京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十話・北野天満宮・天才未遂(一)

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 雨は、夜の闇のどこかから、じわじわとにじみ出してくるようだった。

 土砂降りでもなく、かといってただの霧雨でもない。ほとんど目には見えないほど細い水の気配が、風に運ばれて軒下に薄い湿り気の膜をつくっていく。

北野天満宮、本殿へと続く参道には、石灯籠がひとつひとつ灯っていた。

灯りは雨にいったん折られてから、やわらかくなって石段と、何度も踏まれて艶を帯びた石畳を照らす。苔むしたその表面は、まるで誰かが夜のあいだにそっと油を引いたかのように、しっとりと光っていた。

正式な参拝時間はすでに過ぎている。鳥居の下には、班ごとに整列した社会見学の子どもたちも、ランドセルを背負った中学生たちの姿もない。

ときおり、傘をさした人影がひとつ、ふたつ、赤い柱のあいだから足早に横切っていく。たいていは、帰り道にふと思い立って賽銭を投げに来た会社帰りといった風情だ。

参道の脇にのびる小さな路地に、ひとつだけ、神社とは無関係な灯りがあった。

低い軒先からぶら下がった木の看板。細い筆致で「綾女・季節の小料理」と書かれ、その下に毛筆で気ままに添えられた一行、「受験期限定」。

戸を少し押し開けると、その隙間から、温かな光がどっとこぼれ出た。出汁と卵と白味噌の匂いをまとって。

「二刻ばかり、遅いわね。」

綾女は小さな厨房の奥に立っていた。袖はひじまでまくり上げ、エプロンの裾には拭き取ったタレの跡が少しだけ残っている。壁に掛かった古い振り子時計に一度視線をやってから、入口の方を見る。

「どこかの予備校に、講演にでも引きずられて行ったのかと思ったわ。」

劉立澄は傘をたたみ、先端についた水滴を外で軽く払ってから、戸を閉めた。

店内は、小さなテーブルが四つとカウンターがひとまわり。客は彼ひとりきりだった。

カウンターの前には、すでに小さな盆が用意されている。

厚めに焼かれた玉子焼きが何切れか、きれいに並んでいた。

色は街角の店で出てくる、やけに甘い黄金色ではない。出汁をたっぷり含ませた、少しばかり霞がかったような柔らかな黄色。そのひと切れひと切れの中央に、梅肉が薄く挟まれている。切り口には梅の暗い紅色がうっすらとのぞき、縁には細かく刻んだ紫蘇が、そっとまとわりついていた。

横には小さな磁器の椀。澄んだ出汁が張られ、その上に浮かぶ小口切りの葱が、湯気に揺られてものうげに漂っている。

「受験期メニュー?」

彼は腰を下ろし、箸を手に取った。

「ここしばらく、あなたの目の前に並ぶ顔って、どれも似たようなものでしょ。」

綾女は火加減を少し落とした。土鍋の白味噌仕立ての雑煮が、ゆるやかにぼこぼこと泡を立てている。

「合格、ギリギリ合格、あと一歩で合格、まるで合格しない。」

そう言ってから、すっと指先で玉子焼きの皿を指した。

「まずはこれ。梅で、『試験前は何を食べても喉を通らない』っていう胃を、少しは起こしてあげないと。」

玉子焼きは、箸で持ち上げるとまだほのかに温かく、先端に力を込めると、やわらかな卵がふるりと震えた。

ひと口かじる。卵の甘みと出汁の旨味が口いっぱいに広がり、すぐあとから梅肉の酸が舌をきゅっと締める。その目を覚まさせるような鋭さを、すぐさま高湯の温かさがやさしく受け止める。

それは、「ようやく現実を飲み込めるようになる」味だった。

「最近、天満宮に来るのは、どんな人が多い?」

彼は箸を置き、尋ねた。

「合格した子は、あまり来ないわね。」

綾女は竹の笊を手元に引き寄せた。その中には、軽く焦げ目のついた筍のおにぎりがいくつか並んでいる。刷毛でそこに薄く醤油を塗りながら言う。

「むしろ多いのは、試験を失敗して、もう一度受けろと背中を押された子の親たち。夜になると、よくここに流れてくるわ。」

声に大きな感情はない。あくまで客の流れを語るように続ける。

「古い『合格守り』を返しに来る人もいれば、子どもが小学生のときに書いた絵馬を引っぱり出してきて、あそこにまとめて掛けていく人もいる。」

顎を少し動かして、社の奥の方を示した。

「本当はね、ああいうものは決まりではちゃんと焼いてしまうべきなのよ。」

そこで少し言葉を切ってから、続ける。

「でもね、焼き切ってしまうのが惜しいって人が、どうしてもいる。」

劉立澄は杯を指に挟み、そのざらついた縁を指先で撫でた。

杯には、さきほど温めたばかりの酒が少し。表面に灯りが映り、浅い光の輪が揺れている。

「つまり?」

彼は訊いた。

「つまりね――」

綾女は目を上げ、口もとに笑みとも言えない線を浮かべた。

「今夜、あの絵馬廊下を歩くなら、よく見分けることね。どれが『まだ生きている人間の願い』で、どれが『終われない瞬間の自分』なのか。」

「後者の方が、説得しづらいから。」

ひと言、そう付け足す。

彼は杯の酒を飲み干し、空になった盃を盆の上にそっと伏せた。

「ひと回り、歩いてくる。」

そう言った。

「戻ってきたら、筍のおにぎり。」

綾女は炭火の上でおにぎりを半回転させた。醤油を塗った縁が、薄いカラメル色に変わっていく。

「それに、白味噌の雑煮。」

少し間を置き、何気ないふうでひと言を投げる。

「もし帰りが遅すぎたら、残っているのは汁だけかもね。」

彼は小さく笑い、戸を押して外へ出た。

路地を抜けると、石灯籠の灯りが雨気の中でぼんやりと霞んでいる。遠く本殿の屋根の縁についた金属の飾りは、雨に濡れ、深い光をひと筋返していた。
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