京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十五話 銀閣寺・背負わされた他人の人生(一)

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 夕方を少し過ぎたころ、銀閣寺の拝観はすでに終わっていた。

 山門の外へ続く石段には、昼間の観光客たちが残していった水の跡がまだ薄く残る。哲学の道のほうから届くざわめきは、ここまで来ると遠い羽音のような響きに変わり、もう一歩先へ進めば、観光パンフレットのいちばん最後に小さく書かれた一文──「どうかこの先はご遠慮ください」に行き当たる。

 彼女は、その「立入禁止」と刻まれた石碑のわきにある、低い石に腰を下ろしていた。

黒いビジネスバッグが右足のそばにきちんと立てかけられ、左の肩には、ごく普通に見えるリュックサックがひとつ。布地は少し色あせているのに、肩ひもだけが妙に新しく固い。つい最近取り替えたばかりの、それが物語る硬さだった。

ただ、そのリュックの重さは、どう考えてもおかしかった。

中身がノートパソコンと資料だけなら、布があんなふうに引き下ろされることはない。着替えと化粧ポーチくらいなら、肩ひもがあそこまで皮膚を食い込ませることもない。鎖骨から少し下にかけて、細い一本の線がうっすらと凹んでいる──長いあいだ、あり得ない重さの荷物を背負い続けてきた者にしか刻まれない痕跡だった。

彼女の名は八坂深雪。

東山にある広告代理店の中堅社員。担当クライアントのリストには全国区の企業がいくつか並び、名刺の見栄えも肩書きの響きも悪くない。笑顔だって、何度も何度もプレゼンの場をくぐり抜けるうちに磨かれて、「会社案内」のページに載せるのにちょうどいい角度を覚えてしまった。

ただ今は、その笑顔はどこにもなかった。

彼女は右手のスマートフォンの画面を点けては消し、消してはまた点ける。メッセージの一覧には、両親からの「弟も最近いろいろ大変だけど、がんばってるよ。お姉ちゃんも負けないでね」という一文。上司からの「今回の企画は君にかかっている」。そして一番上段には、何年も会っていない相手からのメッセージが固定されている──「あの時、俺も東京に行っていればよかったな」、たったそれだけ。

彼女自身は、一度も東京へ行ったことがない。

京都に残り、大学進学のときは両親の勧めどおり「就職率がいい学部」を選んだ。卒業のときは指導教員の勧めどおり「成長性のある会社」に入り、部署を異動するときも上司の勧めどおり「君の強みを生かせるポジション」へ移った。

そのどれもが、決して悪い選択ではなかった。

悪かったのは──毎回、彼女がその道を「誰かの人生が進むべきルート」として受け取り、自分が代わりに歩いてしまったことだ。

弟が「俺の成績でもう少しよければ、あの大学に入れたのにな」とこぼせば、彼女は必死にその大学に食らいついた。

同級生が「大企業に入れたらいいよな」と漏らせば、彼女は残業に残業を重ね、その“大企業”のために完璧な企画書を作り上げた。

あの人が「俺には地元を出る度胸なんてない」と笑えば、彼女は「出る」ほうの道もそのまま封印し、「もしあの時」というため息ごと背負って前へ進んだ。

彼女の背中のカバンの中には、ノートパソコンだけが入っているわけではない。

龍脈の目から見れば、そのリュックは異様なほど膨れ上がっていた。

書類ではなく、折りたたまれた「他人の人生」が巻物のように幾重にも詰め込まれている──弟が本来なら他県の大学で過ごせたかもしれない数年間。元恋人が本来なら東京で賭けてみるはずだった青春。両親が本来なら、古い家を売って小さなマンションへ移る計画。

一本一本の巻き紙に記されている名前は、どれも他人のもの。

だが、それを背負っている肩は、彼女ひとりの肩だった。

銀閣寺の砂庭は、その門の奥で静かに広がっている。

白い砂で描かれた枯山水は、薄闇のなかで淡く光を帯びている。かつてその上に貼られるはずだった銀箔は、結局最後まで貼られることはなかった。その欠落の層のせいで、楼閣全体が、いつまでも埋められないまま宙に浮いた一つの文のように見える。

深雪の視線は山門の向こうを越え、暗がりのなかに沈むその楼の影へと伸びていった。

「あなたも、そうなんでしょうね」

彼女は小さくつぶやいた。

「『銀閣』なんて呼ばれながら、一生、誰かの想像した姿を背負って生きてる」

そう言い終えると、彼女はゆっくりと立ち上がった。

その瞬間、肩にかかったカバンのひもがぎゅっと引かれたように見えた。

リュックのファスナーの隙間から、目には見えない細い影がいくつも漏れ出してくる。看護師の制服を着た影。バンドTシャツを着た影。サイズの合わないスーツを着た影──本来なら彼女とは無関係の人生のルートが、糸のようにファスナーの隙間からあふれ出て、彼女の手首や足首に絡みついていく。

彼女はそれらを見ようとはしなかった。ただ手を上げて、少し型崩れしかけた自分のジャケットの襟を整えただけだ。

「今日からはね」

深雪はかすかに笑って言う。

「少なくとも、一つだけは止める」

山から吹き下ろす夜風が、銀閣寺の門前に吊られた小さな灯籠を揺らした。

空気のなかで、龍脈の支流がそっと方向を変える。ほんのわずかだが、確かに別のほうへ向かって。
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