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第十三話・東山・囲まれた家(四)
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家の中の明かりが、わずかに黄色味を増した。
電球の色が変わったのではない。
空気そのものに、「人が帰ってくるのを待っている」という滞りが、一層濃くなったのだ。
廊下の突き当たり、壁際に、折り畳み椅子の影がいつの間にか増えている。
椅子の上には、ぼんやりした人影が腰を下ろし、両手を膝に置き、身体をわずかに前に倒している。
まるで、同じ姿勢のまま何夜も過ごしてきたかのように。
畳の間の隅には、さらに濃い影がひとかたまり。
エプロン姿の誰かが、手にふきんを持ったまま、その場に立ち尽くしているような輪郭。
こうした残形たちは、ひと言も発しない。
ただ「場所」を占める――玄関脇、窓辺、電話機のそば、靴箱の前。
家のあらゆる「待つ場所」を埋め尽くす。
梁の上から、かすかな反響が降りてきた。
木の軋みではない。
多くの足音が何度も上書きされ、ひとまとめに再生されているような響き。
その中には、
「今日は私がいるから、あなたは行ってきて」
「帰るときに電話して」
「どうせどこにも行かないし、ここにいるから」
といった、さまざまな声色が混じっている。
綾女はキッチンの戸口から廊下を眺め、ほんの少し眉をひそめた。
「今夜のあなたの家、まるで『留守番総会』でも開いてるみたい。」
「彼らが探しているのは、人じゃなくて家だ。」
劉立澄は梁を仰ぎながら歩を止めない。「ただついでに、この家の生身の人間も、帳簿に書き加えているだけ。」
そう言うと、リビングの中央に進み出て、上を見上げ、天井灯の上の梁をつかむ。
軽く腕に力をこめて跳び上がり、そのまま梁に足をかけた。
梁にほこりはほとんどない。それ自体が、一つの事実を物語っていた――
この家はよく掃除されている。ここには、長いあいだ途切れずに人の気配があった。
梁の上にしゃがみ込み、袖から細い筆を抜き、梁のいくつかの節に、立て続けに筆先を落とす。
梁脊反響陣。
印が結ばれた途端、先ほどまで重なり合って屋内に向かっていた足音の反響が、方向を変え始めた。
もはや家の中へと押し寄せるのではなく、梁の上から折れ曲がって、屋外へ押し戻されていく。
軒下へ、石灯籠のそばへ、路地の角の陰影へ。
「外で待つ人は、外で待て。」
彼は低くつぶやく。「家の中には、今夜ほんとうにここで寝る者だけ残れ。」
畳の間の隅にいた、ふきんを持った影が、ふっと肩を叩かれたように小さく震える。
視線を上げると、卓の上にはまだ湯気を上げる中国料理が並び、箸が二膳、
そしてこの家そのものよりもなお「生きている」熱が漂っているのが見える。
その影の輪郭は、灯りの中で少し薄くなった。
——この家には、もう見張りがいる。
自分の番は、終わった。
そう理解したように。
御子柴は顔を上げ、その一部始終を見ていた。
「あなた、剣ばかりじゃないんだ。」
声には皮肉はなく、ただ職業人としての真剣さだけがあった。「自分の身体みたいに、この家を使っている。」
そう言いながら、彼は手から巻尺を引き出した。
それは布製の古い巻尺で、縁には擦り切れた毛羽立ちが見えるが、目盛りだけは刺すように鮮明だ。
まず玄関からリビングまでの距離を測り、次に畳の間の入口の幅を測り、最後に片方の端を梁に向かって投げた。
布尺の一端は、細い蛇のように梁の柱へと巻き付き、もう一端は御子柴の手に戻る。
彼が軽く引きしぼる。
その瞬間、家全体の空間がごくわずかに歪んだ。
廊下が、半歩だけ長くなったように感じられる。
リビングから畳の間までの距離は、「立ち止まってから、さらに二歩」余計にかかるようになった。
キッチンから玄関までも、目に映る長さは変わらないのに、いつもの床板に足を乗せるまで、なぜか二歩分多く歩かされる。
「家を守る人間は、家の寸法という寸法を何より知っている。」
御子柴は梁の上の劉立澄を仰ぐ。「さっきあなたは四隅歩で、この家に自分の印を押した。
僕がしているのは――あなたの歩幅を書き換えることだけ。」
つま先がひとつ、すっと動く。
玄関のあたりで、存在しないいくつもの靴の影が、一斉に家の内側へ一寸ぶん、ずり込む。
まるで「もう、ここに住み着こう」と決めたかのように。
電球の色が変わったのではない。
空気そのものに、「人が帰ってくるのを待っている」という滞りが、一層濃くなったのだ。
廊下の突き当たり、壁際に、折り畳み椅子の影がいつの間にか増えている。
椅子の上には、ぼんやりした人影が腰を下ろし、両手を膝に置き、身体をわずかに前に倒している。
まるで、同じ姿勢のまま何夜も過ごしてきたかのように。
畳の間の隅には、さらに濃い影がひとかたまり。
エプロン姿の誰かが、手にふきんを持ったまま、その場に立ち尽くしているような輪郭。
こうした残形たちは、ひと言も発しない。
ただ「場所」を占める――玄関脇、窓辺、電話機のそば、靴箱の前。
家のあらゆる「待つ場所」を埋め尽くす。
梁の上から、かすかな反響が降りてきた。
木の軋みではない。
多くの足音が何度も上書きされ、ひとまとめに再生されているような響き。
その中には、
「今日は私がいるから、あなたは行ってきて」
「帰るときに電話して」
「どうせどこにも行かないし、ここにいるから」
といった、さまざまな声色が混じっている。
綾女はキッチンの戸口から廊下を眺め、ほんの少し眉をひそめた。
「今夜のあなたの家、まるで『留守番総会』でも開いてるみたい。」
「彼らが探しているのは、人じゃなくて家だ。」
劉立澄は梁を仰ぎながら歩を止めない。「ただついでに、この家の生身の人間も、帳簿に書き加えているだけ。」
そう言うと、リビングの中央に進み出て、上を見上げ、天井灯の上の梁をつかむ。
軽く腕に力をこめて跳び上がり、そのまま梁に足をかけた。
梁にほこりはほとんどない。それ自体が、一つの事実を物語っていた――
この家はよく掃除されている。ここには、長いあいだ途切れずに人の気配があった。
梁の上にしゃがみ込み、袖から細い筆を抜き、梁のいくつかの節に、立て続けに筆先を落とす。
梁脊反響陣。
印が結ばれた途端、先ほどまで重なり合って屋内に向かっていた足音の反響が、方向を変え始めた。
もはや家の中へと押し寄せるのではなく、梁の上から折れ曲がって、屋外へ押し戻されていく。
軒下へ、石灯籠のそばへ、路地の角の陰影へ。
「外で待つ人は、外で待て。」
彼は低くつぶやく。「家の中には、今夜ほんとうにここで寝る者だけ残れ。」
畳の間の隅にいた、ふきんを持った影が、ふっと肩を叩かれたように小さく震える。
視線を上げると、卓の上にはまだ湯気を上げる中国料理が並び、箸が二膳、
そしてこの家そのものよりもなお「生きている」熱が漂っているのが見える。
その影の輪郭は、灯りの中で少し薄くなった。
——この家には、もう見張りがいる。
自分の番は、終わった。
そう理解したように。
御子柴は顔を上げ、その一部始終を見ていた。
「あなた、剣ばかりじゃないんだ。」
声には皮肉はなく、ただ職業人としての真剣さだけがあった。「自分の身体みたいに、この家を使っている。」
そう言いながら、彼は手から巻尺を引き出した。
それは布製の古い巻尺で、縁には擦り切れた毛羽立ちが見えるが、目盛りだけは刺すように鮮明だ。
まず玄関からリビングまでの距離を測り、次に畳の間の入口の幅を測り、最後に片方の端を梁に向かって投げた。
布尺の一端は、細い蛇のように梁の柱へと巻き付き、もう一端は御子柴の手に戻る。
彼が軽く引きしぼる。
その瞬間、家全体の空間がごくわずかに歪んだ。
廊下が、半歩だけ長くなったように感じられる。
リビングから畳の間までの距離は、「立ち止まってから、さらに二歩」余計にかかるようになった。
キッチンから玄関までも、目に映る長さは変わらないのに、いつもの床板に足を乗せるまで、なぜか二歩分多く歩かされる。
「家を守る人間は、家の寸法という寸法を何より知っている。」
御子柴は梁の上の劉立澄を仰ぐ。「さっきあなたは四隅歩で、この家に自分の印を押した。
僕がしているのは――あなたの歩幅を書き換えることだけ。」
つま先がひとつ、すっと動く。
玄関のあたりで、存在しないいくつもの靴の影が、一斉に家の内側へ一寸ぶん、ずり込む。
まるで「もう、ここに住み着こう」と決めたかのように。
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