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第十話・北野天満宮・天才未遂(三)
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大宮俊哉――その名前は、この近辺の親たちのあいだで、よく効く札だった。
塾のチラシには、はっきりとこう書かれている。
「当塾長・大宮俊哉。某年全国模試にて上位入賞。京都の名門校出身。指導生徒合格実績多数。」
写真の中の彼は、眼鏡をかけ、ほどよい笑顔でホワイトボードの前に立っている。
ホワイトボードの端には、わざと見えるように拡大コピーされた「合格通知」の数枚が貼られていた。
現実の彼はといえば――今、看板から削ぎ取られた光沢をすべて抜き取られたように、ただの、少し疲れた中年の輪郭となってそこに座っている。
「君も、『受験指導学』でも学びに来たのかい?」
彼はノートを脇に置き、足先で地面の空き缶を軽く蹴ってベンチの下へ追いやった。
「それとも、君の帳簿の相手が、物から人間に変わったとか?」
「今夜書くのは、あなたの塾じゃない。」
劉立澄は数歩近づき、彼の真正面の石段の上に立った。
「この場所の勘定だ。」
視線を上げる。絵馬の列が視界の端から端まで続く。
風がひと渡り吹き抜け、木板が擦れ合う音が、一斉に響いた。か細いのに、どこか頑なな拍手のようにも聞こえる。
「天満宮か。」
大宮は仰向けに空を見上げ、喉ぼとけを一度上下させた。
「高二のときに初めて来て、お願いしたのも、ここだったな。」
指先を伸ばし、少し離れたところに掛かっている一枚の色褪せた絵馬を指す。
そこには、彼が少年だったころの名前が書かれている。墨は薄くなっているが、筆勢にはまだ、若さゆえの負けん気の鋭さが残っていた。
「その年の模試で、僕は校内一番だった。」
彼はかすかな笑みを漏らした。その笑いは、ごく軽い。
「全国の順位も、まあ悪くなかった。先生も、親も、親戚も、みんなが同じことを言ったよ――『そのままの調子でいけば、東大の席はもうひとつ空いているようなものだ』って。」
話しながら、大宮は膝の上の古い一覧表を開いた。
紙は乾ききって脆く、しかし上に並んだ文字はどれもきっちりと読める。
指先をそっとすべらせていき、一行の上で止める。
そこには彼自身の名前と、それに続く、見栄えのする数字の列が記されていた。
指がその一点に触れた瞬間、見えないスイッチが押されたようだった。
彼の背後の影が、わずかに揺らいだ。
灯りは横から差し込み、石畳に人ひとりぶんの輪郭をくっきりと描き出している。
その輪郭の縁から、足首のあたりを起点に、もうひとつ、より細く、よりまっすぐな影が剥がれ出してくる。
その二枚目の影は、本人より十数歳若く見えた。姿勢も違う。
四十代の男にありがちな、力の抜けた肩ではない。十七歳の少年が背筋を伸ばし、少しだけ顎を上げているときの姿勢だ。
彼が握っているのは、ブリーフケースではない。一枚の成績表。
紙影の上で、その数字だけが眩しすぎるほどに光っている。
「それから?」
劉立澄が問いかける。
「それからはね。」
大宮は首を少し傾げ、記憶をたどるように言った。
「それからは……そこまで大したことも、なくなった。」
大学以降の起伏について、彼は細かく語ろうとはしなかった。
けれど、詳しく語らなくても、おおよそのことは想像がつく。――問題はどんどん難しくなり、競争も形を変え、順位そのものの意味は薄れ、かつて眩しかった「一番」は、やがてただのひとコマに押し込まれる。
「でもね、親たちはそんなこと、どうでもいいんだ。」
掌を見つめながら言う。その掌は、何度も赤ペンを取り上げては置いてきた掌だ。
「覚えているのはひとつだけ――『あなたは昔、学校で一番だった』ってこと。」
「生徒たちも、細かい事情なんて気にしない。チラシのあの一行だけを見ている。」
そこで言葉を止め、親たちの口調を真似てみせる。
「『うちの子も、あのときのあなたみたいな天才にしてやってください』。」
その言葉が落ちるや、大宮の背後の「少年」の影が、わずかに顔を上げた。
影の顔立ちはおぼろげで、くっきりとは見えない。それでも、どこか挑みかかるような笑みが浮かんでいることだけはわかる。
それは、成績掲示板の前で、自分の名前を見つけたときの、大宮俊哉・十七歳の表情だった。
影の手から、赤いペンがするりと伸び出し、空中で一振りされる。細い赤い光が弧を描いた。
膝にのせていた透明のクリップボードも、連動するようにびくりと震えた。
クリップボードの表面は、それまではただの透明なプラスチックにすぎなかった。だが今は、中身が水で満たされたかのように揺らぎつつ、一枚の「成績の鏡」としてその像を顕にしはじめている。
そこには一人の名前だけでなく、びっしりと埋まった欄が浮かび上がっていた。
それぞれの生徒の点数、順位、偏差値、合格可能性評定。
数字は心臓の鼓動のように点滅しつつも、そこには体温がない。
「先生、塾長、指導者……」
少年の影の声が、大宮の背中からではなく、空気そのものを振わせるように響いた。
「君は彼らを、かつての自分と同じ位置まで押し上げる責任がある。そうでなければ、君のあの一行の数字は、ただの自慢話でしかなかったと証明されてしまう。」
その声には、若いころの鋭さと、いまの大宮の疲弊が、奇妙に重なり合っていた。
「ほら、見てごらん。」
影が手を上げ、赤ペンの先で空を指し示す。
絵馬廊下の奥で、紙影たちがざわりと動いた。
成績表の影が、一枚また一枚と、地面や柱の影、軒の陰から浮かび上がる。
呼び起こされた紙魚の群れのように、彼らは廊下の出口へと向かって合流していった。
「天才未遂。」
劉立澄は、胸の内で静かにその言葉をつぶやいた。
「もっと完璧な自分になりたい」でも、「あのときやっておけばよかった」でもない。
――「自分はかつてここまで良かった。だから、お前たち全員で証明しろ。この一瞬が、一生かけて騒ぎ立てるだけの価値があったのだと。」
彼はその影を見つめ、しばらく黙った。
「大宮さん。」
口を開く。
「あなたは今、ほんとうに教えているのは、生徒なのか。それとも、その影の弟子集めをしているのか。」
塾のチラシには、はっきりとこう書かれている。
「当塾長・大宮俊哉。某年全国模試にて上位入賞。京都の名門校出身。指導生徒合格実績多数。」
写真の中の彼は、眼鏡をかけ、ほどよい笑顔でホワイトボードの前に立っている。
ホワイトボードの端には、わざと見えるように拡大コピーされた「合格通知」の数枚が貼られていた。
現実の彼はといえば――今、看板から削ぎ取られた光沢をすべて抜き取られたように、ただの、少し疲れた中年の輪郭となってそこに座っている。
「君も、『受験指導学』でも学びに来たのかい?」
彼はノートを脇に置き、足先で地面の空き缶を軽く蹴ってベンチの下へ追いやった。
「それとも、君の帳簿の相手が、物から人間に変わったとか?」
「今夜書くのは、あなたの塾じゃない。」
劉立澄は数歩近づき、彼の真正面の石段の上に立った。
「この場所の勘定だ。」
視線を上げる。絵馬の列が視界の端から端まで続く。
風がひと渡り吹き抜け、木板が擦れ合う音が、一斉に響いた。か細いのに、どこか頑なな拍手のようにも聞こえる。
「天満宮か。」
大宮は仰向けに空を見上げ、喉ぼとけを一度上下させた。
「高二のときに初めて来て、お願いしたのも、ここだったな。」
指先を伸ばし、少し離れたところに掛かっている一枚の色褪せた絵馬を指す。
そこには、彼が少年だったころの名前が書かれている。墨は薄くなっているが、筆勢にはまだ、若さゆえの負けん気の鋭さが残っていた。
「その年の模試で、僕は校内一番だった。」
彼はかすかな笑みを漏らした。その笑いは、ごく軽い。
「全国の順位も、まあ悪くなかった。先生も、親も、親戚も、みんなが同じことを言ったよ――『そのままの調子でいけば、東大の席はもうひとつ空いているようなものだ』って。」
話しながら、大宮は膝の上の古い一覧表を開いた。
紙は乾ききって脆く、しかし上に並んだ文字はどれもきっちりと読める。
指先をそっとすべらせていき、一行の上で止める。
そこには彼自身の名前と、それに続く、見栄えのする数字の列が記されていた。
指がその一点に触れた瞬間、見えないスイッチが押されたようだった。
彼の背後の影が、わずかに揺らいだ。
灯りは横から差し込み、石畳に人ひとりぶんの輪郭をくっきりと描き出している。
その輪郭の縁から、足首のあたりを起点に、もうひとつ、より細く、よりまっすぐな影が剥がれ出してくる。
その二枚目の影は、本人より十数歳若く見えた。姿勢も違う。
四十代の男にありがちな、力の抜けた肩ではない。十七歳の少年が背筋を伸ばし、少しだけ顎を上げているときの姿勢だ。
彼が握っているのは、ブリーフケースではない。一枚の成績表。
紙影の上で、その数字だけが眩しすぎるほどに光っている。
「それから?」
劉立澄が問いかける。
「それからはね。」
大宮は首を少し傾げ、記憶をたどるように言った。
「それからは……そこまで大したことも、なくなった。」
大学以降の起伏について、彼は細かく語ろうとはしなかった。
けれど、詳しく語らなくても、おおよそのことは想像がつく。――問題はどんどん難しくなり、競争も形を変え、順位そのものの意味は薄れ、かつて眩しかった「一番」は、やがてただのひとコマに押し込まれる。
「でもね、親たちはそんなこと、どうでもいいんだ。」
掌を見つめながら言う。その掌は、何度も赤ペンを取り上げては置いてきた掌だ。
「覚えているのはひとつだけ――『あなたは昔、学校で一番だった』ってこと。」
「生徒たちも、細かい事情なんて気にしない。チラシのあの一行だけを見ている。」
そこで言葉を止め、親たちの口調を真似てみせる。
「『うちの子も、あのときのあなたみたいな天才にしてやってください』。」
その言葉が落ちるや、大宮の背後の「少年」の影が、わずかに顔を上げた。
影の顔立ちはおぼろげで、くっきりとは見えない。それでも、どこか挑みかかるような笑みが浮かんでいることだけはわかる。
それは、成績掲示板の前で、自分の名前を見つけたときの、大宮俊哉・十七歳の表情だった。
影の手から、赤いペンがするりと伸び出し、空中で一振りされる。細い赤い光が弧を描いた。
膝にのせていた透明のクリップボードも、連動するようにびくりと震えた。
クリップボードの表面は、それまではただの透明なプラスチックにすぎなかった。だが今は、中身が水で満たされたかのように揺らぎつつ、一枚の「成績の鏡」としてその像を顕にしはじめている。
そこには一人の名前だけでなく、びっしりと埋まった欄が浮かび上がっていた。
それぞれの生徒の点数、順位、偏差値、合格可能性評定。
数字は心臓の鼓動のように点滅しつつも、そこには体温がない。
「先生、塾長、指導者……」
少年の影の声が、大宮の背中からではなく、空気そのものを振わせるように響いた。
「君は彼らを、かつての自分と同じ位置まで押し上げる責任がある。そうでなければ、君のあの一行の数字は、ただの自慢話でしかなかったと証明されてしまう。」
その声には、若いころの鋭さと、いまの大宮の疲弊が、奇妙に重なり合っていた。
「ほら、見てごらん。」
影が手を上げ、赤ペンの先で空を指し示す。
絵馬廊下の奥で、紙影たちがざわりと動いた。
成績表の影が、一枚また一枚と、地面や柱の影、軒の陰から浮かび上がる。
呼び起こされた紙魚の群れのように、彼らは廊下の出口へと向かって合流していった。
「天才未遂。」
劉立澄は、胸の内で静かにその言葉をつぶやいた。
「もっと完璧な自分になりたい」でも、「あのときやっておけばよかった」でもない。
――「自分はかつてここまで良かった。だから、お前たち全員で証明しろ。この一瞬が、一生かけて騒ぎ立てるだけの価値があったのだと。」
彼はその影を見つめ、しばらく黙った。
「大宮さん。」
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