京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第九話・嵐山・ピントの外れたまま固定された人生(五)

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残形は、さすがに怒ったようだ。

もはや久我雅信の背後に隠れているだけではなく、前方へと伸び出してくる。暗室から無理やり引きずり出された感光紙のように、夜の中で大きく揺れた。

その表面には、無数の画面が重なり合って浮かぶ。

写真館で「もうちょっと笑って」と言われ続けている花嫁。

集合写真の端に追いやられ、中座しようとして呼び戻される会社員。

家族写真で喧嘩の痕跡を隠すように笑顔を張り付けられた誰か。

「知っているか?」

今度、響いているのは久我雅信の声だけではなかった。

喉の奥から別の声が滲み出し、彼本来の声と重なる。

広告コピーの調子。

写真館の店主の説得口調。

親や友人が半ば冗談めかして、半ば圧をかけて言うときの響き。

――「写真はいくらでも撮り直せるけど、人生は撮り直せない」

――「ちょっとくらい直した方が見栄えいいでしょ、誰だってその方が好きだよ」

――「ほら、笑って。そうじゃないと、幸せじゃないみたいに見えちゃうよ」

残形の影の手はカメラを持ち上げ、今度は橋も川も越えて、夜空全体へと向けた。

シャッター音が、連射になって降り注ぐ。

そのたびに、嵐山の山影のどこかが不自然に明るくなり、また別の部分が分厚く塗りつぶされていく。

桂川の水面に連なっていた灯りは、マス目のような線で区切られ、小さな四角に切り刻まれた。

「君は何かを守っているつもりか?」

重ねられた声が冷ややかに問う。

「元々、彼らは他人の視線の中でしか生きていない。

私はただ、その視線を撮り直しているだけだ。少しだけ整ったかたちに」

橋の上の数人が、一斉にスマホのシャッターを押した。

彼らの画面に映る渡月橋には、異常は何もない。むしろいつもよりずっときれいだ。

雨は「ちょうどいい」。

光は「ちょうどいい」。

自分たちの姿も、「ちょうどいい」。

ただ劉立澄にだけ、その画面の裏側に暗室のような空間が格子状に積み上がっていくのが見えていた。

そこには、「見せたくなかった自分のバージョン」が隙間なく詰め込まれている。

辞表を書いた夜、ひとり声を殺して泣いた顔。

告白を断られ、手紙を燃やした背中。

家族と喧嘩したあと、コンビニの隅で冷たい弁当をかき込んでいる姿勢。

「君は、彼らが捨てた影を全部、背負って立っている」

劉立澄は一歩、前に出た。

その足取りは急ではないが、はっきりとしたリズムを持っている。

橋の石板の上に、爪先で軽く三度、印をつけるように踏み込んだ。

一歩目は街灯の光が落ちている明るい場所。

二歩目は灯りと灯りのあいだ、わずかな暗がり。

三歩目は水面の反射が橋面に跳ね返っている、ごく小さな光の点。

「澄照歩・三光換位」

それは誰かに聞かせるための技名ではない。彼自身が心の中でそう呼んでいるだけだ。

三種類の異なる光を足場に、足裏と現実空間の「露光の順番」を入れ替える歩法。

見えない取景枠の境界が、その一連のステップに合わせてふるりと揺れる。

橋面にぴたりと張り付いていた何本かの「定形線」が、一瞬だけ弛んだ。シャッタースピードを急に落とされたような感覚。

久我雅信は目を細める。

カメラを手の中で翻し、レンズを下向きにして橋板へと突きつける。

「ピント、外す」

低い声が落ちた。

影の手がレンズに押し当てられ、その前方の空間は、乱暴にピントリングを回されたかのように歪む。

橋板の木目は一枚のパッチに溶け、灯りは大きな光の塊に引き伸ばされ、人影の輪郭は霧となって滲んだ。

その「ぼけ」の一部が、劉立澄の足元へと押し寄せ、彼の輪郭ごと飲み込もうとする。

彼は退かなかった。

剣先をわずかに沈め、ぼやけた影の縁をなぞるように一筋引く。

「澄心剣・裁影」

剣は遅く、しかし正確に動く。

肉眼には見えない層で、彼が行っているのは斬撃ではない。むしろ、より精密なレタッチに近い作業だった。足元の大きな「ぼけの塊」を、橋全体の線から切り出していく。

失焦の影は、真ん中から二つに割れた。

一つは久我雅信の背後へと押し戻され、残形はさらに厚みを増す。

もう一つは、「再ピント合わせ」を強制される。橋板の木目、水面の反射、人が通り過ぎた後に残る靴底の水跡が、ぼやけから一つずつ浮かび上がり、輪郭を取り戻していく。

久我雅信の顔が、ぴくりと引きつった。

それは残形の反応ではない。ずっと以前、写真を始めたばかりのころ、自分のピントがわずかにずれていたことに気づいたときの、あの小さな落胆に近い、身体が覚えている反射だった。

「この一枚、修り過ぎてる」

劉立澄は淡々と言った。

雨はふたりのあいだに垂れ下がり、何度でも撮り直されるフィルムのように流れ続ける。
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