86 / 109
第十五話 銀閣寺・背負わされた他人の人生(二)
しおりを挟む
東山の夜は、麓よりも静かだ。
柳澄原の借家はそれなりの広さがあり、門から玄関まで小さな石畳を踏んで進む。その両側にはきちんと刈り込まれた低木と一本の紅葉が植えられている。紅葉の葉はほとんど落ちてしまい、枝先に残った数枚だけが、玄関灯の光を受けてかすかに揺れていた。
玄関には靴が二足。
一足は彼がいつも履いている布のスニーカー。もう一足は綾女の下駄だ。かかとの木が細く摩耗しているのは、長年、厨房やカウンターの内側で立ち続けてきた証拠だった。
台所には明かりが灯っている。
綾女はコンロの前に立ち、袖を肘まできっちりとまくり、エプロンの紐をぎゅっと締めている。油のはねる細かな「ジュウ」という音が聞こえ、隣のオーブンの中では何かがゆっくりと色づきつつあった。空気には牛肉と香辛料がまじった濃い匂いが満ちている。
「また家を店代わりにしてるの?」
柳澄原は鞄を玄関に置き、笑いながら声をかけた。
「だって、あなたの家のキッチン、店より使いやすいんだもの」
綾女は振り向きもせず答える。
「それに今のあなたの肩、うちの店にはあんまり置いておきたくないのよね。あの符の灰、見られたら説明が面倒くさいし」
彼は自分の左肩に目を落とした。
昨夜、平安神宮の白砂が残した、どうにも落ちにくい跡がまだうっすら残っている。上からジャケットで隠してはいるが、彼女の目をごまかせるはずもなかった。
食卓の上には、すでに料理が並んでいた。
手の込んだ懐石ではない。ただ、腹いっぱいになりすぎず、きちんと満たされる程度に、ぴたりと計算された組み合わせだ。
大皿には厚切りの牛タンがいくつも重ねられている。表面にはこんがりと焦げ目がつき、縁には細い脂の輪が浮かんでいる──綾女が鉄のフライパンで弱火からじっくり焼き上げたものだ。たれには少量の醤油と柚子胡椒が使われていて、味は思いのほかさっぱりしている。牛タンの横には、皮がしわしわになるまで焼いた京都の小ぶりな玉ねぎが数個、切り口から甘い汁がこぼれ落ちそうになっている。
反対側には浅い土鍋が一つ。
中身は湯豆腐ではない。鶏がらと昆布で取った澄んだ出汁に、薄く切った鯛の昆布締めが数枚浮かんでいる。昆布に挟んで寝かせた鯛の身は、熱い出汁をかけられると縁がほんのり反り返り、半生のところで香りを放つ。鍋底には水菜と牛蒡の細切りが沈んでいて、魚の旨味をいつまでも伸ばしてくれる。
卓の隅には京野菜の天ぷら。
賀茂茄子は厚めの輪切りに薄衣をまとわせて揚げてあり、外はさくりと、中はとろりとした果肉が残っている。万願寺唐辛子は皮に小さな泡が浮かぶまで揚げられ、かじると最初にほろ苦さ、すぐ後から甘さが立ち上がる。舞茸は小さな手のひらのように広がるまで衣を纏って揚がり、塩をつけて食べれば木が炙られたような香りが鼻に抜けた。
最後に、小ぶりの焙じ茶の急須と、水無月が二切れ。
水無月は三角形に切られ、透けるような白い層に小豆がびっしりと詰まっている。夏の名残の習慣──綾女は「これはね、『少しずつ借りを返していく』感じがして好きなんだ」と言い、秋になっても作り続けていた。
「まだ龍脈には怒られてないみたいね」
綾女は最後の天ぷらの皿を置きながら、席についた。
「少なくとも、ちゃんとご飯は食べられてる」
「怒るような真似はしてないよ」
柳澄原は牛タンを一枚つまみ、ついでに彼女の皿にも一枚置いた。
「せいぜい、向こうからこっちに仕事を放り投げてくるくらいだ」
牛タンを口に入れる。まず香ばしい焦げ目の香りが広がり、そのあとで繊維が歯の下でしなやかにほどける。柚子胡椒が舌の上でふっと揺れ、脂の重さをさらっていき、代わりにほんの少し辛さの香りだけを残していった。
「今日の支流は、ちょっと変わってた」
彼は言う。
「哲学の道のほう?」
綾女は自分の椀に鯛の出汁をよそいながら尋ねた。
「うん」彼は頷いた。「失敗でもないし、留守番でもない。正史から切り捨てられたものでもない。どちらかと言えば……」
言葉を探すように、少しだけ間をあける。
「他人の人生を背負ったまま、ずっと歩いている人、って感じかな」
「本人は、その自覚があんまりないまま」
綾女はちらりと彼の顔を見た。
「女の人?」
「そう」彼はそれ以上は語らなかった。
二人はしばらく黙って、箸が器に触れる小さな音と、急須のなかで揺れる焙じ茶の香りだけが卓のあいだを満たした。
「このご飯を食べ終わったら、それでも行くつもり?」
綾女が聞く。
「行くよ」
柳澄原は窓の外、庭の紅葉に目を向ける。
「一度見てしまった以上、見なかったふりをするのは難しい」
綾女は小さく笑った。その笑いには、少し諦めの色が混ざっている。
「お金にも時間にも余裕のある留学生なんて、腐るほど見てきたけどね」
彼女はふっと息を吐いた。
「自分から『龍のアルバイト清掃員』なんて職務を背負う物好きは、一人しか知らないわ」
「実家から仕送りもらってる以上、何かしないとね」
彼も笑う。
「何もしないのはさすがにバチが当たりそうだし」
ふたりはほとんどきれいに皿を空にし、それぞれ水無月を一切れずつ口に運んだ。焙じ茶の温かさが、腹の底にこもった熱をやわらかく落ち着けていく。
出かけるとき、綾女は自分のマフラーを首に巻き、ついでに彼のコートの襟を少し立ててやった。
「今夜は風が冷たいからね」
「他人の人生ばかり気にしてないで、ちゃんと自分の命も帳簿に書いておきなさいよ」
柳澄原の借家はそれなりの広さがあり、門から玄関まで小さな石畳を踏んで進む。その両側にはきちんと刈り込まれた低木と一本の紅葉が植えられている。紅葉の葉はほとんど落ちてしまい、枝先に残った数枚だけが、玄関灯の光を受けてかすかに揺れていた。
玄関には靴が二足。
一足は彼がいつも履いている布のスニーカー。もう一足は綾女の下駄だ。かかとの木が細く摩耗しているのは、長年、厨房やカウンターの内側で立ち続けてきた証拠だった。
台所には明かりが灯っている。
綾女はコンロの前に立ち、袖を肘まできっちりとまくり、エプロンの紐をぎゅっと締めている。油のはねる細かな「ジュウ」という音が聞こえ、隣のオーブンの中では何かがゆっくりと色づきつつあった。空気には牛肉と香辛料がまじった濃い匂いが満ちている。
「また家を店代わりにしてるの?」
柳澄原は鞄を玄関に置き、笑いながら声をかけた。
「だって、あなたの家のキッチン、店より使いやすいんだもの」
綾女は振り向きもせず答える。
「それに今のあなたの肩、うちの店にはあんまり置いておきたくないのよね。あの符の灰、見られたら説明が面倒くさいし」
彼は自分の左肩に目を落とした。
昨夜、平安神宮の白砂が残した、どうにも落ちにくい跡がまだうっすら残っている。上からジャケットで隠してはいるが、彼女の目をごまかせるはずもなかった。
食卓の上には、すでに料理が並んでいた。
手の込んだ懐石ではない。ただ、腹いっぱいになりすぎず、きちんと満たされる程度に、ぴたりと計算された組み合わせだ。
大皿には厚切りの牛タンがいくつも重ねられている。表面にはこんがりと焦げ目がつき、縁には細い脂の輪が浮かんでいる──綾女が鉄のフライパンで弱火からじっくり焼き上げたものだ。たれには少量の醤油と柚子胡椒が使われていて、味は思いのほかさっぱりしている。牛タンの横には、皮がしわしわになるまで焼いた京都の小ぶりな玉ねぎが数個、切り口から甘い汁がこぼれ落ちそうになっている。
反対側には浅い土鍋が一つ。
中身は湯豆腐ではない。鶏がらと昆布で取った澄んだ出汁に、薄く切った鯛の昆布締めが数枚浮かんでいる。昆布に挟んで寝かせた鯛の身は、熱い出汁をかけられると縁がほんのり反り返り、半生のところで香りを放つ。鍋底には水菜と牛蒡の細切りが沈んでいて、魚の旨味をいつまでも伸ばしてくれる。
卓の隅には京野菜の天ぷら。
賀茂茄子は厚めの輪切りに薄衣をまとわせて揚げてあり、外はさくりと、中はとろりとした果肉が残っている。万願寺唐辛子は皮に小さな泡が浮かぶまで揚げられ、かじると最初にほろ苦さ、すぐ後から甘さが立ち上がる。舞茸は小さな手のひらのように広がるまで衣を纏って揚がり、塩をつけて食べれば木が炙られたような香りが鼻に抜けた。
最後に、小ぶりの焙じ茶の急須と、水無月が二切れ。
水無月は三角形に切られ、透けるような白い層に小豆がびっしりと詰まっている。夏の名残の習慣──綾女は「これはね、『少しずつ借りを返していく』感じがして好きなんだ」と言い、秋になっても作り続けていた。
「まだ龍脈には怒られてないみたいね」
綾女は最後の天ぷらの皿を置きながら、席についた。
「少なくとも、ちゃんとご飯は食べられてる」
「怒るような真似はしてないよ」
柳澄原は牛タンを一枚つまみ、ついでに彼女の皿にも一枚置いた。
「せいぜい、向こうからこっちに仕事を放り投げてくるくらいだ」
牛タンを口に入れる。まず香ばしい焦げ目の香りが広がり、そのあとで繊維が歯の下でしなやかにほどける。柚子胡椒が舌の上でふっと揺れ、脂の重さをさらっていき、代わりにほんの少し辛さの香りだけを残していった。
「今日の支流は、ちょっと変わってた」
彼は言う。
「哲学の道のほう?」
綾女は自分の椀に鯛の出汁をよそいながら尋ねた。
「うん」彼は頷いた。「失敗でもないし、留守番でもない。正史から切り捨てられたものでもない。どちらかと言えば……」
言葉を探すように、少しだけ間をあける。
「他人の人生を背負ったまま、ずっと歩いている人、って感じかな」
「本人は、その自覚があんまりないまま」
綾女はちらりと彼の顔を見た。
「女の人?」
「そう」彼はそれ以上は語らなかった。
二人はしばらく黙って、箸が器に触れる小さな音と、急須のなかで揺れる焙じ茶の香りだけが卓のあいだを満たした。
「このご飯を食べ終わったら、それでも行くつもり?」
綾女が聞く。
「行くよ」
柳澄原は窓の外、庭の紅葉に目を向ける。
「一度見てしまった以上、見なかったふりをするのは難しい」
綾女は小さく笑った。その笑いには、少し諦めの色が混ざっている。
「お金にも時間にも余裕のある留学生なんて、腐るほど見てきたけどね」
彼女はふっと息を吐いた。
「自分から『龍のアルバイト清掃員』なんて職務を背負う物好きは、一人しか知らないわ」
「実家から仕送りもらってる以上、何かしないとね」
彼も笑う。
「何もしないのはさすがにバチが当たりそうだし」
ふたりはほとんどきれいに皿を空にし、それぞれ水無月を一切れずつ口に運んだ。焙じ茶の温かさが、腹の底にこもった熱をやわらかく落ち着けていく。
出かけるとき、綾女は自分のマフラーを首に巻き、ついでに彼のコートの襟を少し立ててやった。
「今夜は風が冷たいからね」
「他人の人生ばかり気にしてないで、ちゃんと自分の命も帳簿に書いておきなさいよ」
0
あなたにおすすめの小説
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。
それは愛のない政略結婚――
人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。
後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。
【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです
* ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)
倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女
海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。
猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。
転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。
しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。
取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。
澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。
紅葉に消える恋
秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。
火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~
秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。
五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。
都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。
見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――!
久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――?
謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。
※カクヨムにも先行で投稿しています
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる