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第九話・嵐山・ピントの外れたまま固定された人生(四)
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久我雅信の表情に、ようやくわずかな変化が現れる。
影の手は彼の肩のラインに沿ってゆっくりと立ち上がり、背後の影から剥がれ出る。
それは完全な人型ではない。無数の筆致と修正の痕でできた暗い塊だった。一つひとつのストロークは、それぞれ、一度は誰かの写真から「整えられた」痕跡だ。
伸ばされた皺。
明るくし直された白目。
消された涙の筋。
口角の下がりを塗りつぶし、笑い皺に描き換えた線。
「君の見ているものが、本当に『リアル』だと思う?」
久我雅信はカメラを掲げ、レンズを橋の人波へと下げる。
声には少し掠れたところがあった。
「彼らが僕のところに来るのは、本当の自分なんて耐えられないからさ」
影の手が彼の手首からレンズの上へと滑り出て、見えないフードのようにその口を覆う。
「カメラ、見て」
彼はそっと言う。
その一言は、どんなアナウンスよりも柔らかかった。
橋の上の数人が同時に顔を上げる。もともとただ話しながら、歩きながら通り過ぎるつもりだったのに、なぜか揃って久我雅信のカメラの方を見てしまう。
シャッターが連続して鳴り始める。
一回鳴るごとに、ごく薄い刃が彼らの顔から何かを削り取っていった。
誰かの目の疲れが削ぎ落とされ、礼儀正しい愛想笑いだけが残る。
誰かの眉間のしわが塗りつぶされ、「まあまあうまくやっています」という表情だけが残る。
今にも落ちそうだった口角は上に引き上げられ、SNSに上げても恥ずかしくない「ちゃんと生きてます」な写真へと固定される。
削ぎ取られたものは川には落ちない。そのすべてが久我雅信の背後へと飛んでいく。
残形はその瞬間、一回り膨れ上がる。
それは幽霊のように揺らめく影ではなく、「見せてはいけない感情」で組み上げられた巨大な壁だった。
壁面には、ぼんやりとたくさんの眼が浮かび重なっている。
怒りを湛えながら、無理やり柔和な色に塗り替えられた眼。
倦怠を宿しながら、跡形もなく消された眼。
何かを映す前に、「大丈夫」と一括して補正されてしまった眼。
「君は、彼らが捨てた影を全部、背負って立っている」
劉立澄は一歩、前に出た。
その足取りは急ではないが、はっきりとしたリズムを持っている。
橋の石板の上に、爪先で軽く三度、印をつけるように踏み込んだ。
一歩目は街灯の光が落ちている明るい場所。
二歩目は灯りと灯りのあいだ、わずかな暗がり。
三歩目は水面の反射が橋面に跳ね返っている、ごく小さな光の点。
「澄照歩・三光換位」
それは誰かに聞かせるための技名ではない。彼自身が心の中でそう呼んでいるだけだ。
三種類の異なる光を足場に、足裏と現実空間の「露光の順番」を入れ替える歩法。
見えない取景枠の境界が、その一連のステップに合わせてふるりと揺れる。
橋面にぴたりと張り付いていた何本かの「定形線」が、一瞬だけ弛んだ。シャッタースピードを急に落とされたような感覚。
久我雅信は目を細める。
カメラを手の中で翻し、レンズを下向きにして橋板へと突きつける。
「ピント、外す」
低い声が落ちた。
影の手がレンズに押し当てられ、その前方の空間は、乱暴にピントリングを回されたかのように歪む。
橋板の木目は一枚のパッチに溶け、灯りは大きな光の塊に引き伸ばされ、人影の輪郭は霧となって滲んだ。
その「ぼけ」の一部が、劉立澄の足元へと押し寄せ、彼の輪郭ごと飲み込もうとする。
彼は退かなかった。
剣先をわずかに沈め、ぼやけた影の縁をなぞるように一筋引く。
「澄心剣・裁影」
剣は遅く、しかし正確に動く。
肉眼には見えない層で、彼が行っているのは斬撃ではない。むしろ、より精密なレタッチに近い作業だった。足元の大きな「ぼけの塊」を、橋全体の線から切り出していく。
失焦の影は、真ん中から二つに割れた。
一つは久我雅信の背後へと押し戻され、残形はさらに厚みを増す。
もう一つは、「再ピント合わせ」を強制される。橋板の木目、水面の反射、人が通り過ぎた後に残る靴底の水跡が、ぼやけから一つずつ浮かび上がり、輪郭を取り戻していく。
久我雅信の顔が、ぴくりと引きつった。
それは残形の反応ではない。ずっと以前、写真を始めたばかりのころ、自分のピントがわずかにずれていたことに気づいたときの、あの小さな落胆に近い、身体が覚えている反射だった。
「この一枚、修り過ぎてる」
劉立澄は淡々と言った。
雨はふたりのあいだに垂れ下がり、何度でも撮り直されるフィルムのように流れ続ける。
影の手は彼の肩のラインに沿ってゆっくりと立ち上がり、背後の影から剥がれ出る。
それは完全な人型ではない。無数の筆致と修正の痕でできた暗い塊だった。一つひとつのストロークは、それぞれ、一度は誰かの写真から「整えられた」痕跡だ。
伸ばされた皺。
明るくし直された白目。
消された涙の筋。
口角の下がりを塗りつぶし、笑い皺に描き換えた線。
「君の見ているものが、本当に『リアル』だと思う?」
久我雅信はカメラを掲げ、レンズを橋の人波へと下げる。
声には少し掠れたところがあった。
「彼らが僕のところに来るのは、本当の自分なんて耐えられないからさ」
影の手が彼の手首からレンズの上へと滑り出て、見えないフードのようにその口を覆う。
「カメラ、見て」
彼はそっと言う。
その一言は、どんなアナウンスよりも柔らかかった。
橋の上の数人が同時に顔を上げる。もともとただ話しながら、歩きながら通り過ぎるつもりだったのに、なぜか揃って久我雅信のカメラの方を見てしまう。
シャッターが連続して鳴り始める。
一回鳴るごとに、ごく薄い刃が彼らの顔から何かを削り取っていった。
誰かの目の疲れが削ぎ落とされ、礼儀正しい愛想笑いだけが残る。
誰かの眉間のしわが塗りつぶされ、「まあまあうまくやっています」という表情だけが残る。
今にも落ちそうだった口角は上に引き上げられ、SNSに上げても恥ずかしくない「ちゃんと生きてます」な写真へと固定される。
削ぎ取られたものは川には落ちない。そのすべてが久我雅信の背後へと飛んでいく。
残形はその瞬間、一回り膨れ上がる。
それは幽霊のように揺らめく影ではなく、「見せてはいけない感情」で組み上げられた巨大な壁だった。
壁面には、ぼんやりとたくさんの眼が浮かび重なっている。
怒りを湛えながら、無理やり柔和な色に塗り替えられた眼。
倦怠を宿しながら、跡形もなく消された眼。
何かを映す前に、「大丈夫」と一括して補正されてしまった眼。
「君は、彼らが捨てた影を全部、背負って立っている」
劉立澄は一歩、前に出た。
その足取りは急ではないが、はっきりとしたリズムを持っている。
橋の石板の上に、爪先で軽く三度、印をつけるように踏み込んだ。
一歩目は街灯の光が落ちている明るい場所。
二歩目は灯りと灯りのあいだ、わずかな暗がり。
三歩目は水面の反射が橋面に跳ね返っている、ごく小さな光の点。
「澄照歩・三光換位」
それは誰かに聞かせるための技名ではない。彼自身が心の中でそう呼んでいるだけだ。
三種類の異なる光を足場に、足裏と現実空間の「露光の順番」を入れ替える歩法。
見えない取景枠の境界が、その一連のステップに合わせてふるりと揺れる。
橋面にぴたりと張り付いていた何本かの「定形線」が、一瞬だけ弛んだ。シャッタースピードを急に落とされたような感覚。
久我雅信は目を細める。
カメラを手の中で翻し、レンズを下向きにして橋板へと突きつける。
「ピント、外す」
低い声が落ちた。
影の手がレンズに押し当てられ、その前方の空間は、乱暴にピントリングを回されたかのように歪む。
橋板の木目は一枚のパッチに溶け、灯りは大きな光の塊に引き伸ばされ、人影の輪郭は霧となって滲んだ。
その「ぼけ」の一部が、劉立澄の足元へと押し寄せ、彼の輪郭ごと飲み込もうとする。
彼は退かなかった。
剣先をわずかに沈め、ぼやけた影の縁をなぞるように一筋引く。
「澄心剣・裁影」
剣は遅く、しかし正確に動く。
肉眼には見えない層で、彼が行っているのは斬撃ではない。むしろ、より精密なレタッチに近い作業だった。足元の大きな「ぼけの塊」を、橋全体の線から切り出していく。
失焦の影は、真ん中から二つに割れた。
一つは久我雅信の背後へと押し戻され、残形はさらに厚みを増す。
もう一つは、「再ピント合わせ」を強制される。橋板の木目、水面の反射、人が通り過ぎた後に残る靴底の水跡が、ぼやけから一つずつ浮かび上がり、輪郭を取り戻していく。
久我雅信の顔が、ぴくりと引きつった。
それは残形の反応ではない。ずっと以前、写真を始めたばかりのころ、自分のピントがわずかにずれていたことに気づいたときの、あの小さな落胆に近い、身体が覚えている反射だった。
「この一枚、修り過ぎてる」
劉立澄は淡々と言った。
雨はふたりのあいだに垂れ下がり、何度でも撮り直されるフィルムのように流れ続ける。
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