告書を出してるつもりで動いてるの?」
「数百年前に、この龍脈の布置を書いた人たちに。」
彼はスープをひと口啜り、淡く笑う。
「たぶん、もう誰も気にしてはいないんだろうけど。ただ、帳簿をきれいにしておく癖だけは、勝手に身についてしまった。」
「で、あなた自身は?」
綾女は、餃子を箸でつつき、ぷいと裏返す。
「なんでそこまで、きちんと書き続ける?」
彼は少しだけ考えた。
「誰かが、この街を実験場に使っているから。」
「清水寺の下に一本。錦市場の天井に一本。鴨川の川底に一本。」
彼は視線を、店の外の暗がりへ向ける。
「そして今、この大学の上空にも一本。」
「龍脈の裂け目。」
四文字を発したときの声は、低く抑えられていた。
綾女はすぐに言葉を返さなかった。
麺をひと口すすると、餃子を一つつまみ、半分だけ齧る。
「知ってる?」
やがて、少しだけ戯けた調子で言った。
「そうやって、どこに行っても裂け目が見えてしまう体質なら、そりゃ学校でもモテるわけよ。」
「どういう理屈だ。」
「女の子たちが探してるのはね、“崩れそうになったときに、受け止めてくれる人”なの。」
彼女は箸で彼を指し示す。
「あなたみたいに、『この問題の本質はここだよ』って一言で言い当ててしまうタイプは、なかなかに危ない。」
「危ない?」
「そう。」
綾女は笑みを深める。
「『この人のそばにいれば、自分も少しは直してもらえるかも』って、錯覚させちゃうから。」
「それは、幻想だ。」
彼は丼に視線を落としながら言った。
「僕にできるのは、せいぜい、書き間違えられた線を少しだけ消すこと。」
「残りをどう書き直すかは、本人の手にしか宿らない。」
「その言い方、どこかの先生みたいよ。」
綾女は笑う。
「三研究科を渡り歩く留学生先生。“人生指導講師”には向いてるんじゃない?」
彼はその冗談には応じず、黙って最後の一口の麺を食べ切った。
どんぶりの底には、うっすらとスープが残っている。
彼はそれを飲み干しはしなかった。
「また少し残した。」
綾女が、その様子を見逃さない。
「節制?」
「次の一杯の余地。」
彼は箸を箸置きに戻した。
「生きている限り、『次の一杯を何にするか』は、いつでも選び続けられるから。」
夜は、さらに深くなっていく。
キャンパスの門の灯りが、少しずつ消えていく。
その夜、劉立澄は車を使わず、一人、ラーメン屋から東山の自宅までの道を歩いた。背中のリュックには、数冊の本と、整理したばかりの紙束が挟まっている。
坂の下から見上げると、街の灯りは薄い靄の向こうで、ぼんやりと揺れていた。
家の前に着くと、彼は夜空を仰いだ。
普通の人の目には、星の少ない暗い空にしか見えないだろう。街の灯りが反射して、わずかに橙の幕がかかっている。
彼の目には、いく筋もの細かな裂け目が、すでに一枚の図を描き始めている。
清水寺の舞台の下から伸びた一本が、錦市場の屋根の上をかすめ、鴨川を渡り、この大学の上空まで達し、最後には東山一帯をぐるりと回り込むようにして、何かの陣形を結ぼうとしている。
「ずいぶんと、大掛かりな遊びですね。」
彼は、見えない暗がりに向かって、ごく静かに呟いた。
戸を開けると、茶の香りと木の匂いが迎える。
書斎の机には、例のノートが開かれたまま置かれていた。
彼は五ページ目を開く。
ペン先が落ちる。
「五件目:京都大学・複製人格の講義室。」
ノートを閉じ、机の脇の茶碗を手に取る。
茶は、少しぬるくなっていたが、まだかすかな苦みと香りを残している。
彼はひと口含み、静かに息を吐いた。
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