京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十話・北野天満宮・天才未遂(五)

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風が、回廊を抜けて吹き込んだ。

軒から落ちる水が風にあおられ、絵馬の端を打つ。木板が次々と震え、ぶつかり合う音が、さっきよりも細かく耳に降り注いだ。

少年の影の瞳に、微かな光の揺らぎが走る。

透明なクリップボードが、鏡のようにわずかに持ち上がる。

その中には、もはや数字や軌跡だけでなく、別の色も滲み始めていた。

――彼がこれまで歩いてきた街の影だ。神社、駅、川べり、講堂。それらが線と記号にまで押しつぶされ、いくつかのマーカーだけで表された地図。

「君も、別の種類の『成功例』に過ぎない。」

影の声が、鋭さを増す。

「ただ、自分にもう少し自由そうな名前を付けただけだ。」

赤ペンが鏡面の上を素早く走る。

「道士」という文字が書き込まれ、その後ろにすぐに疑問符が付け足される。

続けて、いくつかの選択肢が弾き出される。「介入を続ける」「傍観を選ぶ」「システムに取り込まれる」……。

ペン先がくるりと円を描き、そのうちのひとマスを囲もうとした瞬間。

劉立澄は、そっと足を動かした。

下がりもせず、踏み込むこともしない。

まずは一度、屋根の切れ目からのぞくわずかな夜空を見上げる。

それから下を向き、自分の足元の石畳を見た。

そして、一歩目を踏み出す。

石と石の継ぎ目が交わるところ――まるで目に見えない星の位置を踏むように、そっと爪先を置く。

二歩目は半マスだけずらし、別の石の縁に乗せる。

三歩目では踵をわずかにひねり、前二歩の力の流れをきちんと受け止める位置に、静かに重心を落とす。

九歩。軽く、そして乱れなく。

傍から見れば、ただ少し歩いただけにしか見えない。だが、足の裏の下では、星座のような斗(ひしゃく)の形が、ぎゅっと縮小されて組み上がっていた。

「星移・榜眼歩。」

彼は心の中で、その一連の足運びに名を付けた。

さきほどまで、この絵馬廊下全体の時間は、試験のチャイムのように一斉に固定されていた。「準備」「試験中」「結果待ち」という三つの瞬間に、永遠に釘付けにされていたのだ。

いま、その「一斉」が、彼の足元でほんの数秒だけずらされた。

「永遠に試験中」の影の中にいる人びとの呼吸に、ごく小さなズレが生まれる。

自分のペンがずいぶん前から空白の上で止まっていることに、ふと気付く者。

今何の科目を受けているのか、急に思い出せなくなる者。

目の前の答案の問いが、現実の悩みとまったく噛み合っていないことを、不意に理解してしまう者。

その些細なズレだけで、「試験」というものから、神様じみた権威の光輪が一枚はがれ落ちる。

少年の影の顔色が、わずかに変わった。

彼は赤ペンを掲げ、先端を鏡面すれすれまで近づける。

鏡の中の「天才・大宮」の像が、急に鮮明になる。

永遠に十七歳。永遠に一番。永遠に、先生に肩を叩かれて「君はたいしたものだ」と言われた、その瞬間のまま。

影は半歩踏み出した。

地面に散っていた紙影が、一斉に舞い上がる。

それはもはや単なる数字ではない。無数の「成績表を受け取った瞬間」が束ねられ、紙の波となって押し寄せてくる。

顔に一枚貼りつけば、教室のチョークの匂いが鼻を刺す。

胸に一枚当たれば、親からの「やるじゃない」という言葉の、後ろに飲み込まれた一言が聴こえる。

さらに多くの紙が足首に絡みつき、人をひと足、ひと足と試験会場へ引き戻していく。

劉立澄は、あてもなく斬り払ったりはしなかった。

ただ、澄心の剣を身体の前で横に構え、刃先を少しだけ下に向けた。向けられているのは峰。

剣身が、ひそやかに息を吸い込む。

そこに刷り込まれていたインクや活字、くるりと丸で囲まれた数字が、刀の反射の中で、少しずつ色を失っていく。

消されているのではない。

ただ、紙と墨という、本来それが戻るべき単純な姿へと還元されているに過ぎない。

「落墨収影陣。」

左の袖がふわりと揺れ、小さな硯墨の瓶が掌へと滑り落ちた。

それを地面にぱっと撒く。

墨は石畳の隙間を伝い、長年、無数の足が磨き上げてきた浅い溝に沿って、黒い線を広げていく。

厚みはない。ほんの薄い一層だ。だが、絵馬廊下の下に、ひとつの輪を描いていた。

輪の中で、紙影たちの足跡は、やわらかく受け止められる。

空中で暴れていた紙影も、墨の痕に触れた途端、より深い影に誘われるように、するすると沈み込んでいった。

もともと彼らは、生身の人ではない。高く掲げられていた一瞬を切り出した「紙」に過ぎない。ならば、光よりも、墨の方がふさわしい寝床だ。

少年の影の笑みが、ひび割れた。

「君は、彼らを紙に押し戻している。」

噛みしめるように言う。

「何様のつもりだ。君に、あのときの光を理解できるのか。」

「光は、紙の上にだけ残すものじゃない。」

劉立澄の声は、むしろ静かだった。

「光ったならそれでよし。光らなかったなら、それもよし。大事なのは、そのあとも人が歩き続けることだ。」

視線を、少年の影の向こう――大宮俊哉本人へと移す。

中年の男の手が、クリップボードを握り締めたまま震えていた。

さっきの紙の波に巻き込まれたとき、彼自身の記憶もまた、容赦なくめくられていた。

十七歳のあの日。校門の前で、全国優等者名簿の紙を握りしめ、先生に「さすが、うちの天満宮の子だ」と笑われた瞬間。

あのときの彼は、たしかに光っていた。

そのあと何年も、本当にそこから外れていったのも、また事実だ。

「今の君がやっていることは、全部、あの一瞬を笑い話にしないためだ。」

劉立澄は彼に向かって言った。

「でも、考えたことはある? ――誰が決めたんだ。天才の一瞬のあとの人生は、全部『下り坂』としてしか数えちゃいけないって。」

少年の影が、悲鳴とも笑い声ともつかない鋭い音を発した。

彼は大宮の手から赤ペンをもぎ取り、その先端を石畳へと突き立てる。

真紅の線が、石の割れ目を伝って炸裂した。輪を描きながら広がり、「落墨収影陣」の縁に絡みつき、墨の輪を引き裂こうとする。

剣を握る右の手に、わずかな抵抗がかかる。

そのとき、大宮俊哉が動いた。

彼は後ろへ逃げもしなければ、影と共に第二波の攻撃を仕掛けてもこなかった。

代わりに――その赤ペンを、掴みにいった。

少年の影の手首をすり抜け、何度も握り慣れた軸を、自分の掌で包み込む。

その顔に浮かんだ表情は、説明しようのないものだった。

職業として身についた動き。ペンへの執着。そこに薄く混じる、はっきりとした倦怠。

「もう、いい。」

小さな声で言う。

影が固まった。

「あなたは、そのペンで満点を取った。」

影は食い下がる。

「君がつけたひとつひとつの丸とコメントが、他の誰よりもよく分かっていた証拠だ。」

「そうだ。」

大宮は奥歯を噛みしめる。

「でも、いつからか、俺は『この子は疲れてないか』ってことすら、見るのをやめていた。」

彼は勢いよく、そのペンを石畳へ叩きつけた。

ペン先が折れ、芯からあふれた赤いインクが、「落墨収影陣」の縁で墨と混じり合う。

赤と黒が滲み合い、不思議な紫色に変わっていく。

少年の影の輪郭が、びくりと揺らいだ。

その周りに渦巻いていた紙片――「天才」「最強」「絶対」「必ず」といった文字を貼りつけた紙の切れ端たちが、一枚、また一枚とはがれ落ちる。

それは、雨に濡れた古いポスターが壁からずるりと滑り落ちるさまに似ていた。

「お前は……」

影は彼を見つめ、初めて本物の焦りを滲ませた声を出した。

「お前は自分を、ただの凡人だなんて、言わせない……」

「俺は、たまたま何度かいい点を取っただけだ。」

大宮は一語一語を噛みしめながら言った。

「間違った指導もした。新しい出題形式に詰まることだってある。もう誰からも、天才なんて呼ばれない。」

ゆっくりと、息を吸う。

チラシの上でいつも貼り付けていた光を、彼は目の奥から少しずつ引き上げてしまっていく。

「それでも、こうして四十を過ぎるまで、生きてきた。」

その呟きとともに、少年の胸の紙に書かれていた数字の輪郭が、柔らかくにじんだ。

「100」という数字の端が、そこから崩れ始める。

赤い丸は色を失い、ただのインクの染みへと引き戻される。

紙影は、ゆっくりと萎んでいった。

一冊の古い講義プリントが、ようやくページをめくられるところを想像させるような静けさの中で。

「お前は――」

影は手を伸ばした。だが指先で掴めたのは、ひと握りの墨の霧だけだった。

「お前は、自分をただの人間だなんて、言うな……そんなことを言ったら、俺のこの何年は……」

言葉は最後まで届かなかった。

身体は、「落墨収影陣」の深みへと完全に抱き取られ、地面の墨の影のなかへと沈み込んでいく。

輪郭は消え、絵馬の裏側に、ほかより少しだけ濃い影がひとつ増えただけになった。

それは、かつて高く高く掲げられていた賞状が、ようやく引き出しの奥にしまわれ、もはや毎日取り出して見せびらかされなくなったような姿だった。

紙影は静まり返る。

参拝者たちの足もとにまとわりついていた紙片は、一枚ずつ力を失い、ただの濡れた紙切れとなって石畳へ貼りついた。やがて水に押されて隅へと流されていく。

鈴の音は止んでいた。

誰も「試験終了」とは告げなかったが、誰かがそっと、試験会場の扉を開けてくれたような気配があった。

両親は、互いに戸惑った顔を見合わせる。

彼らの手には、まだ成績表が残っている。数字も、そのままだ。

なのに、その数字はさっきほど、痛いほど眩しくも、騒々しくも見えない。

女子大生は、受験票を見つめたまま、長く息を吐いた。

そしてその紙を一度折り、鞄の中へと静かにしまい込む。

「とりあえず、帰ろう。」

小さな声で、自分に向かってそう言った。

大宮俊哉は、ゆっくりと腰を下ろす。

長いあいだ無理に保っていた姿勢から、急に力が抜けたようだった。

劉立澄は澄心の剣を引き、刃を空に溶かすように収めた。飲み干したばかりの墨に呑み込まれるようにして、刃の気配だけが袖口に冷たく残る。

「これは、あなただけの罪じゃない。」

彼は大宮に言った。

「でも、手放すのは、あなただけができることだ。」

大宮は苦く笑う。

「手放したら、その先は?」

「ただの『天才出身塾長』じゃなくて、普通の塾の先生になるだけか。」

「普通の先生は、いいものだよ。」

劉立澄は答えた。

「少なくとも、一人ひとりの子どもを、自分の過去の影としてじゃなく、別の人間として見ていられる。」

外では、夜の雨が石灯籠の屋根を叩き、その灯りが一度だけふっと揺れ、また静かに落ち着いた。
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