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第十話・北野天満宮・天才未遂(二)
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絵馬廊下は、夜になると昼間よりもずっと静かだ。
木造の回廊が、境内の一角をぐるりと囲んで伸びている。軒下には絵馬が幾重にも吊るされていた。
昼間なら、小学生が描いた、形のいびつな牛の絵が掛けられる。中学生は「志望校合格を願う」と書き、高校生ともなれば、板一枚いっぱいに「絶対合格」の四文字だけを大きく残し、名前まできちんと書き添えていく。
夜になると、人影は消え、残るのは木の板と木の板が、かすかに擦れ合う音ばかり。
雨が瓦を叩き、軒を伝って滴り落ちる。その雫が絵馬の端にぽつり、ぽつりと痕を残していく。
灯りに照らされた文字は、そのぶんだけ濃く見える。墨のにじんだ跡の中には、何年も前に書かれた文字が、雨でふたたび呼び覚まされたように浮かび上がるものもあった。
劉立澄はゆっくりと廊下に足を踏み入れた。
歩みは早くない。絵馬の列を一つ抜けるごとに、視線を少しだけ留めていく。
ある絵馬には、「○○高校合格」「国公立大学に受かりますように」と書かれている。
筆跡はまだ幼く、言葉の調子だけが妙に力んでいる。「絶対に」「必ず」の文字が、歯を食いしばるような勢いで刻まれていた。
陽に焼けて色の抜けた絵馬もある。木目が表に出て、文字はほとんど読めなくなっているが、「ありがとう」「合格」「これまで」といった片言だけは、かろうじて判別できた。
回廊の向こうから風が吹き抜け、絵馬の列が一斉に鳴った。
その瞬間、灯籠の灯りが揺れて、影の一部が、ほんの少しだけ別の形に変わった。
本来なら、地面と柱には、きちんと整った板の影だけが落ちるはずだ。だが今夜は、その影の上に、もう一層、薄く半透明な影が重なっている。
それは板の影というより、一枚一枚、平たく伸ばされた紙の影だった。
模試の成績表。
「全国模試優良者」の表彰状。
かつて賞状を貼っていたときに縁取りに使われた飾り枠の痕。
そういったものの紙影が、地面の上でかすかに波打ちながら、風に揺れる紙魚の群れのように、廊下の下を泳ぎまわっている。
彼は足を止めた。
ひとつの古い絵馬が、周りのものより少しだけ高い位置に掛かっている。その上には、何十年も前の年号が記されていた。鋭い筆致の毛筆で、「首席入学を誓い、託された期待に背かぬこと」と記してある。
絵馬の下に落ちている影は、もはや板の形をしていない。そこにあるのは、一枚の満点答案用紙の影だった。
その紙面には、ひとつひとつの丸印がやけに鮮やかに浮かび、点数欄には力任せに書かれた「100」の数字が、今まさに書かれたばかりのような濃さで刻まれている。
その紙影のまわりには、さらに細かな紙片が、取り巻くように漂っていた。
「天才」「神童」「本校史上最強」――そんな文句が何度も書かれ、何度も切り抜かれ、空気の中に貼りついている。
そこには目も、口もない。
だが、その紙片が集まっているあたりの空気だけが、異様に張りつめていた。時間が「成績発表の日」という一点から動かず、誰ひとりとして前に進もうとしない。
彼は手を伸ばし、指先を紙影の目前で止めた。
鼻先をかすめたのは、ごく薄い匂いだった。
香の煙ではない。試験会場に特有の匂い――配られたばかりの答案用紙、ボールペンのインク、まだ朝のうちの、空っぽの胃が放つ焦りの気配。
「これは、幽霊なんかじゃない。」
心の中でそっとひとこと、言葉を置く。
「死者の怨みでも、神社に憑いたものでも、どこかの家の先祖でもない。」
回廊の灯りがふっと揺れた。足元の紙影を眺めながら、心の中で言葉をつづける。
「これは、『あのときが一番まぶしかった自分』が、何度も何度も人前に差し出されて、とうとう身体の方がうんざりしてしまって、自分から引きはがした瞬間だけが紙になって、別々に生きているものだ。」
声帯はないのに、紙たちはそれぞれに騒がしい。
どの一枚も、その点数を得意げに吹聴しながら、その点数の先にあるすべてを、ひどく怖がっていた。
彼は手を引こうとしたとき、遠くで誰かが軽く咳払いをした。
絵馬廊下の突き当たり。石段の下に少しだけ開けた空間があり、そこにひとりの中年の男が座っていた。
濃い色のスーツに身を包み、ネクタイを少し緩めている。上着は隣のベンチの背に無造作に掛けてあった。
足もとには黒いブリーフケース。ファスナーは最後まで閉じられておらず、その隙間から、厚く重ねられた試験答案の束と、透明なクリップボードの角がのぞいている。
男の手には古びたノート。その膝の上には、黄ばみかけた一覧表が広げられていた。
一番上の行には太い文字で、こう印刷されている。
「全国模試 優等者」。
「今夜は、少し風が強い。」
男は顔を上げ、澄んだ発音でそう言った。声はややしわがれているが、予備校講師に特有の通る言い回しが残っている。
「その帳簿、飛ばされないように。」
劉立澄は、自分の袖の中の小さな帳面に一度視線を落とし、口もとに薄く笑みを浮かべた。
「大宮先生。」
そう名を呼ぶ。
男は一瞬きょとんとし、それから少し自嘲ぎみに笑った。
「なるほど。噂の方が、うちの広告よりもよく広がっているらしい。」
黄ばんだ一覧表をぱたんと閉じる。
「北野界隈の塾長たちの世界は、狭いからね。」
木造の回廊が、境内の一角をぐるりと囲んで伸びている。軒下には絵馬が幾重にも吊るされていた。
昼間なら、小学生が描いた、形のいびつな牛の絵が掛けられる。中学生は「志望校合格を願う」と書き、高校生ともなれば、板一枚いっぱいに「絶対合格」の四文字だけを大きく残し、名前まできちんと書き添えていく。
夜になると、人影は消え、残るのは木の板と木の板が、かすかに擦れ合う音ばかり。
雨が瓦を叩き、軒を伝って滴り落ちる。その雫が絵馬の端にぽつり、ぽつりと痕を残していく。
灯りに照らされた文字は、そのぶんだけ濃く見える。墨のにじんだ跡の中には、何年も前に書かれた文字が、雨でふたたび呼び覚まされたように浮かび上がるものもあった。
劉立澄はゆっくりと廊下に足を踏み入れた。
歩みは早くない。絵馬の列を一つ抜けるごとに、視線を少しだけ留めていく。
ある絵馬には、「○○高校合格」「国公立大学に受かりますように」と書かれている。
筆跡はまだ幼く、言葉の調子だけが妙に力んでいる。「絶対に」「必ず」の文字が、歯を食いしばるような勢いで刻まれていた。
陽に焼けて色の抜けた絵馬もある。木目が表に出て、文字はほとんど読めなくなっているが、「ありがとう」「合格」「これまで」といった片言だけは、かろうじて判別できた。
回廊の向こうから風が吹き抜け、絵馬の列が一斉に鳴った。
その瞬間、灯籠の灯りが揺れて、影の一部が、ほんの少しだけ別の形に変わった。
本来なら、地面と柱には、きちんと整った板の影だけが落ちるはずだ。だが今夜は、その影の上に、もう一層、薄く半透明な影が重なっている。
それは板の影というより、一枚一枚、平たく伸ばされた紙の影だった。
模試の成績表。
「全国模試優良者」の表彰状。
かつて賞状を貼っていたときに縁取りに使われた飾り枠の痕。
そういったものの紙影が、地面の上でかすかに波打ちながら、風に揺れる紙魚の群れのように、廊下の下を泳ぎまわっている。
彼は足を止めた。
ひとつの古い絵馬が、周りのものより少しだけ高い位置に掛かっている。その上には、何十年も前の年号が記されていた。鋭い筆致の毛筆で、「首席入学を誓い、託された期待に背かぬこと」と記してある。
絵馬の下に落ちている影は、もはや板の形をしていない。そこにあるのは、一枚の満点答案用紙の影だった。
その紙面には、ひとつひとつの丸印がやけに鮮やかに浮かび、点数欄には力任せに書かれた「100」の数字が、今まさに書かれたばかりのような濃さで刻まれている。
その紙影のまわりには、さらに細かな紙片が、取り巻くように漂っていた。
「天才」「神童」「本校史上最強」――そんな文句が何度も書かれ、何度も切り抜かれ、空気の中に貼りついている。
そこには目も、口もない。
だが、その紙片が集まっているあたりの空気だけが、異様に張りつめていた。時間が「成績発表の日」という一点から動かず、誰ひとりとして前に進もうとしない。
彼は手を伸ばし、指先を紙影の目前で止めた。
鼻先をかすめたのは、ごく薄い匂いだった。
香の煙ではない。試験会場に特有の匂い――配られたばかりの答案用紙、ボールペンのインク、まだ朝のうちの、空っぽの胃が放つ焦りの気配。
「これは、幽霊なんかじゃない。」
心の中でそっとひとこと、言葉を置く。
「死者の怨みでも、神社に憑いたものでも、どこかの家の先祖でもない。」
回廊の灯りがふっと揺れた。足元の紙影を眺めながら、心の中で言葉をつづける。
「これは、『あのときが一番まぶしかった自分』が、何度も何度も人前に差し出されて、とうとう身体の方がうんざりしてしまって、自分から引きはがした瞬間だけが紙になって、別々に生きているものだ。」
声帯はないのに、紙たちはそれぞれに騒がしい。
どの一枚も、その点数を得意げに吹聴しながら、その点数の先にあるすべてを、ひどく怖がっていた。
彼は手を引こうとしたとき、遠くで誰かが軽く咳払いをした。
絵馬廊下の突き当たり。石段の下に少しだけ開けた空間があり、そこにひとりの中年の男が座っていた。
濃い色のスーツに身を包み、ネクタイを少し緩めている。上着は隣のベンチの背に無造作に掛けてあった。
足もとには黒いブリーフケース。ファスナーは最後まで閉じられておらず、その隙間から、厚く重ねられた試験答案の束と、透明なクリップボードの角がのぞいている。
男の手には古びたノート。その膝の上には、黄ばみかけた一覧表が広げられていた。
一番上の行には太い文字で、こう印刷されている。
「全国模試 優等者」。
「今夜は、少し風が強い。」
男は顔を上げ、澄んだ発音でそう言った。声はややしわがれているが、予備校講師に特有の通る言い回しが残っている。
「その帳簿、飛ばされないように。」
劉立澄は、自分の袖の中の小さな帳面に一度視線を落とし、口もとに薄く笑みを浮かべた。
「大宮先生。」
そう名を呼ぶ。
男は一瞬きょとんとし、それから少し自嘲ぎみに笑った。
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