京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第七話・京都駅・ナビゲーションされる人生ルート(四)

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「運行規定的には、かなりアウトでしょう、それ。」

階段の下から、軽い笑いを含んだ声が飛んできた。

綾女が中央大階段のいちばん下の影の中に立ち、透明な傘を片手に、上を見上げていた。

ちょうど外から入ってきたばかりなのだろう。風が雨粒を運び込んできて、彼女のトレンチコートの裾を濡らしている。

彼女は傘をたたみ、それを遠慮なく側の傘立てに放り込んだ。

「さっき、西木屋でバイトしてる京大の学生をひとり見送ってきたところ。」

彼女は顎を上げる。

「駅に入ってきたら、『出て行きたい人たち』をわざわざ引き留めようとしてる奴がいたからね。」

声は大きくないが、妙に澄んでいて、よく通る。

スーツの男の眉が、ほんのわずかに動いた。

「君が、あの小さな居酒屋の女主人か。」

彼は興味を覚えたように、綾女を一瞥した。

「どのノードに行っても、たいてい君の気配がする。」

「情報ってやつは、耳と時間でしか溜まらないからね。」

綾女は笑った。

「上から人の流れを見下ろしてると、いちばん端っこに立ってる人のこと、忘れがちになるんじゃない?」

その一言が落ちるのとほとんど同時に、劉立澄は動き出していた。

彼は男に向かって直線的に突っ込むのではなく、空中回廊の内側を回り込む階段を、外縁ぎりぎりをなぞるように下りていく。

足音のリズムは、一般的な駆け足とは違っていた。

踏み出しの一歩一歩が、ほんの少しだけ遅い。

膝はわずかに内側に入り、足裏はつま先が先に床を捉え、そのあとで踵が落ちる。ほんの一瞬で、重心がつま先から踵へと転がっていく。

それは、長い時間をかけて身体に叩き込まれた体術の歩法だった。

この身体は、誰の目にも見えない場所の稽古場で、何度も削られてきたのだ。

彼は手すりすれすれを滑るように駆け下りる。

外から見れば、ただ、誰かが少し速く階段を下っているようにしか見えないだろう。

だが、「線」にとっては違う。術式で敷かれたルートにとって、彼の一歩一歩は、要の節点を踏み抜く一打だ。

踏衡九転――本来は山道や屋根の上での位置取りに使う術。

今、その用途は、駅という三層構造の空間での「高さ」の補正に向けられている。

数段おきに、空間の傾きがほんの少しずつ修正されていく。

引き伸ばされた通路は、最初こそ変化が分からない。

しかし中を歩いている人たちの足取りには、少しずつ変化が表れ始める。

彼らは「ずいぶん歩かされた」と感じていたはずなのに――

いつの間にか、足元にまとわりついていた重さが、少しずつ薄れていく。

誰かがふと、足を止めた。

振り返ると、通路の入口は、思っていたよりずっと近くにある。

「おかしいな……」

彼は目をこすり、首を傾げた。

進もうか、引き返そうか迷ったちょうどそのとき、通路の出口から風が吹き込んできた。

遠くで、新幹線の入線メロディが鳴る。

その瞬間、胸の奥で押しつぶされていたある感覚が、ぽんと跳ね上がった。

――「今行かないと、本当に一生行けなくなる。」

それは、この世のどんな放送よりも真っ直ぐな声だった。

通路の外で、スーツの男の目が冷たく細められる。

「ルート制御が揺らいでいる。」

彼は空中に向かって小声で報告した。

「上行線の干渉レベルが、想定値を超えた。」

返事はない。

ただ頭上の裂け目の一部が、肉眼には見えないほどのかすかな光を、ちかりと弾いた。

劉立澄は、中央大階段の下端から身を翻し、手すりを支点にして別のフロアの踊り場へと飛び移った。

駅構内の空間は、その瞬間、三層に引き伸ばされたように見える。

最下層には、人波と通路。

中層には、大階段とショップ。

そして最上層には、ガラスの穹頂と、かすかな裂け目。

彼は中層に立つ。

左手を軽く上げると、空中に細長い剣が形を取った。

澄心剣。

剣身は地味で、誇張された光はない。だが、雨に煙る光の中で、その輪郭だけは驚くほど澄んで見えた。

剣先は、駅内放送のスピーカーの方角を指している。

その瞬間、スピーカーから流れていた「足元にご注意ください」「走らないでください」といった安全アナウンスが、わずかに引っかかったように途切れた。

音声トラックを一本、抜かれたような違和感。

すぐ後ろから、別のものが顔を出す。

彼にしか聞き取れない声だ。

誰かがかつて言った言葉。

――「お前がいなくなったら、家はどうする?」

――「女の子が一人でそんな遠くまで行くなんて、ちょっとねえ。」

――「どこにいても仕事は仕事なんだし、わざわざ動く必要ないだろ。」

もともとバラバラの記憶の中に散っていた声が、術式で編集され、「引き止めるためのBGM」として、駅のアナウンスに混ぜ込まれていた。

それらの声が、何度も、何度も、「出て行きたい人」の耳に流し込まれていたのだ。

剣先が、空中の見えない音声トラックをひと撫でする。

借り物の声が一本一本、弾き飛ばされる。

多重録音された音軌道が分離され、切り離されていく。

本来、その人自身だけの、小さな声だけが露わになる。

――「もうこんなふうには続けたくない。」

「人のノイズを下げてやっているわけか。」

上からスーツの男の声が落ちてくる。

「それは、実験倫理的に問題だろう。」

「彼らの声じゃない部分を消しているだけだ。」

劉立澄は答えた。

「君たちのサンプルは、まだ十分残ってる。」

右手が空を掴む。

それまで何も持っていなかった手に、弧を帯びた日本刀が形を成す。

鞘が重力に引かれて滑り落ち、短い「チャリン」という音が鳴った。

龍牙。

澄心剣よりわずかに幅広で、それでいて、刃文は極端に薄い。

駅の照明の下で他の刃物のように光を弾くことはなく、むしろ周囲の光を吸い込んでしまうような暗さを帯びている。

「剣は、文字に向けて使う。」

彼は言う。

「刀は、道に向けて使う。」

彼は身を低く構え、再び足を切り替えた。

二歩は軽く、三歩目だけわずかに重く。

つま先が先に触れ、踵がそれに続く。

その一連のステップが、駅という空間に複雑な円を描いていく。

地を縛り、人を堰き止める術――これまでも別の戦いで何度も使ってきた技を、彼は今、別の用途に重ねていた。

――歪められたルートだけを、一時的に小さな円の中に封じる。

「この駅全体のナビゲーションシステムを、ここで止められると思っているのか。」

スーツの男は、やや苛立ったように手首を上げた。

彼の背後で、大スクリーンの路線図が、誰かにひっくり返されたように反転する。

すべての線の上に、淡い影が浮かび上がった。

それは、無数の通勤者や旅行者、観光客の影が幾重にも重なってできたものだ。

彼らが過去の何日にもわたり、同じルートを何度も往復した軌跡。

その軌跡を、彼は抜き取り、何本かの「パス・パペット」に編み上げていた。

それらには、人の輪郭はほとんどない。

人影の壁だ。

地下鉄に駆け込もうとする人影ばかりを集めた壁が、下から上へと押し寄せる。

スーツケースを引く影で出来た壁が、階段を逆流して下りてくる。

傘をさし、スマホを掲げる人影が、店の前でいっせいに立ち止まり、また揃って向きを変える壁もある。

それらは、人を殴るためにあるのではない。

ただ、異物をすべて「いつもの通路」に押し戻そうとする。
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