京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第九話・嵐山・ピントの外れたまま固定された人生(六)

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雨が、ほんのわずかに細くなった。

育ち続けていた残形の壁が、そのとき初めて、一筋の亀裂を許した。

その亀裂は久我雅信の胸元から始まり、カメラを握る手の甲にまで伸びている。長年現像されることのなかった傷跡が、ようやく紙の上に浮かび上がったような線だった。

「見るな」

影の手が、かすかに耳障りな音を立てて叫ぶ。それは人の言葉ではないが、「拒絶」と「否定」がはっきりと伝わる響きだ。

もっと厚い「完璧な写真」を上から貼り付けて、この亀裂をもう一度隠そうとしている。

「君は、彼らの逃げ道を作っているつもりで」

劉立澄は、その様子を見つめながら言う。

「自分の逃げ道も作っていた」

久我雅信の肩が、かすかに震えた。

本当の彼が、影とカメラの隙間から、かろうじて小さなスペースをこじ開ける。声は雨音に消されてしまいそうなほど低い。

「……こうやって撮ってあげないと、きっと、あの人たちは……」

言葉は最後まで続かなかった。影の手がぎゅっと締め付ける。

残形は、大きな布切れになって風にあおられ、こちらへと覆いかぶさってくる。その裂け目を押さえ込むついでに、目の前の厄介な道士も包み込んでしまおうとするかのように。

劉立澄は一歩も退かなかった。

左の掌をそっと剣の峰に添え、右手をわずかにひねって、剣先を前から横向きへと変える。

「澄心剣・断幕」

今度、彼が狙ったのは残形そのものではない。その布のような影が翻る縁に、最も自然に折り目がつく一点だった。

その折り目は、残形を構成する全ての物語に共通する線だ。

カメラに向かって「ここ消してください」と言うたび、人々が無意識に指先で示す、自分の身体のどこかの一点。

「すみません、本当の自分は撮らないでほしい」と心のどこかで願うたび、置かれるひとつの見えない線。

剣先は、その目に見えない折り目に沿って走る。

残形が、鈍い音を立てて裂けた。巨大な幕が中央から引き裂かれる音だ。

切り離された片方は、無数の「捨てられたリアル」を抱えたまま、雨の中へと溶けていく。

桂川の水面には、ごく軽い波紋が幾重にも広がる。波紋の中に、短い泣き声や、押し殺した罵りや、少し不格好な怒りの目つきが、瞬きするように現れては消えた。

それらはもう、誰の上にも戻ってこない。水蒸気のように、夜の中へ散っていった。

残りの半分の残形は、久我雅信自身の影へとしぼみ、もはや自力で動くことはできない。ただ少しだけ濃い陰として、彼の背後に残る。それでも存在はするが、自分から餌を求めて歩き回ることはできなくなった。

久我雅信は、全身から力が抜けたようによろめいた。

カメラが手から滑り落ちかけ、反射的に掴み直す。

今度彼が握り直したのは、「武器」ではなかった。ようやく重さを自覚した「道具」だった。

「……うるさい」

彼は額に手を当てる。声は、普通の中年男の疲れを帯びた声に戻っていた。

「頭の中で、さっきのやつらが、一度に……」

劉立澄は慰めることはせず、軽く頷いただけだ。

「撮り続ければいい」

彼は言った。

「ただ、これからレタッチするときは、よく考えるんだ。

 何を彼らから消しているのか。何を自分の中に積み上げているのか」

久我雅信は目を伏せ、自分の手の中のカメラを見つめた。

レンズの前に浮かんでいた符片は、雨の中で溶けてしまい、薄い水紋だけを残している。

何か言いかけて、彼は結局、低く礼を述べるにとどめた。そして、橋の向こう側の暗がりへと歩み去っていく。

桂川の水は、変わらず流れていた。渡月橋の灯りも、変わらず灯っていた。

ただ、その夜を境に、ここで写真を撮る人たちは、ときどき不思議なことに気づくようになる。

写真の中の自分の皺が、消されていない。

目の下のクマも残っている。

笑顔は少し歪んでいる。

なのに、妙に「自分らしく」見える。

そんな写真を「写りが悪い」と嫌って消してしまう人もいる。

ごく少数だが、その一枚を、人に見せないアルバムの片隅にそっと残しておく人もいた。

残形が断ち切られたあと、ゆっくりと取り戻されていく、ある種の権利だった。

劉立澄は橋を渡り、河岸へ戻った。

雨は少しのあいだ止み、雲の隙間から、夜に磨り減らされたような淡い月光がのぞいている。

彼はすぐに市内へ戻る気にはならず、あの小さな店にもう一度寄り道した。

綾女は窓辺の蝋燭の火を、すでに一度足し直しているところだった。

「その顔は、どこかの『幕』を切り裂いてきた顔だね」

彼女は新しい甘味を運んでくる。今夜の締めくくりは小さな温かい汁粉だった。

ほうじ茶で煮た白玉団子。その中には細かく刻んだ柚子の皮と胡桃が包まれている。汁はさほど甘くないが、心地よい煙のような香ばしさがあった。

「嵐山の夜には、あんまり重たい皿は似合わないから」

綾女は言った。

「幕を切る人間は、戻ってきたら何か温かいものを飲まないと」

彼はいち粒の白玉をすくい上げる。かじると、中から柚子の香りがぱっと弾け、ほうじ茶の苦みと舌の上で絡み合う。

上品とは言い切れないが、とてもはっきりした「生の味」がした。少し粗く、温かく、完璧とは程遠いが、確かに本物だとわかる質感。

彼は小さな帳面を取り出すことはしなかった。ただ心の中で、静かに一行を書き加える。

「第九件:嵐山・ピントの外れたまま固定された人生」

窓の外で、渡月橋の灯りがもう一度強まる。

誰かがスマホを掲げ、夜景に向けてシャッターを切る。

そのときの音は、今度こそただのシャッター音にしか聞こえなかった。
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