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第十話・北野天満宮・天才未遂(四)
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時計のない場所で、鈴の音が鳴った。
神社の鐘でも、携帯のアラームでもない。誰もがよく知っている、あの音。
――「試験を始めてください。」の前に鳴る、短い合図の音。
絵馬廊下の外、石段の上で、何人かの足が同時に止まった。
一組の夫婦が、ちょうど成人したばかりの息子を連れている。三人とも、雨の湿気をそのまま身にまとっていた。
父親の手には、さきほどプリントアウトされたばかりの成績通知。汗と雨でしっとり濡れ、紙がわずかに柔らかくなっている。
母親のバッグからは、「合格祈願」と刺繍された去年のお守りの房が覗いていた。
もう一人、女子大学生風の若い女性が、廊下の入口近くに立っている。肩には鞄、手には差し戻された受験票。目の焦点はどこか宙を彷徨っていた。
彼らは互いに面識はない。それでも何故か同じ瞬間、同じ方向――絵馬廊下の奥――へと視線を向ける。
そのあたりの空気が、見えない糸でぴんと張られたようだった。
石畳の上に、淡い光が薄く広がる。その中にうっすらと、机と椅子の列が見える。
脚のない机。かつての試験会場と同じ配置。互いに腕一本ぶんだけ離れていて、多くもなく少なくもない距離。
彼ら自身の影が、いつのまにか伸びて形を変え、机に向かって座る姿勢へと変わっていた。
「解答用紙には、氏名と受験番号をていねいに記入してください。」
感情の欠片もない声が、耳のすぐそばで鳴り響く。
現実のアナウンスではない。記憶の底にしまってあった試験放送が、そのまま今夜の空気の中に引き出されてきたのだ。
絵馬のあいだから紙影が溢れ出し、彼らの足首に絡みつく。
どの紙影にも、それぞれ一行の言葉が刻まれていた。
「もう一度本気を出せば、まだ挽回できる。」
「今回は準備が足りなかっただけだ。」
「あなたはもともと頭のいい子なのよ。」
あまりにも聞き慣れた言葉。
あまりに耳に馴染みすぎて、それが自分の声なのか、親や先生、塾の決まり文句なのか、区別がつかない。
大宮俊哉は、ベンチの横に立っていた。手にした透明のクリップボードは、もはや形を変えていた。
その板には、今夜ここにいる彼らの、圧縮された人生の軌跡が浮かび上がっている。
生まれた年。通ってきた学校。受けた試験の回数。偏差値。各家庭における「希望指数」。
「君たちは失敗なんかじゃない。」
少年の影が彼の背後に立ち、過剰なほど優しい声で囁く。
「ただ、まだ正しく使われていないだけだ。」
赤ペンがクリップボードの上にそっと触れる。
そこに描かれた軌跡が、一瞬で三つの「標準ルート」に並び替えられた。
「一年浪人」「レベルを落とした志望校に変更」「進学を諦めて、安定した仕事に方向転換」。
それぞれの選択肢の後ろには、想定される満足度、必要な時間、家庭内の圧力指数が添えられている。
「社長、塾長、教師……」
影は静かに言葉を継いだ。
「君は彼らを、かつての自分と同じ位置まで押し上げる責任がある。そうでなければ、君のあの一行の数字は、ただの自慢話でしかなかったと証明されてしまう。」
その言葉が落ちるや、大宮の背後の少年の影が、わずかに顔を上げた。
影の顔立ちはおぼろげで、くっきりとは見えない。それでも、どこか挑みかかるような笑みが浮かんでいることだけはわかる。
「ほら、見てごらん。」
影が手を上げ、赤ペンの先で空を指し示す。
絵馬廊下の奥で、紙影たちがざわりと動いた。
成績表の影が、一枚また一枚と、地面や柱の影、軒の陰から浮かび上がる。
呼び起こされた紙魚の群れのように、彼らは廊下の出口へと向かって合流していった。
「天才未遂。」
劉立澄は、胸の内で静かにその言葉をつぶやいた。
「もっと完璧な自分になりたい」でも、「あのときやっておけばよかった」でもない。
――「自分はかつてここまで良かった。だから、お前たち全員で証明しろ。この一瞬が、一生かけて騒ぎ立てるだけの価値があったのだと。」
彼はその影を見つめ、しばらく黙った。
「大宮さん。」
口を開く。
「あなたは今、ほんとうに教えているのは、生徒なのか。それとも、その影の弟子集めをしているのか。」
神社の鐘でも、携帯のアラームでもない。誰もがよく知っている、あの音。
――「試験を始めてください。」の前に鳴る、短い合図の音。
絵馬廊下の外、石段の上で、何人かの足が同時に止まった。
一組の夫婦が、ちょうど成人したばかりの息子を連れている。三人とも、雨の湿気をそのまま身にまとっていた。
父親の手には、さきほどプリントアウトされたばかりの成績通知。汗と雨でしっとり濡れ、紙がわずかに柔らかくなっている。
母親のバッグからは、「合格祈願」と刺繍された去年のお守りの房が覗いていた。
もう一人、女子大学生風の若い女性が、廊下の入口近くに立っている。肩には鞄、手には差し戻された受験票。目の焦点はどこか宙を彷徨っていた。
彼らは互いに面識はない。それでも何故か同じ瞬間、同じ方向――絵馬廊下の奥――へと視線を向ける。
そのあたりの空気が、見えない糸でぴんと張られたようだった。
石畳の上に、淡い光が薄く広がる。その中にうっすらと、机と椅子の列が見える。
脚のない机。かつての試験会場と同じ配置。互いに腕一本ぶんだけ離れていて、多くもなく少なくもない距離。
彼ら自身の影が、いつのまにか伸びて形を変え、机に向かって座る姿勢へと変わっていた。
「解答用紙には、氏名と受験番号をていねいに記入してください。」
感情の欠片もない声が、耳のすぐそばで鳴り響く。
現実のアナウンスではない。記憶の底にしまってあった試験放送が、そのまま今夜の空気の中に引き出されてきたのだ。
絵馬のあいだから紙影が溢れ出し、彼らの足首に絡みつく。
どの紙影にも、それぞれ一行の言葉が刻まれていた。
「もう一度本気を出せば、まだ挽回できる。」
「今回は準備が足りなかっただけだ。」
「あなたはもともと頭のいい子なのよ。」
あまりにも聞き慣れた言葉。
あまりに耳に馴染みすぎて、それが自分の声なのか、親や先生、塾の決まり文句なのか、区別がつかない。
大宮俊哉は、ベンチの横に立っていた。手にした透明のクリップボードは、もはや形を変えていた。
その板には、今夜ここにいる彼らの、圧縮された人生の軌跡が浮かび上がっている。
生まれた年。通ってきた学校。受けた試験の回数。偏差値。各家庭における「希望指数」。
「君たちは失敗なんかじゃない。」
少年の影が彼の背後に立ち、過剰なほど優しい声で囁く。
「ただ、まだ正しく使われていないだけだ。」
赤ペンがクリップボードの上にそっと触れる。
そこに描かれた軌跡が、一瞬で三つの「標準ルート」に並び替えられた。
「一年浪人」「レベルを落とした志望校に変更」「進学を諦めて、安定した仕事に方向転換」。
それぞれの選択肢の後ろには、想定される満足度、必要な時間、家庭内の圧力指数が添えられている。
「社長、塾長、教師……」
影は静かに言葉を継いだ。
「君は彼らを、かつての自分と同じ位置まで押し上げる責任がある。そうでなければ、君のあの一行の数字は、ただの自慢話でしかなかったと証明されてしまう。」
その言葉が落ちるや、大宮の背後の少年の影が、わずかに顔を上げた。
影の顔立ちはおぼろげで、くっきりとは見えない。それでも、どこか挑みかかるような笑みが浮かんでいることだけはわかる。
「ほら、見てごらん。」
影が手を上げ、赤ペンの先で空を指し示す。
絵馬廊下の奥で、紙影たちがざわりと動いた。
成績表の影が、一枚また一枚と、地面や柱の影、軒の陰から浮かび上がる。
呼び起こされた紙魚の群れのように、彼らは廊下の出口へと向かって合流していった。
「天才未遂。」
劉立澄は、胸の内で静かにその言葉をつぶやいた。
「もっと完璧な自分になりたい」でも、「あのときやっておけばよかった」でもない。
――「自分はかつてここまで良かった。だから、お前たち全員で証明しろ。この一瞬が、一生かけて騒ぎ立てるだけの価値があったのだと。」
彼はその影を見つめ、しばらく黙った。
「大宮さん。」
口を開く。
「あなたは今、ほんとうに教えているのは、生徒なのか。それとも、その影の弟子集めをしているのか。」
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