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第九話・嵐山・ピントの外れたまま固定された人生(三)
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シャッター音が落ちた瞬間、橋の灯りがわずかに震えた。
普通の人には、ただ一瞬視界がちらついたように感じられ、すぐに元に戻る。
だが劉立澄には、渡月橋の一部分の空間が、ごく薄い枠で切り取られたのがはっきりと見えた。目には見えないファインダーが空中から降りてきて、自分と久我雅信の両方を囲い込んだように。
枠の外では、雨音も、観光客のざわめきも、何事もなかったように続いている。
枠の内側では、雨の線だけが異常に細くなり、ほとんど静止しているようだった。
久我雅信は半歩退き、さきほど撮った写真を確認する。
「ほら」
彼はカメラのモニターをこちらへ向けた。
画面には、柔らかな橋の灯り、滑らかな水面、自分自身の立ち姿が片側に写っている。もう片方は、空っぽのままだ。
劉立澄の姿は、画面からきれいに「消されて」いた。
「これは『あなたがここに来なかった世界』」
久我雅信は相変わらず柔らかな声で言った。
「ね、すっきりしてるだろう?」
劉立澄はそのカメラに手を伸ばしはしなかった。ただ、わずかに首を傾け、画面の反射を眺める。
彼には、別のものが見えていた。
写真のごく端に、かすかに光る線がいくつも浮かんでいる。ほとんど透明に近いそれらの線は、荒く削り取られたレタッチの痕跡のようだった。画面の外縁でぴたりと押さえつけられている。
それらの痕跡は一本一本身じろぎしながら、モニターの縁から外側へと這い出ていく。現実の世界へは入り込めず、その代わりにカメラストラップを伝って久我雅信の手首へと登っていく。
カメラを握る彼の手は、骨ばっていて、指の形も美しい。ただ、指の節だけがわずかに白くなっていた。
その手の背後に、もう一つ「手」の影があった。本体より指が一節ぶん長く、指先はより鋭い。修正ツールの柄のような形をしている。
それは幽霊でも、単純な憑依でもない。
それは、ここ数年、久我雅信が「誰かの現実を削る」ことで積み重ねてきたすべてのものが、一本の「完璧な写真の裏側の手」として伸び出た姿だった。
その手こそが、本物の残形だった。
「疲れないのか?」
劉立澄は尋ねた。
久我雅信の口元が一瞬、引きつるように動き、すぐに半笑いに戻る。
「軽くしてあげてるだけだよ。いいことだろう?」
その言葉の奥には、残形らしくない、かすかなためらいが混じっていた。
しかし次の瞬間、影の手が背後からきゅっと握り込む。
シャッターが再び持ち上げられる。
今度、久我雅信は画面を見せようとはせず、レンズをそのまま劉立澄の眼前へ向ける。レンズの中で、絞りがゆっくりと収縮する。瞳孔が狭まっていくような動きだった。
「定形」
それは道術の呪ではなく、むしろカメラマンとしての本能に近い言葉だ。
だが残形の手を通すと、その二文字は奇妙な作用を起こす。橋の一角の光が急激に吸い取られ、冷たい輪郭だけが残された。
ちょうど橋に上がってきたばかりの少年が一人、足を止める。灯りの下で、彼の全身がこわばった。
さっきまでスマホを見ながらなんとなく歩いていただけの彼の周囲に、「安定した会社員にぴったり」と謳われるパンフレットの写真のようなフレームがすっとかぶさる。目の中に、自分のものではない平穏が宿る。
その平穏は、どこか背筋の寒くなるようなものだった。
「君は、人に『人に見せられる自分』を固定してやっている」
劉立澄は小さく息を吐いた。
右手がわずかに上がる。
指先に細い剣が形をとる。刃は暗く、濁りがなく、どのアルバムにも貼られたことのない一筋の光のようだった。
澄心剣。
剣先をそっと持ち上げる。それだけで、見えないファインダーの枠の縁が軽く叩かれ、小さな、しかし澄んだ音を立てた。ガラスを指先で叩いたような音だが、叩かれているのは空気だ。
「君は、写真から人を消すのが好きなんだね」
彼は言う。
「僕は、その人のものじゃない一層だけを、消す」
普通の人には、ただ一瞬視界がちらついたように感じられ、すぐに元に戻る。
だが劉立澄には、渡月橋の一部分の空間が、ごく薄い枠で切り取られたのがはっきりと見えた。目には見えないファインダーが空中から降りてきて、自分と久我雅信の両方を囲い込んだように。
枠の外では、雨音も、観光客のざわめきも、何事もなかったように続いている。
枠の内側では、雨の線だけが異常に細くなり、ほとんど静止しているようだった。
久我雅信は半歩退き、さきほど撮った写真を確認する。
「ほら」
彼はカメラのモニターをこちらへ向けた。
画面には、柔らかな橋の灯り、滑らかな水面、自分自身の立ち姿が片側に写っている。もう片方は、空っぽのままだ。
劉立澄の姿は、画面からきれいに「消されて」いた。
「これは『あなたがここに来なかった世界』」
久我雅信は相変わらず柔らかな声で言った。
「ね、すっきりしてるだろう?」
劉立澄はそのカメラに手を伸ばしはしなかった。ただ、わずかに首を傾け、画面の反射を眺める。
彼には、別のものが見えていた。
写真のごく端に、かすかに光る線がいくつも浮かんでいる。ほとんど透明に近いそれらの線は、荒く削り取られたレタッチの痕跡のようだった。画面の外縁でぴたりと押さえつけられている。
それらの痕跡は一本一本身じろぎしながら、モニターの縁から外側へと這い出ていく。現実の世界へは入り込めず、その代わりにカメラストラップを伝って久我雅信の手首へと登っていく。
カメラを握る彼の手は、骨ばっていて、指の形も美しい。ただ、指の節だけがわずかに白くなっていた。
その手の背後に、もう一つ「手」の影があった。本体より指が一節ぶん長く、指先はより鋭い。修正ツールの柄のような形をしている。
それは幽霊でも、単純な憑依でもない。
それは、ここ数年、久我雅信が「誰かの現実を削る」ことで積み重ねてきたすべてのものが、一本の「完璧な写真の裏側の手」として伸び出た姿だった。
その手こそが、本物の残形だった。
「疲れないのか?」
劉立澄は尋ねた。
久我雅信の口元が一瞬、引きつるように動き、すぐに半笑いに戻る。
「軽くしてあげてるだけだよ。いいことだろう?」
その言葉の奥には、残形らしくない、かすかなためらいが混じっていた。
しかし次の瞬間、影の手が背後からきゅっと握り込む。
シャッターが再び持ち上げられる。
今度、久我雅信は画面を見せようとはせず、レンズをそのまま劉立澄の眼前へ向ける。レンズの中で、絞りがゆっくりと収縮する。瞳孔が狭まっていくような動きだった。
「定形」
それは道術の呪ではなく、むしろカメラマンとしての本能に近い言葉だ。
だが残形の手を通すと、その二文字は奇妙な作用を起こす。橋の一角の光が急激に吸い取られ、冷たい輪郭だけが残された。
ちょうど橋に上がってきたばかりの少年が一人、足を止める。灯りの下で、彼の全身がこわばった。
さっきまでスマホを見ながらなんとなく歩いていただけの彼の周囲に、「安定した会社員にぴったり」と謳われるパンフレットの写真のようなフレームがすっとかぶさる。目の中に、自分のものではない平穏が宿る。
その平穏は、どこか背筋の寒くなるようなものだった。
「君は、人に『人に見せられる自分』を固定してやっている」
劉立澄は小さく息を吐いた。
右手がわずかに上がる。
指先に細い剣が形をとる。刃は暗く、濁りがなく、どのアルバムにも貼られたことのない一筋の光のようだった。
澄心剣。
剣先をそっと持ち上げる。それだけで、見えないファインダーの枠の縁が軽く叩かれ、小さな、しかし澄んだ音を立てた。ガラスを指先で叩いたような音だが、叩かれているのは空気だ。
「君は、写真から人を消すのが好きなんだね」
彼は言う。
「僕は、その人のものじゃない一層だけを、消す」
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