京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
58 / 109

第十話・北野天満宮・天才未遂(四)

しおりを挟む
時計のない場所で、鈴の音が鳴った。

神社の鐘でも、携帯のアラームでもない。誰もがよく知っている、あの音。

――「試験を始めてください。」の前に鳴る、短い合図の音。

絵馬廊下の外、石段の上で、何人かの足が同時に止まった。

一組の夫婦が、ちょうど成人したばかりの息子を連れている。三人とも、雨の湿気をそのまま身にまとっていた。

父親の手には、さきほどプリントアウトされたばかりの成績通知。汗と雨でしっとり濡れ、紙がわずかに柔らかくなっている。

母親のバッグからは、「合格祈願」と刺繍された去年のお守りの房が覗いていた。

もう一人、女子大学生風の若い女性が、廊下の入口近くに立っている。肩には鞄、手には差し戻された受験票。目の焦点はどこか宙を彷徨っていた。

彼らは互いに面識はない。それでも何故か同じ瞬間、同じ方向――絵馬廊下の奥――へと視線を向ける。

そのあたりの空気が、見えない糸でぴんと張られたようだった。

石畳の上に、淡い光が薄く広がる。その中にうっすらと、机と椅子の列が見える。

脚のない机。かつての試験会場と同じ配置。互いに腕一本ぶんだけ離れていて、多くもなく少なくもない距離。

彼ら自身の影が、いつのまにか伸びて形を変え、机に向かって座る姿勢へと変わっていた。

「解答用紙には、氏名と受験番号をていねいに記入してください。」

感情の欠片もない声が、耳のすぐそばで鳴り響く。

現実のアナウンスではない。記憶の底にしまってあった試験放送が、そのまま今夜の空気の中に引き出されてきたのだ。

絵馬のあいだから紙影が溢れ出し、彼らの足首に絡みつく。

どの紙影にも、それぞれ一行の言葉が刻まれていた。

「もう一度本気を出せば、まだ挽回できる。」

「今回は準備が足りなかっただけだ。」

「あなたはもともと頭のいい子なのよ。」

あまりにも聞き慣れた言葉。

あまりに耳に馴染みすぎて、それが自分の声なのか、親や先生、塾の決まり文句なのか、区別がつかない。

大宮俊哉は、ベンチの横に立っていた。手にした透明のクリップボードは、もはや形を変えていた。

その板には、今夜ここにいる彼らの、圧縮された人生の軌跡が浮かび上がっている。

生まれた年。通ってきた学校。受けた試験の回数。偏差値。各家庭における「希望指数」。

「君たちは失敗なんかじゃない。」

少年の影が彼の背後に立ち、過剰なほど優しい声で囁く。

「ただ、まだ正しく使われていないだけだ。」

赤ペンがクリップボードの上にそっと触れる。

そこに描かれた軌跡が、一瞬で三つの「標準ルート」に並び替えられた。

「一年浪人」「レベルを落とした志望校に変更」「進学を諦めて、安定した仕事に方向転換」。

それぞれの選択肢の後ろには、想定される満足度、必要な時間、家庭内の圧力指数が添えられている。

「社長、塾長、教師……」

影は静かに言葉を継いだ。

「君は彼らを、かつての自分と同じ位置まで押し上げる責任がある。そうでなければ、君のあの一行の数字は、ただの自慢話でしかなかったと証明されてしまう。」

その言葉が落ちるや、大宮の背後の少年の影が、わずかに顔を上げた。

影の顔立ちはおぼろげで、くっきりとは見えない。それでも、どこか挑みかかるような笑みが浮かんでいることだけはわかる。

「ほら、見てごらん。」

影が手を上げ、赤ペンの先で空を指し示す。

絵馬廊下の奥で、紙影たちがざわりと動いた。

成績表の影が、一枚また一枚と、地面や柱の影、軒の陰から浮かび上がる。

呼び起こされた紙魚の群れのように、彼らは廊下の出口へと向かって合流していった。

「天才未遂。」

劉立澄は、胸の内で静かにその言葉をつぶやいた。

「もっと完璧な自分になりたい」でも、「あのときやっておけばよかった」でもない。

――「自分はかつてここまで良かった。だから、お前たち全員で証明しろ。この一瞬が、一生かけて騒ぎ立てるだけの価値があったのだと。」

彼はその影を見つめ、しばらく黙った。

「大宮さん。」

口を開く。

「あなたは今、ほんとうに教えているのは、生徒なのか。それとも、その影の弟子集めをしているのか。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる

gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く ☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~

菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。 だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。 蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。 実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。

処理中です...