京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
56 / 109

第十話・北野天満宮・天才未遂(二)

しおりを挟む
絵馬廊下は、夜になると昼間よりもずっと静かだ。

木造の回廊が、境内の一角をぐるりと囲んで伸びている。軒下には絵馬が幾重にも吊るされていた。

昼間なら、小学生が描いた、形のいびつな牛の絵が掛けられる。中学生は「志望校合格を願う」と書き、高校生ともなれば、板一枚いっぱいに「絶対合格」の四文字だけを大きく残し、名前まできちんと書き添えていく。

夜になると、人影は消え、残るのは木の板と木の板が、かすかに擦れ合う音ばかり。

雨が瓦を叩き、軒を伝って滴り落ちる。その雫が絵馬の端にぽつり、ぽつりと痕を残していく。

灯りに照らされた文字は、そのぶんだけ濃く見える。墨のにじんだ跡の中には、何年も前に書かれた文字が、雨でふたたび呼び覚まされたように浮かび上がるものもあった。

劉立澄はゆっくりと廊下に足を踏み入れた。

歩みは早くない。絵馬の列を一つ抜けるごとに、視線を少しだけ留めていく。

ある絵馬には、「○○高校合格」「国公立大学に受かりますように」と書かれている。

筆跡はまだ幼く、言葉の調子だけが妙に力んでいる。「絶対に」「必ず」の文字が、歯を食いしばるような勢いで刻まれていた。

陽に焼けて色の抜けた絵馬もある。木目が表に出て、文字はほとんど読めなくなっているが、「ありがとう」「合格」「これまで」といった片言だけは、かろうじて判別できた。

回廊の向こうから風が吹き抜け、絵馬の列が一斉に鳴った。

その瞬間、灯籠の灯りが揺れて、影の一部が、ほんの少しだけ別の形に変わった。

本来なら、地面と柱には、きちんと整った板の影だけが落ちるはずだ。だが今夜は、その影の上に、もう一層、薄く半透明な影が重なっている。

それは板の影というより、一枚一枚、平たく伸ばされた紙の影だった。

模試の成績表。

「全国模試優良者」の表彰状。

かつて賞状を貼っていたときに縁取りに使われた飾り枠の痕。

そういったものの紙影が、地面の上でかすかに波打ちながら、風に揺れる紙魚の群れのように、廊下の下を泳ぎまわっている。

彼は足を止めた。

ひとつの古い絵馬が、周りのものより少しだけ高い位置に掛かっている。その上には、何十年も前の年号が記されていた。鋭い筆致の毛筆で、「首席入学を誓い、託された期待に背かぬこと」と記してある。

絵馬の下に落ちている影は、もはや板の形をしていない。そこにあるのは、一枚の満点答案用紙の影だった。

その紙面には、ひとつひとつの丸印がやけに鮮やかに浮かび、点数欄には力任せに書かれた「100」の数字が、今まさに書かれたばかりのような濃さで刻まれている。

その紙影のまわりには、さらに細かな紙片が、取り巻くように漂っていた。

「天才」「神童」「本校史上最強」――そんな文句が何度も書かれ、何度も切り抜かれ、空気の中に貼りついている。

そこには目も、口もない。

だが、その紙片が集まっているあたりの空気だけが、異様に張りつめていた。時間が「成績発表の日」という一点から動かず、誰ひとりとして前に進もうとしない。

彼は手を伸ばし、指先を紙影の目前で止めた。

鼻先をかすめたのは、ごく薄い匂いだった。

香の煙ではない。試験会場に特有の匂い――配られたばかりの答案用紙、ボールペンのインク、まだ朝のうちの、空っぽの胃が放つ焦りの気配。

「これは、幽霊なんかじゃない。」

心の中でそっとひとこと、言葉を置く。

「死者の怨みでも、神社に憑いたものでも、どこかの家の先祖でもない。」

回廊の灯りがふっと揺れた。足元の紙影を眺めながら、心の中で言葉をつづける。

「これは、『あのときが一番まぶしかった自分』が、何度も何度も人前に差し出されて、とうとう身体の方がうんざりしてしまって、自分から引きはがした瞬間だけが紙になって、別々に生きているものだ。」

声帯はないのに、紙たちはそれぞれに騒がしい。

どの一枚も、その点数を得意げに吹聴しながら、その点数の先にあるすべてを、ひどく怖がっていた。

彼は手を引こうとしたとき、遠くで誰かが軽く咳払いをした。

絵馬廊下の突き当たり。石段の下に少しだけ開けた空間があり、そこにひとりの中年の男が座っていた。

濃い色のスーツに身を包み、ネクタイを少し緩めている。上着は隣のベンチの背に無造作に掛けてあった。

足もとには黒いブリーフケース。ファスナーは最後まで閉じられておらず、その隙間から、厚く重ねられた試験答案の束と、透明なクリップボードの角がのぞいている。

男の手には古びたノート。その膝の上には、黄ばみかけた一覧表が広げられていた。

一番上の行には太い文字で、こう印刷されている。

「全国模試 優等者」。

「今夜は、少し風が強い。」

男は顔を上げ、澄んだ発音でそう言った。声はややしわがれているが、予備校講師に特有の通る言い回しが残っている。

「その帳簿、飛ばされないように。」

劉立澄は、自分の袖の中の小さな帳面に一度視線を落とし、口もとに薄く笑みを浮かべた。

「大宮先生。」

そう名を呼ぶ。

男は一瞬きょとんとし、それから少し自嘲ぎみに笑った。

「なるほど。噂の方が、うちの広告よりもよく広がっているらしい。」

黄ばんだ一覧表をぱたんと閉じる。

「北野界隈の塾長たちの世界は、狭いからね。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる
キャラ文芸
大陸の宗主国・夏。 北の辺境国・胡から人質同然に送られ、百人目の妃として後宮に入った少女・小蘭。 ある夜、彼女は奔放で軽薄に見える皇子・蒼龍と出会う。 だがその仮面の奥には、皇帝となる宿命と、誰にも明かせぬ孤独が隠されていた。 理不尽な運命に翻弄されながらも、自ら選び取る強さを失わない小蘭。 守るために距離を取ろうとする蒼龍。 嫉妬と陰謀が渦巻く後宮で、二人は惹かれ合い、やがて運命そのものに抗い始める――。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

金の羊亭へようこそ! 〝元〟聖女様の宿屋経営物語

紗々置 遼嘉
ファンタジー
アルシャインは真面目な聖女だった。 しかし、神聖力が枯渇して〝偽聖女〟と罵られて国を追い出された。 郊外に館を貰ったアルシャインは、護衛騎士を付けられた。  そして、そこが酒場兼宿屋だと分かると、復活させようと決意した。 そこには戦争孤児もいて、アルシャインはその子達を養うと決める。 アルシャインの食事処兼、宿屋経営の夢がどんどん形になっていく。 そして、孤児達の成長と日常、たまに恋愛がある物語である。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

捨てられた王妃は情熱王子に攫われて

きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。 貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?  猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。  疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り―― ざまあ系の物語です。

不思議図書館

良玄(りょーげん)
キャラ文芸
異世界転移もの。 主人公は小学生男子。 逆チートもの。

処理中です...